閑話03. 大願成就
寿告鳥が、空を渡っていく。
広げた翼の内だけが白いその鳥は、地上では黒っぽく地味な姿だが、飛び立てば眩い白に転じて輝く。
吉兆を告げるという意味の名の由来だ。
今も、自宅を出てきたばかりの女が空を仰ぎ、鳥を見つけて心を弾ませた。
彼女の視線の先で、鳥は大きく旋回する。
女は扉に錠を落とすと、手にした包みを大事に抱え直す。そうして向かうのは、先生と慕う魔術師の家だ。
仕事に没頭すると昼夜なく、食事も取らず何日も過ごしてしまう彼を、強制的に休憩させる。彼女がなんとなしにその役目を引き受けるようになったのは、単に同じ村に住むよしみで、かつ以前は彼に、彼女が薬を処方していたからだ。
それが、義務ではなくなったのは、いつの頃だったか——。
腕の中の包みは、じんわりと温かい。
割れないように、ではなく、冷めないようにとの思いで、この器へと厚布を巻き付け始めた時からかもしれない。
中身は、男への差し入れ。
彼女の手料理だった。
「匂いが、これほど意識を引き寄せるというのは面白い」
女の手際を眺めながら、研究の手を止めた魔術師の男は呟いた。
器を並べる音はリズミカルで、木造りのテーブルならではの音の柔らかさが耳に心地よい。
誰に言うとでもなしにこぼしたその声を聞きつけた女が、空色の瞳で軽く男を睨み上げた。
「そうやってなんでも研究対象にしようとするのはやめてください。先生はただ食いしん坊なだけです」
ぴしゃりと言い捨て、テーブル上を見回して満足そうにうなづく。そして女は、自ら持ち込んだ鍋のふたを取った。
強く漂い始めるトマトと香草の香り。
「未だ先生と呼んでくるのはお前だけだぞ、全く……。ほんの一年の再履修を受け持っただけで、しかもそれも修了して、もう何年経つと思ってる」
全身洗浄を自身にかけながら食卓にやってきた男は、それでもうねる焦げ茶色のくせ毛をかき上げながらぼやいた。
女がすかさず言い返す。
「それを言うなら私にだって、お前ではなく、アリッサという名があります」
これまで、何度となく繰り返されたやり取り。
椀によそわれ、差し出されたシチュ—の湯気の向こうで、女の表情は見えない。
だからだろうか、男は、己の内で幾度となく反芻しては忘れようと努めたその言葉を、無意識に口にしていた。
「王城に勤める限り、魔術師の名は王の元だ。俺がその名を呼ぶために、城を辞する気はあるか」
「!」
息を飲んだ女に、男が畳みかける。
「俺は別に、食に卑しいわけじゃない。お前のメシが美味いだけだ。それに、俺が言ったのはメシの匂いじゃなくて——」
男は、真っ赤になってしまった彼女へと手を伸ばす。その細い腰へと己の腕を回し、逆の手の甲で小さく震える頬を撫でた。
「——お前の匂いだ。全く……こんな、ただの草や実が、なぜこうも美味そうなんだろうな? 逃げるなら今のうちだが」
そう言いながらも男の腕は、緩むどころか力を込めて女を膝へと抱え上げ、頬から髪へと移った手は艶やかな亜麻色のひと房を掴んだ。
もう十分に待った。迷った。だからもう、逃がす意志はない。
青色の視線で縛りながら、静かにゆっくりと、でも確実に亜麻色の髪へとくちづける。
びくりと身じろぎした彼女の、花と草の香りが濃くなった。
彼女の匂い。調合を得意とする彼女からは、常にこの香りがしていたのだ。
どんなに研究に没頭していても、いつも男はこれに意識を引き戻される。
「——逃げません」
腕の中の彼女が、空色の瞳をうるませて微笑む。
「むしろ遅いくらいですよ、ジル」
「生意気言いやがって。もう止まれない」
「望むところです」
「なんだよ、逞しいな」
ふっと笑いがこぼれて、肩の力が抜けた。
笑うのは久しぶりだ。
己の腕の中で、強がって見せる彼女が愛おしい。
けれどその思いが高じて、ふいに不意に恐れを感じた時、彼女がその白い指を伸ばした。
「心配無用ですよ。あなたより先には、絶対死にません」
そう言って、男の眉間の皺をぐいと伸ばす。
そのまま指は前髪をすき、指を絡めた。視界の端で、自身のくせの強い髪がくるんとはねる。
柔らかな仕草とは裏腹に、強い意志で見上げてくる女。
その美しい空色の瞳を覗き込めば、泣き出しそうに歪む自身の顔が映っていた。
「くそっ」
なんて情けない、と続けようとしたその時——彼女の腹がぐう、と鳴って。
「……」
「……」
「……取り合えず食うか」
「ああもう! せっかくいいところなのにー!」
真っ赤な顔で吐くセリフに、思わず笑ってしまう。
くっくと喉を鳴らして笑いながら、彼女を膝から降ろす一瞬、ぎゅっと強く抱きしめた。
再び香る、花と草。
妻を亡くした時も、彼が伏した時も、娘を見送った時も、ずっと変わらず傍で支え続けてくれた女。
「どこへも行くな」
「もちろんです」
微笑み合って、手を離す。
急がなくていいのだ——でももう、待ちたくないから。
食事を温めなおそうとした彼女を止めた。
「いい。さっさと食って、お前に触れたい」
「っ! 望むところ、です」
「顔が赤いな」
「もう! 不意打ち禁止!」
再びくくっと笑いながら、今度こそ料理に向き合う。
と、ふと、娘のことが脳裏によぎった。
結局何一つ、父親らしいことはしてやれなかった。
あの子が幸せを掴むのを、見守ってやりたかったけれど——。
「どうかしましたか?」
女の問いは、そんな男の気持ちを見透かしたのかもしれない。
彼女の知的な水色が心配に陰るのを見て、男は小さく微笑んだ。
「いや、まずはお前の王城でのパート契約を終わらせるのが先かと思ってな。名を呼べぬ閨なんぞ味気なさすぎるだろ。同時に婚姻も進めるとなると、思念鳩を使っても半日は掛かる。そうすると夜になるが、まあそっちの方が——」
「何の話ですか!」
耳まで赤くなりながら、取り合えず温めますからね!と鍋の加熱に魔力を注ぐ女。
こいつを幸せにしてやりたい。
もう誰も失いたくはない。
「——おい」
「なんです?」
「後で、花丘に行きたい」
花丘とは、この村を一望する高台、男が結界を張って守り続ける場所だ。
男が生きている限り、永遠に春である丘。
「ええ、私もそのつもりでした、ジル」
女は小さく笑みながら、空色の瞳を閉じる。
つかの間の黙祷。
花丘に眠る、男の前妻と娘への。
そうやって彼女が示してくれる親愛の情は、息を飲むほど美しい。
込み上げる愛しさを、今までどうやって隠しておけたのか、もう男は思い出せない。
男が見つめる中、女は空を開き、花のように微笑んだ。
***
泥だらけになって遊んでいた子供たちの足元を、さっと大きな影が横切る。
「あー! じゅじゅっちー!」
見上げた一人が小さな指で空を指すと、次々に他の子供たちも声を上げる。
「じゅじゅっち、みたー!」
「ぼくもー!」
「あたしもー!」
口々に宣言しては見とれる幼子の上で、白い鳥は何度か旋回し、ピロロと鳴いた。
やがて、園庭をぐるりと囲む並木の向こうにその姿が見えなくなると、大人たちは子供らへ声を掛けた。
「たくさん見られて良かったわね。みんな、きっといいことあるわ」
「寿告鳥ね。春から魔術学校が決まっている年長さんは、発音にも注意しなくちゃだめよ?」
「さあ、それじゃ小さい子から順に並んで体を綺麗にしましょう。大きい子はおもちゃをお片付けしてね。おやつの時間よ」
先生たちの呼びかけに、「やったー!」「できたー」などと賑やかな声が響く。
その様子をにこやかに見守るひと際背の高い男性の元へ、一人の園児が駆け寄った。
「クマさん先生、今日のおやつは、あれだよね?」
「ああそうだ。昨日年長さんが採ってきてくれた、あれだよ」
大きな体をかがめて優しく答えるのは、この幼児園の創始者ベルナルド・オークスである。
黒灰色の短髪と銀灰色の瞳は、なるほど国境の森に住む大黒熊とそっくりだ。
恵まれた体躯を更に鍛え上げた様は、さすが多くの名だたる騎士を輩出したオークスの家系と言えよう。
ただし彼自身は、一族の中では珍しく豊富な魔力を有しているために、一度は魔術師の道へと進んだ変わり者ではあるのだが。
彼は喜び勇んで駆け出していく子供を見送ると、教師たちへと声を掛けた。
「先生方、どうやら来客がありそうなので、ここの片付けは私が」
「まあベルナルド園長、ありがとうございます。御来客の分もお茶とお菓子を?」
「ありがとう。2名分を庭へ頼む」
「わかりました」
洗浄魔法を受け終えた子供たちが、教師たちに見守られながら教室へ戻っていく。
その様子をにこやかに見送っていた園長は、やがて全員がいなくなったことを確認したのち、園庭を一瞬で元に戻した。
泥遊びで使った過剰水分を取り除き、殺菌消毒を施して整地したのだ。
「ほっほう、見事見事。それに、第一補佐をしておる時よりも楽しそうじゃの」
背後からの声に振り向けば、そこには予想していた通りの人物——かつての上司がそこにいた。
見てくれはか細い老人だがその実は、難関激務で知られる魔術師長の座を、41年間も勤め上げた人物である。
引退して数年、今も変わらず師と崇めるのは、その実力はもちろんのこと、王城勤務において、かつての家柄重視とする人選を廃し、実力主義とした彼の元でなければ、きっと今の自分はなかっただろうと確信しているからだ。
「師よ、おひさしぶりです。子供たちを見ていると、自分も童心に返る気がして。笑っていましたか」
男が己の頬をさすりながら訪ねると、老人はますます目を細めた。
「ほいよ、さも楽し気じゃったぞ。まあ、気持ちはわかる。ワシもそうじゃからの」
言いながら、胸元から異様なほどに大きな南瓜を5つ、ごろごろと現す。
園長は、校舎から浮遊してきた茶菓子のセットを自らの元へと引き寄せつつ問いかけた。
「なんですそれは」
「学校の畑で取れた、びっくり南瓜の差し入れじゃ。研究が実って、ようやくサイズが安定してきたところでの。まあ見ておれ、秋の収穫祭には更にでかくて味もいいのを出品する予定じゃからの」
「それはすごい……じゃなくて、伺ったのはそのポケットの方です」
「ああこれは、お主の四次元をちょっと真似して、口だけ小さくして、胸ポケットに同化させたんじゃ」
「な……」
こめかみを押さえる園長を見上げ、かつての師はニタリと笑いながら供された菓子をつまむ。
「ほいよ、便利ぞ」
「いや、そうではなく……まあいいです。南瓜、ありがたく頂きます。中身は普通の南瓜と同じですか?」
「味は同じじゃが、火の通りが早い。だから茹で過ぎ注意じゃの。なんなら下処理はしておくがの?」
「いえ、それは子供たちと共にやります。種取りをさせてやると喜ぶでしょうから。ここに入っている山胡桃も、先日子供たちと拾い集めてきたものなんですよ」
園長が示した茶菓子は、モチモチとしたほんのり甘めの皮に、黒砂糖で煎り付けた胡桃を挟んだものだ。コリコリとした食感を味わっていた老人は、ぬるめの渋茶に手を伸ばしながら頬を緩めた。
「……上手くやっておるようじゃの」
「なんの、まだまだです」
男の謙遜に、老人はほうっと息をついた。
「どんな時も、現状に満足せぬ点は変わらぬな。それがお主の良いところじゃて。……さて、馳走になったな」
ぐっと茶をあおり、衣を翻して立ち上がった師の言葉に、男もテーブルを立つ。
「もうお帰りですか」
「引退する現師長に、激励でもと思ってな」
「ああ、明日でしたか」
「左様。何か、伝えることはあるか?」
「ご苦労様でした、と。あと、春の遠足には予定通り、キクストンを訪れるとだけ」
「ほっほ、そりゃ楽しそうじゃ。ワシも行こうかの」
「その時はどうぞ、今のその御姿で。先程のあれでは、子供たちが動きません」
「なんじゃ、バレとったんか」
「ええ、気配が——無さ過ぎましたよ。天敵のいない空では、あの鳥はもっと無防備なんです」
「通りでタイミングよく茶菓子が用意されとった訳じゃ。無防備のぅ……ちとやってみるかの。では行く」
その言葉で、咄嗟に見送りの礼を取る。
下げた視線を再び上げた時には、寿告鳥はすでに遥か上空、王都へと向かっていた。
ふと気になって探ってみた気配は、もうまるで野生のものと変わらない。
あれが変化した師だと、もはや自信を持って言えなくなってしまったことに、男は再び眉をしかめた。
「一度で完全修正とは……まったく、なんて規格外な……」
先程も、苦労して編み出した四次元格納を更に高性能化して再現されたことに驚いたばかりだと言うのに。
その力量の底知れなさに、これが伝説となりたる所以かと思い知らされる。
男は首を振ると、びっくり南瓜とやらをを食糧庫へ飛ばしながら子供たちの元へと向かった。
教室では、早い子はすでにおやつを終え、手を洗って次の授業の準備を始めている。
今度は山胡桃の殻で、工作をして遊ぶのだ。
幼少の頃にかけられた愛情と豊富な経験が、後の魔力現出に大きな効果を持つと証明されて数年——。
彼の理想とする幼児への教育が、やっと軌道に乗りつつある。
今はまだ、何にも染まらぬ無邪気な子供たち。
やがて彼らは、自身の能力や信念を礎として、それぞれの立ち位置からこの国の未来を担っていくだろう。
彼らの輝かしい未来への、はじめの一歩に寄り添う男は、教室から漏れ聞こえる元気な声に穏やかな笑みを浮かべた。
陽が傾き始めた空に、雨の匂いはない。明日はきっと晴れる。
目ざとい生徒が、クマさん先生、と呼びかけた。
途端に子供たちが、彼の元に集まる。
見上げられ、笑いかけられ、手を引かれる。
彼の笑みが深くなった。
かつて王城で、魔力を筋力で振るう雷の魔術師——などと恐れられた男の面影は、今はもうない。




