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うねる波は僕も何もかも打ち据える

 海は荒かった。俗に言う塩の華が何度も作り出されては消えていった。岩礁に打ち出された海水は幾重もの模様を彼の脳裏に打ち付けた。


 日本海の荒波、聞き飽きた言葉を傷ついた心身に浴びせたくて、ここへやってきた。電車を乗り継いで、たった一人で。


 麻礼直哉は、心と体が分離して行くような不快感に襲われている。身体は元気なのだが、心が病んでいた。彼はいきなり駆け出した。靴の裏が岩にこすれて、硬くて重い地球の悪意を感じている。ここがせめて砂地ならと、彼は願うのであった。


 岩場で駆け出すのは不安さを象徴していた。あいつがいない間、俺は何をすればいいのか、彼は途方に暮れていた。人生の目的がえぐり取られる様に胸には穴が開いている。そこから血潮がポンプのように吹き出す。そのような幻覚を、心が感じていた。彼の心には深いものが横たわり、正常な思考の邪魔をしていた。


 活動的に、常に剥き出しの心臓があたりかまわず拍動するように、息つく暇もなく生き続けていた。彼の生の実感は、性という爆弾を抱えながらも気を入れて躍動していたのだが、ある日突然一切合切を失われた。それは彼の生き方が招いたもので不可抗力だった。


 彼が彼である限りこの不幸は続く、彼が彼でなくなればこの不幸は終わりを告げるが、彼が彼でなくなることは現実の喪失を意味した。つまり彼の心は特殊だったので、現在の生存を許されていなかったのだ。また彼には根拠なき自信があった。なんとかなるだろうという自分の運命に対する甘えがあった。そこをひっくり返されたのだ。


 自暴自棄になり海に入るが、服が濡れたので不快になりすぐに出た。クラゲに刺されなかったのは不幸中の幸いだった。彼は海に向かって何かを叫んだ。もう日本語の体をなしてはいなかった。言葉にならない心の叫びだった。自分の中の混沌を声帯に託して、言語にならない叫びを繰り返す。海の生き物たちが彼の痛みに呼応して巣穴から顔を出すまで、この空虚な営みは続けられた。


 靴と脛を海水に濡れさせたまま、彼は電車をホームの椅子で待つ。その顔からは幾重もの筋が流れて頬に運河を作った。果たして彼はこのまま、まともに生活できるのだろうか。心を失い元気な体だけで生きるとは何なのか。脳は正常に機能せず、悔恨と未来への不安が彼をがんじがらめにしていた。


 電車が来て彼は乗った。その電車がどこに行くのか、どれくらいの時間をかけて家路にたどり着けるかは誰も知らない。彼の失われた心は別の世界でひたすらもがいている。わずかな可能性を信じて、できる限りの必死さで足掻いている。心と脳と身体がバラバラになり、先の未来は見えてこない。そのような有様を、もう一人の彼が観察して呟いた。


「最後ぐらい綺麗に行けよ」


 もう一人の彼は、平穏無事な着陸を望んでいる。熱狂を捨て去った日常への帰還をただ待ち望んでいる。彼が抱えていた熱狂は今の人生にはふさわしくない。枯れて生きることを時代と精霊が要求していた。打ち上げ花火は二度ときらめかない。


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