最終章:えんまー上ー
緋い空から剣戟が鳴り響いてきていた。
ここ逢魔街における逢魔ヶ刻にたびたび起こる現象だった。
街全体を覆う激しい刀と刀が、ぶつかり合う響き。戦う姿を目に捉える者はいなかったが、遥か上方は戦場と化していることは疑うべくもない。
これくらいのことで、いつまでも驚いていては、ここで生きていくなど出来ない。
ある超高層ビルの屋上だった。
他に並びはない高度にあり、特殊なガラスによって囲われている。余程の要人でなければ立ち入れない場所としての要件を満たしていた。
実際に設置された望遠鏡を覗く老人の周囲には警護と思われる人物たちがひしめいている。
「なにか見えまして?」
不意に聞こえてきた女性の艶ある声だ。
容貌を隠すサングラスに黒いライダースーツにも似た服装で固めた警護の者たちに緊張の空気が流れていく。
髪を結う着物姿でしずしず歩み寄ってきていた。相応の歳はいっているようだが、美しいには違いない。
だが姿を現した女性は予定の訪問者ではなかったらしい。
引き連れている者も少なからずいれば、一発触発めいた緊張が漂ってくる。
「よいよい、昔から知る客人じゃ。遠慮など要らぬと普段から伝えておる相手じゃ」
接眼レンズに目を当てたまま老人が、止せとばかり手を振る。
ぴたりと黒き格好した警護者たちは敵意を消して直立不動の体勢へ戻した。
警護の間を抜けて和装の女性は望遠鏡を覗く老人の傍らで足を止めた。
「いかがですか、我が息子たちの様子は」
静香殿、と呼んだ老人はようやく望遠鏡から目を離した。
薄くなった白髪を後ろに流すように固めている。鼻筋が突出した鉤鼻をした白人である。
「いろいろ試しておるが、ちっとも目にすることが出来ん。ここずっと眺めておるが、音ばかりじゃ、確認できるのは」
ほほほ、と上品な笑いを立てた静香と呼ばれた女性だ。
「ここは逢魔街で、今は逢魔ヶ刻ですわ。電波を初めとして何が遮断されているか、わかりませんもの。やはり人間の作ったものではなく、その筋に特化した能力を所有した者を見つけるが宜しいんじゃなくて」
「どうじゃろな。そこそこの能力では見つけられるものかどうか。静香殿の息子たちは、なにせ優秀ですからの」
そう答えた老人が笑い、静香もまた釣られるように笑おうとした。
桜の花びらが彼らの周囲に渦巻いた。
視界を奪うほど大量さであったが、出来事としては一瞬だ。
薄い紫みの赤が嘘のように消滅していけば、現れるは倒れ伏す人の群れだ。どちらの護衛者も気を失っていた。
突然の異変にも関わらず、静香は余裕のまま挨拶をかけた。
「お久しぶりです、華坂様。内山様もご一緒のようですね」
横たわる護衛の者たちの間を杖をついた華坂爺がゆっくり歩んでくる。すぐ後ろには禿頭の内山爺がいつになく厳しい顔つきで付き従っていた。
「貴女には儂らが生きていて、さぞかし残念でありましょうな」
静香と呼ばれる女人を貴女と呼ぶ華坂爺の皮肉めいた言い回しだ。
ほほほ、とこちらも上品そうながら企みを匂わせる響きで返した。
「いやですわ。なぜ私が華坂様の生存を願わないとお思いですの。お歳を召して猜疑心が強くなられたのかしら」
「抜け抜けと言い放たれるところが、さすが黎銕家当主でありますな」
コンッと華坂爺が右手にした杖で強く打ち鳴らす。ここまで歩行の際に突いてきたはずだが、ここで初めて杖から音が立った。
招かざる来訪者の怒りを代弁するような音響にも、黎銕静香の態度は平静のままだ。
「なにか誤解なさっているようですわ。私たちはこの国に出現した摩訶不思議な街の対策へ表立って動けない公的機関に代わって行うしかなかったのです。影の仕事ですもの、当然ながら犠牲は付きものですわ」
「そうたらし込まれてしまったわけですな、儂らは。倒すと向かった相手にこちらの動きが筒抜けでは勝ちようがない。まさか逢魔七人衆は貴女の手の内の者たちであったなど、あの件で散った四人が知ればさぞかし無念だったでしょうな」
華坂爺は垂れ下がった瞼から覗く目を、ぎらりと光らせた。
ふふふ、と今度は上品からは程遠い含み笑いの静香だ。
「いろいろ調べが進んでいるようですわね。先の短いご老体なれば、下手な詮索などしないほうが心穏やかに逝けるというものですよ」
「その先が解らぬから儂らは苦労している。もっともそれが欲しいのじゃろ、お主ら」
華坂爺の話しを向ける先が、静香の近くにある老人も含んだ。
くくくっと謎の老人は忍び笑いを立てる。こちらは不気味そのものだ。
だが話しをするのは自分の役目だとばかり静香が、ずいと身体を向けた。
「華坂様がどうやってこの場を嗅ぎつけたか存じませぬが、以前とは比べものにならないくらい厄介な存在となっていることは理解しました」
「わかったなら、どうするつもりじゃ」
「それはもう、言わなくても解っておりますでしょ」
にやり、とする静香の笑みは、まさに邪悪以外のなにものでもなかった。
華坂爺と背後にある内山爺を囲むように次々と立ち上がってくる。
老人と静香の護衛に付く黒き装備で固めた者たちが取り囲んだ。
「華坂様程度の能力ならば対策は万全なすってよ」
口許を押さえて嘲る静香だ。しかし気品を湛えた柳眉が歪むのも早かった。
思いも寄らない先制攻撃は想像以上に激しかった。
カイザーナックルを嵌めた拳を振るう内山爺は問答無用とばかりだ。自分の近くにいる護衛の者から片っ端から潰していく。血塗られていく手を止めることなく、相手の顔面を砕き、肉体を穿つ。
あまりの凄惨さに護衛を役目とする黒き輪が退いたほどだ。
「相変わらず下品な男ね」
顔をしかめる静香の目には軽蔑の色が浮かんでいた。
もっとも女性からそのような目つきを受けることには慣れた相手だ。
「下品じゃなくても下劣なんです。だけどそんなうっちーでも、静香さんだけはヤリたくならないです」
まっ、と静香が珍しいと思われる憤りを表情に滲ませた。
ただ怒りはふざけているような内山爺のほうが強かったかもしれない。
「うっちーは多田爺と八重さんみたいな素敵な人たちをあんな酷い最期へ迎えさせた相手を放っておけないです。ええ、絶対に」
「まぁ、まるで私が犯人みたいに仰ること。勝手な決めつけは宜しくないですわよ」
否定する静香は断固とした口調である。真実と思わせる強さがあった。
しかし華坂爺は静かゆえに鋭利な声で言う。
「では、なぜ亡くなったとされる人物といらっしゃるのですかな。どうやらずいぶん親し気なご様子であれば、古くからの知り合いに見えますな」
「誰だが、ご存じなの?」
少し前では予想ができないくらい静香は険しく問う。
ええ、と答えた華坂爺は、コンッと杖をついてからだ。
「セデス・メイスン。かつて世界有数の富豪で、裏の権勢者とまで噂された人物であり、ラーダ・シャミルという能力者によって殺害されたはずでしたな」
ふぉっほっほ、と正体を指摘された老人が大きく笑った。