幽霊の正体
「これがあの時の写真ね…」
水谷先生が興味深そうに3枚の写真を見較べた。
その日の放課後、リンカと渚は女子陸上部の部室に居た。鉄筋コンクリート二階建。他の運動部も多く入るクラブ棟の一室である。かなり狭く、2・3年生のロッカーと、ミーティング用の長机を入れるといっぱいいっぱいだった。
女子陸上部の部室と云うことで、春秋と宏昌は遠慮して中に入らなかった。…と云うか、入らなくて正解だったろう。そこは男子中学生の女子に対する幻想を、粉々に打ち砕くに十分な現場だった。とにかく汗臭い。汚くて乱雑で、ティーン向けのアイドル雑誌や少女漫画誌はともかく、週刊少年漫画誌までもが床に山積みされていた。
「何信じてるんですか、先生! そんな写真、合成に決まってるじゃないですか!」
相沢部長は頭から幽霊話を信じていない様子だ。
「そんなことして、わたしたちにどんな得があるって云うんですか? そもそも幽霊話を持ち込んで来たのは陸上部の高畑さんですよ」
リンカか不快そうに相沢へ食ってかかった。
「まあ、落ち付け、相沢・中原。相沢は知らないと思うが、練習中に『足音が聞こえる』と訴えてきたのは高畑が初めてじゃないんだ」
水谷先生が遠くを見つめるような眼差しで、宙を睨んだ。
水谷八千代。女子陸上部顧問。現在30代後半であり、既婚者かつ二児の母である。現役時代は砲丸投げの有力選手であった。体育教師になってからは、砲丸投げの選手を育てようと意気込んでいたのだが、何故か砲丸投げの話をすると皆嫌な顔をした…。そんな彼女が化野中へ転任して来た最初の年。
「7年前と6年前、入ったばかりの1年生が練習中に足音が聞こえるって云って来てな。そんな馬鹿な、気のせいだって叱り飛ばしたよ。結局二人は気味が悪いと云って退部して行った。その後その二人はバスケ部とテニス部に入ってね。インターミドル全国大会に出場出来る程の選手になった。悔しかったよ…」
「あの足音を聞いたのは、僕だけじゃなかったんだ…」
渚が感慨深げに呟いた。
「先生、僕はこの娘がどうしてグラウンドにずっといるのか、知りたいです。この娘が誰なのか知りたいです。もし陸上部の選手だったなら、アルバムに同じ娘が写っているかもしれません。昔の陸上部のアルバムを見せて貰えませんか?」
水谷先生は、スチール製のロッカーの上に積まれていた数箱の段ボール箱を下ろして来た。見た目よりずっと重いらしく、長机の上に置く時大きな音がした。中にはポケット式のアルバムと、安物の紙のバインダーが入っていた。どうやら年度別にまとめられているらしい。
「このセパレートタイプでない競技用ウェアからすると、かなり昔のものだわね」
水谷先生が、春秋が撮った写真を指差しながら云った。
アルバムをパラパラとめくって行くと、三箱目の19年前のアルバムで指が止まった。
「うん、このあたりだわね。手分けして探してみましょう」
20年~22年前のアルバムをリンカたちに手渡す。相沢部長が露骨に嫌な顔をした。
アルバムに収録されている写真は、大会の時のものばかりではない。夏合宿や冬合宿のときのもの。何の時か分からないプライベートっぽいものも含まれていた。写真は総じて変色しかかっていたが、20年近く前の陸上部の先輩たちが、確かに生きて存在していたと云う確かな証拠だった。
「「あっ!…」」
リンカと渚がほぼ同時に声を上げた。21年前と22年前のアルバムに、彼女たちがここ数日、嫌になる程目に焼き付けた少女の姿があった。
「見付けた。先生、コレ」
渚が写真の少女を指差しながら、開いたままのアルバムを水谷先生へ差し出した。
「なっ!…」
相沢部長が、信じられないと云った表情で、言葉を詰まらせた。幽霊とされる写真と、明らかに同一人物だったからだ。
「写真だけだど、名前まで分からないわねえ。名簿の方を見てみましょうか」
水谷先生が、アルバムと同じ年度の名簿を取りだした。厚紙の表紙に金属の金具。パンチ穴が開けられた紙を、プラスチックの留め具でまとめる安っぽいものだ。一番先頭に、部員一覧表があり、学年・クラス別に名前・住所・電話番号等が書いてある。以降はその年入った新入部員の入部届け、大会や合宿などのスケジュール表、ガリ版刷りのお知らせなどが挟み込まれていた。
「1年生は退部が多いですね」
渚が部員一覧に引かれたボールペンの横線を覗き込みながら云った。
「うちは公立のわりに、厳しいから。毎年のことよ」
相沢部長が苦笑いした。
「2年生のこれは親の都合か何かの、転校でしょうね」
ボールペンで消した下に、新しい連絡先が小さく書かれていた。転校してしまった仲間と連絡を取り合うことなどあったのだろうか? 当事者でない限り分からない…。
「この中にいるのかもしれないけど、良く分からないわね。次の年を見てみましょうか」
水谷先生がちょうど20年前の名簿を取り出し、数枚めくった。すると…。
分かってしまった。
3年生の名簿の一行に、赤いボールペンで二本の横線が引かれていた。備考欄に『4/26 死亡』の記述。
何よりあからさまなのは、20年を経て薄茶色く変色した数滴の涙の跡だった。ミルククラウンを平面にしたような形のそれは、『死亡』の文字を書き込んだ人物の慟哭を想像させた。
「井上佑香さんね。現在だと化野中とは別の学区になるけど、もし引っ越ししてなければ、今でも御両親が住んでるかもしれないわね…」
これで恐らくだが幽霊の名前が分かった。両親に尋ねれば、亡くなった経緯とか分かるかもしれない。しかし水谷先生の興味は、別のところに移っていた。
「でもこの当時の顧問の先生の名前…権藤俊作って、あの権藤先生よね。20年前に化野中の陸上部顧問をやってらしたんだ。意外だわ」
水谷先生が、相沢部長に向かって云った。
「権藤先生って、私立東嶺学園の陸上総合コーチの権藤先生ですか? 優勝請負人とか云われてて、有名な人じゃないですか!」
相沢は女子陸上部部長だけあって、権藤先生のことを知っていたようだ。
しかし新人の渚や、門外漢のリンカは当然知らない。怪訝な表情だ。
「この住所は中学の近くだから、当然現在は住んでないでしょうね。東嶺学園に問い合わせれば、連絡が付くと思うから、そちらの方はわたしがやっておきます。問題は…」
水谷先生が悩まし気に眉を顰めた。
「井上さんの御両親にどう云う理由で連絡するかよね。まさか娘さんが幽霊になってるから、話を聞かせて下さいなんて訊けないし…」
「20年前に亡くなった娘さん、佑香さんはまだ成仏していません。今でもずっと化野中のグラウンドを走り続けています。どうしてこうなったのか、お話を聞かせて下さい」
春秋の余りにもド直球な言葉に、井上夫妻はもちん、同行した水谷先生・渚・リンカ・宏昌の全員が固まってしまった。相沢部長は同行を拒否していた。
井上家は緩やかな南向き斜面の中程に建っていた。緑が多く、古くからの住宅地と云った趣きの土地だった。平屋建ての家はあまり大きくはなく、園芸好きな夫人が世話をする花壇が、春の花まっ盛りであった。
水谷先生が予め電話で連絡していたため、一行はすんなりと応接間へ通された。6畳程の和室で、中央に黒塗りの四角い座卓がでんと置かれている。夫人が若竹色の座布団を人数分配ると、水谷先生が座るの待ってから、春秋がすっと流れる様な所作で正座した。背筋がピンと伸びた、惚れ惚れするような正しい姿勢だ。足を崩そうと思っていた残り三名の顔が、若干引きつった。
「なっ、何てことを云うんだ! 壺や掛け軸を売りつけるつもりなら、とっとと帰ってくれ!! 霊感商法には引っ掛からんぞ」
案の定、温厚そうだった御主人が、顔を真っ赤にして怒りだした。
「中学生が壺や掛け軸は売らんでしょう。これは一週間ちょっと前に、化野中学のグラウンドで撮られた写真です。奥さん、ここに写っているのは、亡くなった佑香さんに間違いないですか?」
春秋は涼しい顔で例の3枚の写真を、井上夫人へ差し出した。
それを一目見た老婦人が、大きく目を見開き、わなわなと震えはじめた。
「これは…、佑香…ゆうかぁ!~」
おとなしそうに見えた老婦人が、写真を胸にかき抱くや、大粒の涙をポロポロとこぼしながら、大声で泣き出した。一転、怒りを忘れた御主人は、オロオロと見つめるぱかりだ。
「落ち着いてください、奥さん。佑香さんは悪霊になってるわけではないですよ」
「でも成仏してないって…、娘は苦しんでいるのでしょう?」
「成仏していないのは事実ですが、苦しんでいるかどうかは…。ですが佑香さんが亡くなって20年経っています。このままでは魂が擦り減って、いずれ消滅してしまうでしょう。そうなったら輪廻の輪にはもう戻れず、生まれ変わることが出来ません」
「そんな…」
春秋の説明に、井上夫人が顔をゆがめた。
「俺たちは化野中学の先輩である佑香さんに成仏して欲しいと願っています。未成仏霊がこの世に留まるのは何らかの『未練』が原因です。成仏させるためには、この世に対する執着を断ち切ってやる必要があります。佑香さんが亡くなった20年前の事情を聞かせてもらえませんでしょうか?」
北九州から就職のため上京した井上泰三は、大手製パンメーカーの事務職の仕事に就いた。5年後、同じ様に東北の田舎から出て来た後輩の木下菊恵と職場結婚。翌年長女の佑香が、その6年後に長男勇吾が生まれた。生真面目でお世辞の一つも云えない性格故出世は見込めなかったが、それなりに幸せな家庭を築いた。
幼い頃身体が弱くよく熱を出していた佑香は、小学校へ上がると一転お転婆になった。近所の子供たちを従え、ガキ大将のまねごとまで始めた。同年代の子供より身体が大きく、特に足が速かった。小学校の運動会では、駆けっこでいつも一番になった。
中学生になった佑香は当然のように陸上部へ入った。短距離選手として1年のうちからめきめきと力をつけ、2年生の時既に部の誰よりも速かった。全国大会出場は確実と云われ、自信満々で臨んだ首都大会の直前、練習中に1年生と交錯しケガをした。泣いて謝罪し退部を申し出る後輩に対し激怒した佑香は、自分が首都大会に優勝し全国へ行くまで退部は許さんと怒鳴り付けた。
苦しいリハビリ後、佑香は練習を再開した。一度ケガをした選手は、故障個所をかばって、再度別の場所を故障するケースが多いが、当時化野中の指導をしていた若いコーチは、基礎から徹底的に鍛え直す方針を示した。半年後、佑香はケガ前を上回るタイムを叩き出し、周囲を驚かせた。
万全の体調で最後の首都大会を控えたある朝、井上父娘は何時ものように母菊恵のお弁当を手に、一緒に家を出た。泰三は最寄りの駅から電車と地下鉄を乗り継ぎ都心にある会社へ、佑香は早朝練習のため路線バスで化野中学へ向かった。何事もなく出社した泰三は、焦った様子の上司から、直ぐに家に戻るように指示された。「娘が亡くなった?」何を云っているんだ!?… その後の記憶が暫くない。
過積載の上に居眠り運転だったそうだ。信号待ちをしていた路線バスに、建設残土を満載した大型ダンプカーが追突したのだ。たまたま最後部の座席に座っていた佑香は即死状態だった。葬儀の際、棺に取り縋って号泣する、佑香にケガを負わせた後輩の少女の姿が今でも忘れられない。
暫く抜け殻になったような生活が続いた。しかし何時までも嘆き続けているわけにはいかない。佑香のいない生活…徐々にそれが普通になっていった。長男の勇吾が独立し家を出た。孫が二人生まれた。そして泰三は定年を迎え、夫婦二人きりの穏やかな暮らしが始まった。最近では、佑香のことを思い出すことも殆どなくなってしまった…。
「こんな写真3枚で信じろと云われても無理があるかもしれません。もし時間があれば、月曜日の放課後、お二人で化野中学へ来ていただけませんか? 学校の方には俺達から話を通しておきます」
一通り話を聞き終わった春秋が井上夫妻へ提案した。
「来て貰ってどうするよ。一般人には幽霊は見えないんだろ?」
宏昌が疑問を呈する。
「それは俺の方で何とかする」
春秋が自信あり気に断言した。
「安倍君なら何とかなるでしょ」
「そうだね、安倍君だもんね」
リンカと渚が笑いながら顔を見合わせた。
「水谷先生は、当時の顧問だった先生から、佑香さんにケガを負わせた女生徒のことを聞いて貰えませんか? さっきの話を聞いて、単純に首都大会優勝だけがこの世の未練になっているとは思えなくなりました。ひょっとしたら、その女生徒との約束が心残りになっている可能性があります。出来れば連絡を付けて欲しいと思います」
20年も前の事なので、井上夫妻はその女生徒の名前を覚えていなかった。覚えていたとしても、結婚して姓が変わっている可能性が高いだろう。
「分かった。まかせておけ」
水谷先生が、力強く請け負った。