女子陸上部の幽霊
「なあ、いいだろ、春秋。まだ何処のクラブにも入ってないんだろ?」
場所は1年B組の教室。安倍春秋はここ二三日、宮本宏昌のひつこい勧誘を受けていた。
「確かにまだ帰宅部だけどな…しかし、オカ研に入れと云われてもなぁ…」
春秋は何度目かになる同じ台詞を繰り返した。宏昌は中学に入ってから知り合ったクラスメートで、所謂『オタク』と云うやつだ。それも『オカルト・オタク』。胡散臭いオカルト雑誌を片っ端から読み漁り、毎週末に近場の心霊スポットに突撃していると云う、もっぱらの噂だ。
二人とも詰襟の学生服姿である。ブレザー全盛の時流の中で、公立化野中学は男子は学生服、女子はセーラー服を採用する少数派の学校だった。
「頼むよ~。オカ研は主力だった先輩たちがいっぺんに卒業しちまって、このままだと廃部の危機なんだ。部長から、一人でもいいから新入部員を獲得して来るように云われてるんだ。名前だけでいいから貸しちくり」
宏昌が両手を合わせ、春秋を拝みながら頭を下げた。机に座った高い位置からなので、下手に出ているようには見えないが…。宮本宏昌は中肉中背。容姿は中の下ぐらいで、春秋と違い生まれてこの方女子にモテた試しがない。男女交際よりも趣味に命を懸ける悲しい中学男子である。
「それで高校進学の内申書にオカルト研究会所属でしたって書かれるのか? どんな罰ゲームだよ。そもそもオカ研なんてふざけたクラブの存在が、よく許されてるもんだ」
春秋が苦笑した。
「新入生は最低でも一つのクラブに所属しなければいけないんだぞ」
宏昌がなおも食い下がる。
「まだ入学して3週間じゃないか。確か来月いっぱいまでは大丈夫だったはず。慌てて決める必要はないな。…それ以前にオカ研はないわぁ」
それを春秋が冷たく切り捨てた。
「安倍君はっけ~ん!」
突然空気も何も読まない呑気な声が響いて、場が一気に弛緩した。同時に背後から腕が伸びて来て、春秋の首をロックする。
「ギブッ、ギブッ!!」
春秋が即座に机を叩いて降参する。宏昌が『誰だこれは?』と云った表情で、春秋の後ろにいる少女へ目をやった。
「ゲホッ、ゴホッ…。何すんだよ、リンカ!」
「こいつ誰?」
「クラスメートの宮本宏昌だ。化南小出身で、俺をオカ研とか云う悪の秘密結社へ引きずり込もうとしている悪い奴だよ」
春秋がリンカを振り返った。
「それでこっちが1年A組の中原倫華。同小の腐れ縁で、4・5・6と同じクラスだったんだ。中学に上がってようやく別のクラスになれたがな」
白い肌に整った顔立ち。髪は光を透かして見ると明るい茶色に見え、肩まで伸ばしている。背が小さいので、まるでお人形さんのように見える。同学年なら、5指に入る美少女だ。
「ひっど~い! わたしは同じ組になりたかったのに」
リンカが不満そうに頬を膨らませた。
そんなやり取りを、宏昌があっけにとられて見つめている。思わず不用意な質問をしてしまった。
「春秋は化野小だったよな。春秋の彼女か?」
「「彼女じゃない!!」」
「ハモった!?」
一瞬気不味い空気が流れた。
「オホン…、それで何か用があるのか、リンカ」
春秋がリンカに訊ねた。
「あ、うん、渚ちゃん、こっちこっち」
リンカが廊下からこちらをうかがっている少女を手巻きした。
背の高いショートカットの少女が、小走りに駆けて来た。スレンダーで健康的に日焼けしている。
「同じ1年A組の高畑渚ちゃん。北陵小学校出身で陸上部のホープなんだよ」
「始めまして。高畑渚です。リンカちゃんから安倍君のことを聞きまして…」
そこで云い難そうに口ごもる。
「まさかあっち方面の相談じゃないだろうな? あれだけ秘密にしておいてくれって頼んでおいたのに…」
春秋がリンカを厭そうに睨んだ。
「うん…まあ…そうかな。でも化野小出身の生徒なら皆知ってるんだし、バレるのは時間の問題だよ」
リンカが目を泳がせながら反駁した。
「何、何、どんな秘密?」
宏昌が興味深そうに聞いてくる。
「それで、高畑さんだっけ? 相談って、どんな相談かな?」
宏昌の質問を無視して、春秋が渚へ訊ねた。
「リンカちゃんの云った通り僕、陸上部で短距離選手をやってるんだけど…」
((ボクっ娘だ!))
若干二名が心の中で突っ込んだ。
「練習中に幽霊が出るんです。放課後練習していると、誰もいないはずの左隣のトラックから足音が聞こえて来て、全力疾走中の僕を追い抜いて行くんです。足音だけで姿が見えないし、先輩や同じ1年に聞いても、そんな足音聞こえ無いって云うし…」
「ちょっと待ったぁ~! 幽霊って云ったら、オカ研の専門分野だぜぃ」
渚の言葉に、宏昌が興奮で割り込んだ。
「高畑さん、昼休みの…そうだなぁ、12時半頃にオカ研の部室に来てくれないか? もちろん春秋と中原さんもね」
「断る! 俺はオカ研なんぞに興味は無い」
「わたしも~」
「僕も、ちょっと…」
全員にあっさり断られ、項垂れる宏昌。
「高畑さんは今日も放課後グラウンドで練習なのか?」
春秋が真顔で尋ねた。
「うん、そうだよ。…って云うか、毎日そうなんだけど」
「まあ、体育会系のクラブは全部そうか。練習を見学させて貰うことは可能か? 別に入部希望って訳じゃないぞ」
「分かった。部長に話を通しておくよ。許可が取れなかったら、こちらから連絡する」
と云う訳で、放課後に再び集まることになった。
そして放課後。春秋たちは女子陸上部が練習する100mトラックの側らに居た。
練習レーンでは、数人の女子陸上部員が短距離走の練習を順番に行っている。部員の中にはもちろんボクっ娘・高畑渚も混じっている。
春秋たちの横では、女子陸上部の部長・相沢秋穂と顧問の水谷八千代先生が部員たちを監視していた。特に相沢部長は、露骨に迷惑そうな視線を、ちらりちらりと春秋たちへ送って来た。
相沢部長は渚より背が少し低め。長髪をポニーテールに纏めており、臀部と脹脛がジャージの上からでも分かるくらい発達している。日の焼け方など渚畑に雰囲気が似ているが、胸は渚よりかなり大きい。3年生で、1500mの選手だ。基本的に真面目で後輩の面倒見がよいが、頑固で融通が利かない一面がある。
「ムヒョ~、ムヒョ、ムヒョヒョヒョヒョ~」
春秋の隣では、写真部の松村先輩が、奇妙な笑い声を発しながら、カメラのシャッターを切り続けていた。それを春秋たちが、『失敗だったかなぁ~』と云った表情で眺めている。
「良いよ、良いよ、青春ですねぇ~。ほとばしる青春の汗! これぞ正にミューズの配剤…天然のエロースですよぉ」
化野中学は公立校である。当然校則で私物の持ち込みが禁止されている。今回『追い越してい行く足音の霊』を写真に捉えるためカメラが必要だった。最初新聞部へ話を持って行ったのだが、幽霊話など頭から信じてくれず、けんもほろろに追い返されてしまった。仕方なく変人揃いと噂の写真部に協力を求めると、2年の松村先輩が喰いついて来たのだ。
松村先輩は背が平均より少し高め。然程太っている分けではないのたが、小太りの印象を受けるのは、顔が大きいことと丸顔のせいだろう。眉が太く垂れ目なので、何処か憎めない雰囲気だ。
「あっ、次、渚ちゃんだよ」
リンカが春秋の脇腹を肘でつついた。
春秋は軽くため息をつくと、渚の方へ緊張した眼差しで向き直った。
一度瞼を閉じると、普段は閉ざしている第三の目をゆっくりと開く。夜ならば春秋の瞳が、薄緑色の燐光に包まれていることがはっきり見えただろう。
渚がスターティングブロックに足を掛け、クラウチングスタイルを取る。その一つ隣のコースに、同様のスタイルで並ぶ『人ならざる者』の姿を、春秋の瞳は捉えていた。
「位置について…用意…」
スタート係の女子部員が、競技用ピストルの引き金を引くと、紙玉火薬がパァ~ン!!と渇いた音をたて、白煙が立ち上った。同時に渚が勢いよく走りだす。
スタートは渚の方が上手だった。その隣を走る存在…古めかしい競技用ウェアを着た彼女は、一瞬出遅れた。ショートボブの髪質はもふっとした感じで茶髪がかっている。背は渚より頭一つ分高く、体格からしておそらく3年生だろう。背景がうっすらと透けて見えるのは、霊として劣化が進んでいることを示している。
25m、50m、75m、100mの位置に、それぞれ女子部員がストップウォッチを持って待機していた。各領域毎の選手の得手不得手を明にするためだろう。渚は序盤の25mまでは幽霊選手をリードしていたが、遂に追い抜かれその差がどんどんと開いてゆく。100mゴール地点では、かなりの大差がついてしまっていた。
渚が両膝に手を付き、荒い息を整えているのに対し、幽霊選手は流すようにゴールを駆け抜けた後、ふっとその姿が消えてしまった。春秋がスタート地点に目をやると、既に次の選手の横に立っていた。彼女は死んでから延々とこれを繰り得てしているのだろうか?
「松村先輩、俺にも二三枚撮らせて貰っていいですか?」
春秋が遠慮がちに尋ねた。
「むう…」ちょっと考え込んで、「いいけど、絶対に落とすなよ! 壊したら弁償だからな」と云ってカメラを手渡してきた。
写真部の備品である『ヤコン2000EX』は、四半世紀前のモデルながら結構な高級品だ。大きな傷も無く、ピカピカに磨きあげられていることから、歴代の写真部員から大切に扱われてきたことを窺わせる。フィルム感度はASA100にセットされおり、24枚撮り中8枚残っている。
カメラを受け取ると、春秋はゴール地点に程近い場所へ移動した。リンカと宏昌、松村先輩がぞろぞろと付いてくる。
(あれだけ劣化が進んでしまうと、松村先輩では無理だな…)
春秋は心の中で呟くと、ファインダーを覗き込んだ。春秋の瞳は、ファインダー越しでも幽霊選手の姿をしっかりと捉えている。
春秋はフィルムに向かって念を送った。所謂『念写』を試みたのだ。
パシャリ!…とシャッター音が響く。
三枚程写真を撮ると、春秋は松村先輩へカメラを返した。念写を行ったのは今回が初めてではなく、確実に写し込めた自信がある。後は霊から直接事情が聞ければ…。
春秋は100mを走りきった後、消える寸前の幽霊選手の目を真っ直ぐ見据えながら、静かに歩み寄った。
「ちょっと君、少し話を良いかな?」
明後日の方向へ話しかける春秋に、走り終わった女子部員と計測係が怪訝そうな目を向ける。
幽霊選手は春秋の問いに答えず、プイと目を逸らせると、ぶつぶつと何やら小声で呟くばかりだ。
『…首都大会…優勝…絶対…』
そのまますぅっと消えてしまう。気がつくと、次の走者の隣に立っていた。
春秋は何度か幽霊選手へ話しかけたが、全く反応を示さなかった…。
※1)汎亜米利加合衆国のフィルム感度規格。他にASA400がある。