そして、少しずつ
いつもと変わらない日常。少したるいさもあるが何も起きない方がいいかもしれない。退屈な一日だからこそ安心していられる。刺激は時として過ぎれば毒にもなる。でも誰もがつまらないといいつつその恩恵を顧みない。何かあれば不安になり救いを求めて神に祈る。人とはわがままな物で平凡は嫌だと言いつつ非凡な事が起きれば慌てだして取り乱す。
いつものように電車に乗って揺られていくうちに、彼は妙なことに気づいた。さっきより人が少なくなっている。一瞬とまどうが知らないうちに駅で降りたという事にしてホームに降りた。
「あれ。やっぱり少ない」
男は周囲を見渡していつもの状況と違うことに違和感を覚えた。明らかにホームに降り立った人の数がいつもより少ないのだ。平日でもあり特に外出自粛要請もない普通の日常。
人々を見ると何故か口を開けても声が出ないようで、大半の人は池の鯉のように大口を開けて空気を吐き出している。男はそのうちの一人、小太りで髪を撫でつけた30代ぐらいのサラリーマンだろうか、彼に話しかけてみた。
「どうしました」
「はっはっ。はっはは」
笑っているのではなく口を開いて何か言いたそうだが声にならない。男はサラリーマンに対してしばらく見守っていたが。やはり彼は驚いた顔をしたまま口を開けて声にならない声を出していた。奇妙な沈黙が訪れる。時間の無駄だ。
「すみません急ぐんで」
男はサラリーマンを見捨てて改札口を抜けて駅に出た。駅でも大半の人が上を向いて口を開けて何か言いたそうにしている。
過呼吸かな。男は駅を出てから周囲を見渡すと老若男女全ての人が酸欠の魚の様にあえいでいる。ただ事じゃないぞと男は思った。交番を探して中に入ろうとした。
突然それは来た。いきなり何かすっぽりと覆われた形になり、意識が混濁した。他人の意識が脳に侵入して声高に喋りはじめる。
「「お前は誰だ俺をどうしようというのだなんで俺の中にいるんだお前は誰だ早く出てけよ」」
それはこっちのセリフだと思い男は喋ろうとしたが声が出ない。口を開いても声が出なくなり、先ほどのサラリーマンと同じ事しか言えない。
男は見た。目の前でお巡りさんが二人合体して一人になった。すぐに口を開けて声にならない声を出そうとしている。
「「そうか/お前は誰だ/俺も/早く出ていけ畜生/合体したんだな/何者だお前は」」
男は全てを悟り自己主張を止めた。合体した一人は最初声にならない声を上げていたがすぐに普通の声に戻った。
「なんだったんだ今のは。霊か何かか」
合体したもう一人の意識が声帯を占領し何事もなくしゃべり始めた。そして彼もまたすぐに隣の男と合体した。
人はどんどん減っていく。そして、少しずつ。