第8章:虹彩ー006ー
紅い目が向ける先に袴の朱色が鮮やかな千早の巫女姿があった。にっこり笑っている。何も変わっていないはずの表情……しかし今先までとは印象がまるで違う。凄まじい気を感じさせてくる。
円眞……、と呼ぶ黛莉の声は不安に満ちていた。
夬斗の拘束から解けた真紅の円眞は背筋を伸ばす。
「あれは鬼の長女だ、変化系における最大の能力者だからな。我れと対等にやり合うチカラを持っているわけだから、いつかと考えて当然だ。陽乃もまた百年前の出来事を忘れられない一人だしな」
「じゃ、円眞はまた狙われるの」
真紅の円眞は、ポンポンと黛莉の頭を優しく叩いた。
「なに、我れを超える能力者など、そうはいないぞ。それに複数がかりでこられても、黛莉や親友のそばにいれば何とかなる、と今回で判明したわけだしな」
「そっか、そうだね。あたしが守るんだ」
うんうんとうなずいている黛莉に、夬斗が笑いかける。
「それに我が妹よ。兄さんはまだ本気のチカラを出していないんだぜ」
「大したことないかもしれないじゃない」
ばっさり切り捨てる黛莉に、「かわいくねー」となる夬斗だ。
和須如の間に不穏な空気が流れ出すなか、真紅の円眞は生真面目に告げた。
「ふたりとも、これからも我れを頼む」
おーい、と華坂爺の呼ぶ声がする。行きましょ、と八重も促してくる。
うなずき合う、真紅の円眞と黛莉と夬斗。三人の間に言葉はいらない。敵対していた相手たちに背を向けた。いずれまたはあるだろうが、現在はこれ以上争う意味はない。
今日はうちが出すわよ、と八重が言えば、歓声に似た喜びを和須如兄妹と内山爺が挙げた。お主もか? と華坂爺の牽制に、「いいじゃないですか」と内山爺が口を尖らせている。今日は特別ですから、と多田爺の顔はにこやかである。
真紅の円眞もまた和須如兄妹に挟まれる形で歩き出す。
「そうそう、円眞が好きなものだけど」「せっかくの奢りだ、どこがいい、円眞」
両方からいっぺんに声をかけられて、真面目に考え込む真紅の円眞だ。
ところでお店ってやっているかしら? と八重が気がついたように挙げた。避難勧告を触れ回った当人たちである。ぎょっとなった和須如兄妹にジィちゃんズだが、笑って誤魔化していた。
平和な一時のなか、ふと紅い目が鋭く閃いた。
「来る」
上空を仰ぐ真紅の円眞に、どうしたのかと誰もが問いかけようとした。だが誰も訊くまでに至らなかった。
「気をつけろ!」
真紅の円眞から、初めてと言っていいほどの焦りを滲ませた声が発せられた。両手に神のチカラとされる火と氷の剣が握られている。
皆の前へ立ち塞がる真紅の円眞が双剣を振るう相手は上空からやってきていた。小さな白いロケットのようなものが音もなく群をなして飛んでくる。
黛莉は瞬時にガトリング式の重火器を発現させて撃ちまくる。夬斗は両手で能力糸を広げる。多田爺は透明なる防御壁を築く。そして真紅の円眞は一発とて逃さぬ火の剣の刃が幾重にも分かれて迎撃へ向かう。
爆発による黒煙が頭上を巻いた。
火花混じりの爆炎を突き抜けてくる。ロケットなどではない、小型の弾道ミサイルだった。
「避けろ!」真紅の円眞が叫ぶ。
間一髪で誰もが避ければ、何本もの白いミサイルが地面へ突き刺さっていった。
「なんでだよ、全部ヒットしたはずだろ?」
夬斗が信じられないとばかりだ。黛莉だけでなく真紅の円眞の能力でさえかい潜られていた。
逢魔街の神々が集う場所は、さらなる攻撃にさらされていた。
風と雷に地ばかりでなく光の能力もある。剣化しなくても、充分な威力を誇っている。世界最強のチカラが集約されているはずだ。
それら全ての能力を突き抜けて弾道ミサイルが襲う。
烈風や稲妻を物ともせず、大地からの壁は破られ、放たれた無数の光の矢は跳ね除けていく。悲鳴と苦鳴が挙がるなか、夕夜が陽乃を、奈薙が悠羽を庇う。マテオは瞬速の能力をもって流花を助けていた。
間を空けず、第二波が飛んできた。
真紅の円眞の刃が割れて対象へ向かうが、全てを捉えられない。黛莉の弾丸は効かず、夬斗の網の目状に広げた糸は半数以上の侵入を許す。多田爺の防御壁は突き刺されることで、かろうじて喰い止めていた。
逢魔街の神々の方は特化した防御力を有する者がいなかった。能力を発揮するには傷が重い夕夜と奈薙だ。莉音と新冶の能力は攻撃性で粉砕できなければ、打つ手がない。悠羽が効力を及ぼすにはそのモノ自体に触れられなければならない。流花は見通す能力であり、マテオは早さであるから攻撃力があるわけではなかった。
撃ち込まれる量も真紅の円眞たちがいる場所と比較にならないほど多かった。まさしく阿鼻叫喚の絵図が展開していた。
「アンチ・スキル……」
呟くように言う真紅の円眞に、「えっ?」と黛莉が聞き返す。
「雪南という女を救出する際、対能力者用の装備を身に付けたとする連中がいたな。どうやら開発は進歩を越えて進化まで遂げていたようだ」
それって……、と黛莉が言いかけた口を閉ざすほどの事象が起きた。
巨大な黒い影が周囲を覆い尽くしていく。
影は頭頂にツノを生やしており、筋骨逞しい身体だ。鬼と表現できる姿は、優に百メートルを超える体長をしている。変身系の能力だとしたら、桁違いのスケールだった。
巨獣のごとく聳え立つ鬼は正面で、対能力者用と思われる弾道ミサイルを受け止めていた。徹甲弾であるため、表皮を突き破っていく。乱杭歯の口から苦しみの咆哮が挙がる。けれども両腕を広げたまま退くことはない。
後背の者たちを守るため、身体を投げ打っていた。
「陽乃さーん、ダメだ。もういいから、やめてくれー」
どこからそこまで出ると言うくらい大きな、夕夜の悲痛な叫びだ。耳にする誰もの胸を締め付けてくる。
真紅の円眞もまた周囲の者へ切羽詰まった声で指示を出す。
「あのミサイルは能力に反応しての誘導装置を備えているのだろう。飛んでくる数から推測すれば、強き方へより反応を示すようだ。だから皆はこの場から離れろ」
「円眞は?」黛莉が訊く。
「我れと逢魔街の神々が引き付けているうちに行くんだ」
「イヤ!」
黛莉の即答に、真紅の円眞の口許は一瞬、緩みかけた。が、すぐに引き締められれば説得を開始しようとした。
第三波が襲ってきた。
予想より効果は上がらなくても、円眞は火と氷の剣を振るう。
巨大な鬼となった陽乃がその身を翳し続ける。
多田っ、と華坂爺が前面に立って防御壁を展開する多田爺へ引き揚げるよう呼んだ。
「私のことはいいから、皆さん、早く……」
懸命に両手を突き出して能力を発現させている多田爺の目前が、砕けた。防御壁に刺さっていた対能力用の小型弾道ミサイルが、決壊したダムから雪崩れ込んでくる水流のごとく小柄な老人の身体へ覆い被さっていく。
誰もが声を失うなか、あなた! と八重が駆け寄っていく。ダメだ、と気づいた夬斗が慌てて止めようとしたが間に合わない。
仰向けで倒れている多田爺の手と足は、それぞれ片方ずつ失われていた。そして腹部には大きな穴が開いていた。
あなた、と八重が膝を折ってすがりつく。
多田爺は半目で泣き腫らした妻の顔を見た。意識があるだけでも不思議な状態だった。
「……バカ、何をやっておる……早く逃げろ」
「もういい、もういいんです。どうせこの場を逃れたって、どれくらい保つかわからない身体なんですから」
絞り出す夫の声に、激しく首を横に振りながら八重が答えた。げほっと血を吐いてから多田爺は掠れ掠れで伝えてくる。
「すまんな……看取ってやるはずが、看取らせる側にさせてしまって……」
「いいんです。あなたが約束を守って地下水道までやってきて救ってくれた時から、私はずっと最後まで共にあると誓ったんです。だからもう、いいんです」
多田爺の胸に顔を押し当てる八重へ、一発のミサイルが向かっていく。
真紅の円眞は気がついて、上空から身を翻して追う。憤怒の形相をした和須如兄妹の乱射と大量の糸が向かう。
多田爺と八重を目がけるミサイルに、真紅の円眞は間に合わず、和須如兄妹の能力は打ち破られる。先鋭化された徹甲弾に押し潰され、血肉の破片が撒き散らされていった。
そんな……、と黛莉ががくりと膝を落とした。
くっ、と夬斗が悔しさを滲ませていた。
多田……、と華坂爺は名を口にするだけで茫然自失の態だ。
内山爺はぐっと拳をきつく握りしめていた。
膝を落とした黛莉の肩に、そっと置かれる手があった。
黛莉が仰げば、そこには真紅の円眞がいた。いつもと変わらないようでいて、普段とはまるきり違う顔をしている。少なくとも黛莉の目には、そう写った。
「我れの責任だ、多田と八重が死んだのは」
「な、なに言って……」
黛莉の否定を遮って、真紅の円眞が深い息を吐くように言う。
「我れが、我れこそが世界の敵だった。そこを失念していたから起きた悲劇だ」
黛莉には、嫌な予感しかしない。慌てて立ち上がっては、腕を伸ばす。掴んでおかなければ、という得体の知れない予感からだった。
真紅の円眞は、伸びてきた黛莉の右手を掴んだ。両手で握りしめていた。
じっと向けられる紅い瞳。そして真紅の円眞の唇が動く。
えっ? と黛莉が驚く間もなくである。
手を離した真紅の円眞は上昇していく。遥か上空まで飛んでいく。
豆粒ほどになった真紅の円眞へ、対能力用弾道ミサイルが飛んでいく。全てが地上へ向かわず、緋色に染まった夕闇の空を幾十もの航跡雲が一点へ向けて描かれていく。
遠い爆発音がすれば、逢魔街の上空を眩い光りが覆い尽くした。
「円眞ー!」
黛莉の悲痛な叫びに呼応するかのように虹彩が広がっていく。
空を見上げていた者の胸のいずれにも、不明ながらも喪失感を与え、美しくも悲しい想いを抱かせていく。
対能力用弾道ミサイルの窮地から脱した場所で、聴く者の身を引き裂くような慟哭が湧き起こった。