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賽の河原

作者: 石月煤子

茜空を悠々と泳いでいたカラスの翼がいつの間にか忍び寄っていた宵闇に呑まれた。

常夜灯に明かりが点る。

密やかなる足取りで徘徊する野良猫が夕煙漂う団地を我が物顔で通り過ぎていく。

テレビの騒がしい歓声やら家人同士の呼び声やら、豆腐屋のラッパに紛れて様々な生活の雑音が外に洩れていた。

窓辺に立つ住人のシルエットが影絵みたく庭先に覗き。

公園の樹木は木枯らしにヒソヒソと冬枯れの姿で囁きを交わし。


ブランコに座る少年は鼻を啜り、赤茶けた鎖を握り直した。


大きな瞳の先にはフェンス越しに設置された無人の電話ボックス。

切れかけの蛍光灯が目まぐるしく点滅している。

少年はその点滅に合わせて長い睫毛を震わせていた。

皺だらけのシャツの上に毛玉の目立つセーター、膝丈の半ズボン。

裸足でサイズの合わないサンダルを引っ掛けている。

跳ねた黒髪は目元にかかり、さも視力を悪くしそうな長さだ。

か細い小さな手は長い事鎖を握り続けていたためにすっかり鉄臭くなっていた。


電話ボックスの蛍光灯がまるで断末魔さながらの激しい点滅をし始めた。


とうとう寿命が尽きたか。

不意に電話ボックスは暗闇の檻となった。

少年は目を瞑った。そろそろと瞼を上げ、明かりが戻っていないとわかるとまたすぐに目を瞑る。

そんな事を意味もなく何度か繰り返した。

ふと少年は妙な匂いを嗅いだ。

生臭い、湿っぽい、すえた臭気。

目を開けると真正面に男が立っていた。

草臥れたコートを羽織った、随分と大柄な男だった。


「こんばんは」

「…こんばんは」

「まだ、家に帰らないのかい、お前」


若いのか年寄りなのか、年齢のわかりづらい暗い声で問いかけてくる。

まるで能面のような顔だ。

いくら目にしようとも彼が背を向けた次の瞬間にはもうどんな顔だったか思い出せない、そんな特徴ない面をしていた。


「その痣はどうした」


少年の双眸が大きく揺れた。

公園の片隅で現実から逃避し、虚ろに沈んでいた眼に日常という戒めが押し寄せてきて、少年は哀れなくらいに動揺した。

男は窮屈そうに背を屈めると矢鱈筋張った大きな手を少年へと伸ばした。


「ここにあるだろう」と、胸に掌を押し当てる。

「背中にもあるな」

「ぼ、僕」

「痣、痣、痣」

「僕は」

「さっき打たれたばかりだ」


少年は声もなしに涙を流した。

男は「今夜は遅く帰れ」と、言った。

コートを翻し、公園を出、すっかり夜の帳に覆われた団地を愚鈍な足取りで歩いていった。

電話ボックスに光が戻り、低い音を立てながら目障りな点滅がまたも始まった…。






人いきれと喧騒に包まれた騒がしい飲み屋街の一角で青年は立ち止まった。

酒、汗、香水、食べ物の匂いが充満する、けたたましい光の洪水の中で、不意に、妙に懐かしい匂いが鼻を掠めたからだ。

哄笑する学生とおぼしき集団の向こうに、青年は一人の少女を見た。

少女はピンクの手提げを肩に引っ掛け、片目に眼帯をし、もう片方の目は、自分の真正面にしゃがみこんだ男を捉えていた。

草臥れたコートを羽織った大柄な男だった。

青年は、行き交う通行人越しに男が少女の眼帯を捲るのも見た。

そこにはどす黒い青痣が。


…あの女の子も僕と同じなのだろうか。


母親と、柄シャツばかり着る無職の若い男にやられたのだろうか。

ご飯をこぼすと、物音を立てると、泣くと、固めた拳で何度も…。


「今夜は遅く帰れ」


男の声は青年の耳に鮮明に流れ込んできた。

たくさんの喧騒が周囲に溢れていたというのに。

男は呆然としている少女をそこに残し、人の流れに身を投じ。

青年の立つ方へと大股でやってきた。

青年はどうしようか迷った。

声をかけようか、後をついていこうか、肩を叩いてみようか。

迷っている内に男はもう目の前にやってきていた。

青年が思い切って口を開こうとしたら、男の独り言がそれを遮った。


「これ以上河原に子が増えたら堪らん」


強靭な風が耳元を吹き抜けていったかのような気がした。

その場に立ち尽くし、大柄な体で暑苦しい人波を練って歩く男の後ろ姿を目だけで追い続ける。

息を切らしてやってきた会社の後輩に肩を叩かれて青年は夢うつつな一時から現実へと帰ってきた。

二次会の場所が決まったと、

後輩に促されて歩き出す間際、

目をやれば、

眼帯をした少女は赤い暖簾を下げた居酒屋の壁に寄りかかり、

陶然とした大人達をぼんやり眺めていた。


「子供が増えたら困る河原って何だろう」


青年はついポツリ呟く。

隣の後輩はそれを聞き逃さなかった。

酔いの回った赤ら顔を青年に向け、八重歯を覗かせて笑った。


「それってナゾナゾですか?」


青年は笑わない。

後輩は気にもせず、艶々した頬に笑みを絶やさず言った。


「それってもしかして賽の河原ですかね」


初めて耳にする、青年には聞き慣れない言葉だった。


「死んだ子供が向かう地獄らしいですよ」


死んだ、子供が、向かう、地獄。


「河原で、石をたくさん積み上げれば成仏できるとか」


違う。

石は積み上げるためのものじゃない。

母親とあの若い男を、顔がわからなくなるまで滅多打ちするのに使うんだ。

血塗れの石が二人の殺害現場にたくさん落ちていたというのだから。

口の中にまで詰まっていたというのだから。


「でも鬼がいて、」

「鬼」

「せっかく積み上げた石を蹴飛ばして邪魔するそうです」


賽の河原の鬼。


あのひどく生臭く、湿っぽい、すえた匂いは、鬼に染み着いていたものだったのだろうか。


「そういえば、さっき、すごく懐かしい匂いがしました」


後輩は手の甲にある火傷の跡を擦りながら、八重歯が一際目立つ笑顔で、そう呟いた。




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