閑話06. 有為転変
寿告鳥が、空を渡っていく。
変化にその姿を借りるのは、余計な心配をしなくて済むからだ。
ある程度の高度を保って飛びさえすれば敵もおらず、吉兆を告げるこの鳥を撃とうとする輩もまずいない。
加えて、その大きな翼は風を捉えやすくできていて、老体にはもってこいだった。
王城の北尖塔を後にした鳥は、力強く2度羽ばたく。
それだけで、上空の気流を掴んでぐんと上昇すると、大きく旋回して王都の外れを目指した。
やがて見えてくるのは暗い森。
そしてその奥にあるのが、彼の現在の職場である魔術師養成学校である。
王城と似た造りの、それを一回り小さくしたような建物——中でも一番高い場所にある部屋を目指した鳥は、窓を通り抜けると同時に術を解き、ふわりと人の形で室内に降り立った。
軽く汗をかいた身体をさっと洗浄しながら、留守の間に溜まっていた書類に目を通し、急ぎの分には指示やサインを載せて送り返してから、ようやく椅子へと腰を落ち着ける。
この手狭さが落ち着くのだ。
彼は、深く長い息を吐く。
「……はあ、疲れたわい。あ奴に奥方の復帰話は禁句じゃの」
ぶつぶつと呟きながら、いつもの癖で首や肩を回せば、コキコキと骨の鳴る音がする。
最近は、長く飛ぶと体に堪えるのだ。
——だが、もう一仕事。
老人は丹田に力を込めて、呼吸を整え気合を入れなおした。
ゆっくりと上向きに掲げた手のひらに、驚異的な勢いで魔力を練り上げる。
そしてゆっくりと閉じた瞼の裏に、王城勤めの重臣たちを思い浮かべた。
思念鳩は、魔術師同士でなければ使えない。
だから本来なら、彼らへの通達は王城魔術師を介して行われる訳だが——。
『——ワシじゃ。5秒後に機密事項の通達を行う故、速やかに人払いをせよ。5秒以内じゃ、それ以上は待たん——』
王城では、突然重臣たちの目の前に前魔術師長が現れてこう告げたものだから、ちょっとした騒ぎになった。
彼のすることはいつも常識の範囲外だが、たまたま同席していた重臣たちの場には、同時に6体の老魔術師が現れたからである。
しかもその姿は穏やかに瞼を下ろし、うっすらと透けている。
さすがの彼もとうとう天に召されたのかと、勘違いされたのも無理なかった。
『——では、通達を行う。現魔術師長の奥方ミチャレイ・エグランテリアの王城復帰は、未来永劫無いと心せよ——』
老人は、自身の膨大な魔力量にまかせてそれぞれの相手の元へ、自身を投影させていた。
初めて見る現象に驚き固まっていた貴族たちは、突きつけられた決定事項の内容に、ようやくこれが老人からの通信であることに気づく。
上層部のみの話で密やかに進められていたある人事を、彼女の夫に打診した結果がこれなのだと。
納得いかないのは、奥方の復帰を押していた一部の貴族たちだ。
いきり立つ彼らの問いかけを、老人は一つ一つ聞き分けては辛抱強く応えていった。
『いいや宰相どの、逆じゃ。彼女の庇護者が彼なんでのうて、彼の首輪が奥方なんじゃ』
『そうじゃ長官どの、しかも奥方をそこへ戻すことを、彼自身が望んでおらん。ワシが復帰を打診しただけで、殺気が漏れとったからの』
『うむ、悪いがもう二度とごめんじゃ、軍曹どの。実はずいぶん怖い思いをしてのう。思わずこの話を、もう断った話じゃと偽ってしまうほどにの』
『ほいよ皆の衆。ワシとしては、それが最善に思う。奥方があ奴の元に居る限り、あ奴は忠犬すぎる忠犬じゃ。機嫌よく王城への協力させる方が、どれだけ安全で効率的か……そもそも、他に方法があるか?』
『なら、話はこれで終わりじゃ。宰相どの、万が一この話を蒸し返すことがあるんなら、その前に一言教えて頂けるとありがたいわい。ワシゃ騒動に巻き込まれんよう、隣国にでも避難できる猶予が欲しいんでな』
彼が発言する度に、徐々に静かになっていく重臣たち。
老魔術師は、最後の発言で皆の背筋を凍らすと、自身の幻影を消し去った。
一方、彼の目からは、消えてゆくのは彼らの方で。
遠見の瞼をそっと持ち上げれば、そこは見慣れた用務員室の風景だ。
と言っても、一般的に想像されるそれと、趣はずいぶん異なる。
三方向の壁にはそれぞれ、一面に作り付けた棚に、整然と陳列された薬品やその材料や、書物の束。一面だけが大きな窓を有していて、扉は存在しない。
彼が用務員を引き受けた時、彼自身が造った部屋だ。
窓が欲しくて、棚が欲しくて、削って困らないのが扉だった、だけのこと。
それより特筆すべきなのは、本来なら魔術師の部屋にはいらない物があるということだ。
老人はふうとため息をつくと、椅子を立って水がめへと歩み寄った。
柄杓で水を汲み、薬缶に移して火にかける。
窓辺に据えられた鉄製ストーブの中、なかなか大きくならぬ火を、愛おしく思う。
老人は、この部屋の私的な時間に限り、魔力を使わない生活を心掛けていた。
そうした試みに興味を持ったのは多分——あの青年の影響だろう。
これまで、適わないと思ったことなど、何一つなかった。
無尽蔵の魔力を自在に操って、何もかもを意志ひとつ、指先ひとつで行う日常——。
それを覆したのが、あの青年だったのだ。
ストーブの中の火が、やがて上部の鉄の皿を温め、薬缶に湯を沸かす。
水の重み、鉄の硬さ、火の熱。
老人は何も、知らなかった。
物を知らぬ人間が行使する魔術の、なんとあやふやなことか。
実際に手を動かし、体で感じてこなしていく日々の、なんと輝きに満ちたことか。
この年になって——いや、この年だからこそ。
老人は、あの青年との出会いに感謝すると共に、ささやかな不便を楽しんでいるのだ。
やがて、熱に踊る湯が、カタカタと蓋を持ち上げる。
老人は布を巻きつけた手で、薬缶をテーブルへと運んだ。
その重みは年々辛くなるが、ジワリと伝わる温みが心地よい。
蓋を取り、目を細めて白く上がる湯気を楽しむ。
一呼吸置いて茶の葉を振り入れれば、湯の中で、葉は鮮やかに本来の色を取り戻し、ゆっくりと開きながら香りを立て始めた。
蓋を戻して、しばし待つ。
やがて茶碗へと注いだお茶は、鮮やかな水色で老人を楽しませた。
「っち!」
もういいかと思って口を付けたお茶は、まだまだ熱かった。
何事も一筋縄ではいかない日々だ。
だがそれも、愛おしい。
こんな時、老人は、かの青年に思いを馳せる。
魔術などない世界を想像する。
もしも生まれ変わるなら——今度はそっちも面白そうじゃの、などと考えてみたりする。
だがその途端、「うぜーよジイさん、てめーはそっちでもっと仕事しろっ」となどと生意気を言う青年が、ありありと思い浮かんだりして。
「そうですよ、我が妻を守るためにも、まだまだ暗躍して頂かなくては」
無邪気の裏に妻への重い愛を隠した現在の魔術師長が微笑む。
「そうですとも。共にこの国の明日を担う子供たちを育みましょうぞ」
大胸筋を盛り上げながら園長が誘う。
いつかの晩餐のように、和やかに。
想像の中で、あの日、料理を担当した見習いの娘だけが、あの頃のままで笑っていた。
異界の青年に焦がれるあまり、死へと手を伸ばす彼女になる前の、あの頃のままで。
悲しいことは、たくさんある。
だがいつも、信じた最善を選んできたはずだ。
恵まれた魔力と、それを活かせるこの世界。
貴重な数多の出会いに、感謝があふれる。
胸に満ちる幸せを感じて、老魔術師は、嗤った。




