内閣総理大臣 土御門靖行
ほの暗い闇の中、初老の男性が瞑目し、静かに正座していた。ぴんと伸びた背筋は姿勢よく、年齢にしては引き締まった身体をしている。髪を七三に分け、染めているのか白髪の一本も見当たらない。その表情は厳しく、眉間には深いしわが刻まれていた。濃紺の背広に糊の効いたワイシャツ。胸には金色の菊の徽章が、誇らしげに輝いていた。彼こそは数多の闘争を勝ち抜きこの国のトップに立った男。第××代内閣総理大臣、土御門靖行その人である。
『グウワァァァ~!!!』
地の底から湧き上がるような、不気味な唸り声が響いた。
あまり広くない部屋だった。つんと香る黴臭さ、土の臭い、冷たい湿気が、そこが地下に作られた部屋であることを強く示していた。剥き出しの土間に粗末な茣蓙が敷いてあるだけ。その上に紫色の座布団を載せ、正座しているのだ。四隅には御幣と榊の枝が括りつけられた竹が立てられ、荒縄にぐるりと囲まれていた。
三つの青白い炎が、等間隔を置いて、反時計回りにぐるぐると飛び廻る。
禍々しく揺らめくそれらは、荒縄で仕切られた内側には、決して入って来られない。
総理の目の前には、もう一人人物がいる。狩衣に指貫袴、漆黒の立烏帽子を被った平安の絵巻物から抜け出して来たような格好だ。年齢はごく若い。かろうじて元服を終えたばかりのようで、顔姿から少年らしさが抜けきっていなかった。涼やかな目元に通った鼻筋。唇は薄く、少女のそれのように艶やかに色づいてる。全体的に非常に整った顔立ちで、美少年と云って良いだろう。
三つの炎たちは、良く見ると成犬の生首であった。首が鉈のような鈍い刃物で切り落とされ、骨髄が露わになった傷口から、どす黒い血液がぽたりぽたりと流れ出ていた。だらしなく半開きになった口からは、涎がねっとりと糸を引いていた。
少年は複雑な印を結びながら、低い声で呪文を唱え続けていた。双眸は目の前の護摩壇の炎へひたと据えられていた。護摩木が弾け、パチパチと音を立てながら火の粉が上がって行く。揺らめく護摩炎に照らされて、供物の果物・魚介の干物・月餅などの影が躍った。
青白い燐光を放つ犬の生首たちは、そこだけ憎悪に赤く染まった眼で、忌々しげに総理を睨みつけた。犬たちの望みは唯一つ。靖行の首筋を喰いちぎり、生き血を啜ることだ。嗚呼、邪魔な結界さえ無かったら…。
突如少年が唱える呪文が高まった。少年は印を解くと、右手で香木を数本掴み、護摩炎へ放り込んだ。一瞬炎が大きくなり、大量の火の粉が天井へ立ち上る。同時に白い煙が湧き上がり、天井を這うように広がって行く。すかさず少年は、護摩壇の前に供えてあった護符を、天井へ向かって投げつけた。
『はぁっっ!、雷童子!!』
裂ぱくの気合と共に少年が叫ぶと、一瞬閃光が走り、辺りが真っ白になった。
「「「ぎゃうぅぅ~ん…」」」
招雷符から枝分かれした稲妻に貫かれた生首の犬たちが、一斉に苦悶の悲鳴を上げる。瞳からは真っ赤な憎悪の光が消え、怯えの色に塗り替わった。間隔を置いて結界の廻りを飛んでいた秩序だった動きが失われ、狂乱したような出鱈目な動きに変わっている。
続いて狩衣姿の少年が手印を組み直し、呪詛返しの真言を宣すると、犬たちの瞳に再び禍々しい憎悪の炎が灯った。しかしその視線はもう総理には向けられていない。犬の生首たちは、地下室に唯一ある通路へ、列をなして消えて行った。
「ふ~う、春秋、終わったのか?」
総理は目を開くと、大きくため息をついた。
「呪詛は返しました。…しかし二の矢があるやもしれません。もう少し結界内で様子を見ましょう」
春秋と呼ばれた少年が、後ろを振り返りながら云った。額から幾筋もの汗が流れ落ちていた。
「しかし午後からの閣議には出なければならん。呪詛返しをされると、術者は命を落とすのではなかったか?」
「ええ、お爺様。一般的にはそうです。しかしこれ程の外法を行使出来る術者です。呪詛返しの対策もしていると考えた方が良いでしょう」そう云うと、春秋は眉をひそめた。「それに術者が死んでも、依頼者が諦めない限り、別の外法師へ呪殺依頼が回るだけです」
「政敵の藤原幹事長か、橘政調会長か…。野党共和党かもしれんし、共産テロリストの仕業かもしれん。緊縮財政で利益を失う財閥のどかれの可能性もある。露西亜や大K帝国、汎亜米利加の間諜だってありうる。あはは…、心当たりが多過ぎて見当もつかんよ」
自虐する総理大臣を、春秋がジト目で睨みつけた。
「まったくお爺様は敵を作り過ぎなんですよ。ちょっとぐらい利益を与えて、上手くやることは出来ないんですか?」
「そのちょっとぐらいが曲者なんだよ。政治は妥協の産物と云われるけど、一度無原則な妥協を始めると歯止めが効かなくなる。それで目的を見失い、落ちて行った政治家を、わたしは何人も見て来た」総理は苦い表情を浮かべると、遠くを見つめるような目をした。「それに何より日本のためにならない…」
首都圏近郊、高級住宅街にあるさる屋敷に、濃い血の臭いが立ち込めていた。立派な洋風の建物の中、あるいは樹木で囲われた広大な庭のいたるところに、使用人とおぼしき死体が転がっていた。外傷の類は一切なく、皆一様に恐怖の表情を浮かべたまま絶命していた。その数20人以上。唯一の生き残りがこの館の主である。猿轡を咬まされ、庭に打ち込まれた丸太にロープで括り付けられている。奇妙なことに、主の額には一枚の式符が貼り付けられていた。
彼の目の前の地面には、警備のために飼っていた三頭のドーベルマンが、首だけ出して縦に埋められていた。…否、首から先がつながっていない。ドーベルマンの首は、鉈のような刃物で切断され、地面にゴロリと転がっていた。
「ん?、返されたか…」
庭に置かれた鋳物製の椅子に、千家の茶人のような格好をした男が座っていた。黄土色の着物に黒い円筒形の帽子。小柄であるが年少者ではない。特異的なのは、顔を仮面で隠していることだ。能や狂言で使われる『翁の面』だ。
「土御門には余程優秀な術者が付いておると見える。高名な巫女姫とやらか? いや、あやつは今、西伯利亞にいるはず。やはり倉橋卿か…」
翁面の男が目を眇めた先、首相官邸のある方角から、三つの青白い炎が近付いて来ていた。少し前に彼が放った呪殺用の式神だ。同じようにそれに気付いた屋敷の主人が、恐怖の表情を浮かべ、逃れようと必死に身をくねらせた。
しかしその足掻きも虚しく、三つの犬の生首たちは、屋敷の主人の身体へ次々と吸い込まれて行った。直後に喉元、左胸、右腹の肉がえぐれ、大量の血が噴水のように吹きあがった。薄皮一枚残った首が千切れ、主人の生首がぼとりと地面に落ちた。心臓を食い千切られているので、血液の噴出も直ぐに治まる。
呪いを行使する者にとって、『呪い返し』の対策を立てることは常識である。翁面の男も例外ではなかった。屋敷の主人の額に貼られた呪符には、彼の霊力が込められていた。顔形ではなく霊紋で人を視る式神にとって、屋敷の主人は翁面の男そのものに見えていたはずである。
「金克木、喼急如律令!」
翁面の男が、袖口からすばやく金行符を取り出すと、空中へ向かって放った。護符は瞬時に光の小柄と化し、遅れてやって来た黄色い電光をまとった雷鼠…春秋が放った探索の式を貫いた。
「10分だ。検非違使どもが集まって来る前に撤収するぞ」
翁面の男が、周りに控える6人の男たちに命じた。背格好はまちまちだが、全員黒いスーツに黒い帽子と、全身黒ずくめである。仮面で顔を隠しているのは同じだが、能面ではない。目と口の位置に長方形の穴を開けただけの簡易なものである。まるで埴輪のようだ。
埴輪面の男たちは無言のまま首肯すると、庭に散らばる死体を集め、玄関から屋敷の中へ放り込んだ。同時に主人と三頭の犬の額に貼られた呪符、雷鼠を倒した呪符を回収するのも忘れない。
「南方火徳星君に伏して願い奉る。一切合財焼尽し灰燼と化すべし。喼急如律令!」
最後に翁面の男が火行符を放つと、まるでガソリンでも撒かれていたように、瞬時にして屋敷が燃え上がった。それを確認する様子もなく、男たちは粛々と撤収して行く。その後駆け付けた消防隊によって消化が試みられるが、全てが灰になるまで火勢が衰えることはなかった。