16 霧の彼方に
石を投げた方を見遣って地に刺した剣を抜き、結び目の最後のチェックをする。
「音が返ってくる時間から考えて、距離を多めに見積もっても向こうまでは二百メートルも無いでしょう」
「十分だ」
誇りっぽい足元に無造作に投げ置かれた黒いロープはそれでも余裕がありそうなほどにうず高く積まれていた。
安っぽいく、命を賭けるには頼りない剣の柄。だがそれが自分には唯一とも思える突破口と考えれば、心もとなくは無かった。
カルマの心は良くも悪くも穏やかだった。
急ぐ気持ちは変わらない。
それでも、右も左も分からず闇雲にフィールドを駆けていた時と比べれば、攻略に関わりそうな石碑が自分の進行方向を肯定している。
ライカを失って孤独を感じ続け、いつの間にかこんなちっぽけな墓石が心の支えになるようになってしまった。
「もうすぐだ……きっと……」
それが現実で眠るライカに向けた言葉か、自分に言い聞かせているだけなのか判断できなかった。
剣を握る腕に力を込める。半歩だけ下がり、腕を引いて経験上最も飛距離が出せる構えで剣を逆手に持つ。
「いつでもいい、やってくれ」
ロープの端を掴んでいる天城と視線が交差した。
《投擲》が発動して振りぬいた腕が、蛍火の発光ように淡い残像を残す。
ロープが地面との摩擦で土煙を上げながら急激に伸びていく。
すぐにロングソードが向こうの崖に刺さってからも慣性で引っ張られた分のロープを天城が手繰り寄せる。緊張が保たれるまで張ったロープを、カルマが投げた岩より巨大な、地面から生えた岩の一角に巻きつけた。
「行くか」
腰の高さに固定されたロープに天城が触れる。
「……」
何も言わずに《スレイヤー》を装備したカルマが先にロープに脚を絡ませ、逆さにぶら下がって進む。天城がそれに続き、二人分の負荷が掛かってもロープは少したわむだけで軋みもしない。
《索敵》に映っていた影は今はどこかに行っていた。
二人は伸ばした手の先も見えないほどの濃霧の中を休まず進み、気がつけば垂直に切り立つ壁の前にいた。十メートル以上も上には地上の光がおぼろげに見える。
「もう一働き頼む」
「はい……」
カルマは左手一本でロープに掴まり《スレイヤー》を抜く。
反動で回転しないように足を崖に着け、《スレイヤー》一振りする。ただのロングソードとは雲泥の差の切れ味は、堅固な崖を豆腐のように切り裂いて真一文字の爪痕を残した。
岩壁に刻んだ裂傷に足を移し、今度は少し高い場所へ同じように傷をつける。《スレイヤー》の刃を口に咥え、作った窪みに体重を預けて残る左手で上の傷に手を掛ける。
片手片足で体を引き上げて次の道を文字通り切り開く。
カルマ《中身》にフリークライミングの経験など無いが、仮初の肉体がそれを可能にする。
一瞬たりとも休まずに斬りつけては登り、ロープとロングソードをアイテムボックスに回収した天城がやや遅れてそれを追う。
平地を歩くなら五秒もあれば事足りる距離が、それが高さになるだけで貴重な時間を奪う。だからカルマは、ただ前だけを見る。
地上で敵が待ち受けていないかを《索敵》で確認すれば、点同士が重なるほど多数の光点と、背後から迫る何体かの光点がここへ押し寄せている。いずれもロープを渡っている最中には無かった反応だった。
まだ真上ではない。
だがのんびりしていれば上がる所を蹴落とされるのが目に見えている。可及的速やかに戦闘に適した足場を確保する必要がある。
しかし問題は足場が無い筈の霧の中から迫る敵影。
「チッ……先に行け。すぐに追いつく」
天城にも同じ光景が見えていた。そう言って口笛を短く吹く。
地上の光点は近距離で現れ、早歩きほどの速さで集まってきている。飛行型を相手にするどころか、この速度で登っていても間に合わない。
「クソッ!」
登攀に関わるstrとagiの数値で天城と大差をつけているカルマが悪態をついて、今までの倍以上の速度で動く。
鋭い痛みが手に走るがそれに構わず突っ切る。しかし、モンスターの到着が僅かに早かった。
最上段に掛かったカルマの手の上で、逆光でシルエットだけが見える二足のモンスターの体が膨れ上がった。
「■■■……■■■■■……」
その悲鳴とも嗚咽ともつかぬ声が何らかの攻撃の前兆であることを感じ、片腕をかざして少しでもダメージを減らそうとするカルマの頭の両脇を二本のナイフが掠める。
「速く行けッ!」
何かと切り結ぶ音と共に聞こえる後ろからの鬼気迫る声で、モンスターの頭部と胴体に突き立ったそれが天城の援護だと分かった。前のめりになって真上に倒れ込むモンスターの胴を《スレイヤー》の欠けた先端が両断する。
すれ違いながら撒き散らされたモンスターの黄色い霧状の体液から目を守るために顔を背ける。
「ッ……」
地肌が体液の霧を被った箇所から生臭い煙が上がり、焼いた鉄を押し当てられるような痛みと痺れが走る。
痛みは数秒で治まったがHPが少し削られている。
もし霧でなく、大量の液体を被っていたらあの世行きだった。
地面を掴み、岩肌を蹴って地上まで跳ね上がる。二番目に谷に駆け寄っていたモンスターの頭部をすれ違いざまに斬る。黄色の血飛沫で更に痺れた腕で追撃するのを諦め、クリティカルヒットで硬直した所を姿も見ずに後ろ蹴りで蹴る。
背中を蹴られたモンスターは奈落へ落ちていく。
顔をモンスターの集団に向けると同時に濃密な腐臭がカルマの鼻を突く。
そこには暗くなるほど密集した広葉樹の森を分かつように直線の荒れた道があり、その上に耐え難い悪臭を放つ醜悪な肉塊がひしめいていた。
二足で歩いてはいるが、原形が分からなくなるまでブヨブヨに腫れた五体から黄色い膿を垂れ流すモンスター、デッド・ロスは、とてもじゃないが人型とはいえない醜さだった。
人の気分を害す目的でデザインされたような嫌悪感だけを感じさせる怪物が、カルマの前には五十以上も列を成して津波のように押し寄せる。《索敵》レーダーに光る光点はまだ増えていく。
「多い……」
一人で立ち向かうには多すぎる。
少しでも時間を稼ぐ為に手近なデッド・ロスを斬りつけるが、利き腕の右手は痺れて動きが鈍く、手間取りながら震える《スレイヤー》で斬る。
やっとの思いで一体倒そうが、森から、道の先から、続々と湧き出すモンスターになす術は無く、次第に距離を詰められていく。
半円状に囲まれ、デッド・ロスが次々とカルマへ体液を噴射し始める。
狙いがバラバラだった始めは、何とか避けられた。
だがそれも一瞬でしかない。デッド・ロスの足並みが揃うと包囲網も狭まり、飛び交う体液の密度も増す。
行動範囲を限定されたカルマに少しずつ当たり始める。手足の先端から徐々に毒が蝕んでいく。まだ繋がっているのかも分からない右手は疾うに《スレイヤー》を落としていた。
直撃を腕で防いでもその飛沫が掛かった体は呼吸すらも苦しくなりつつある。
「……ふざ、けるな……」
世界を引き裂くような長い長い亀裂を登り、四面楚歌で死闘を繰り広げたカルマの体は疲弊し、泥と血と体液と砂に塗れていた。どれだけ精神を集中しても弛緩する掌からは血が流れる。《スレイヤー》で強引に刻んだ岩肌も、何度も掴んだ事で手を傷つけていた。
左腕だけを残して全身を封じられたカルマはついに膝を折る。
動きを止めたカルマの残りのHPを溶かし尽くそうと、体液が殺到する。背後は底なしの断崖、逃げ込む空間は何処にもない。
ピンチに都合よく駆けつけるヒーローなど、この世には存在しない。
みっともなく足掻くの事しか自分には出来ない。
「……ここ、で……」
体液が掛かる直前、零コンマ何秒かの短時間に、カルマの眼球が超人的な速さで動き、ウィンドウを操作する。
選択したのは、大剣を捨てること。
カルマの目の前に現れた肉厚の大剣が遮蔽物となり、時間を作った。
デッド・ロスの足の下に転がる《スレイヤー》の代わりに唯一動く左手で、落下する柄まで隕鉄でできたそれを握り。
力の限り横に薙ぎ払う。
体液の雨を大剣の腹が迎え撃つ。壁のように降り注ぐ体液を危険なものだけを取捨選択して狙う能力など無い。
悪あがきの大剣をすり抜けた体液を倒れるように屈んで避ける。
大量の溶解液を浴びた大剣が溶かされていく。役目を果たした大剣は刃が溶けて剣という性質を半ば失い、鈍器に近くなっていた。
握る手にも弾いた体液の飛沫が掛かっている。
散発的な弛緩が始まった左手で、腐食した大剣の握りを直す。
「ゲームの中で死ねるか……ッ!」
大剣を《投擲》する。
武器や防具に使う最低限の金すらも回復薬に費やしているカルマは、もう武器を持っていなかった。
正真正銘、最後の攻撃だった。
膝をついたまま投げた大剣は、スキルの補助を受けてデッド・ロスの体を次々と食い破っていく。
だがデッド・ロスの肉を貫く度に慣性を削ぎ落とされ、やがて地に落ちる。穿った穴も無限に出現するデッド・ロスに塞がれた。
体液の豪雨が小雨になっているものつかの間、ゆっくり一呼吸もすればまたあの弾幕が張られるだろう。
アイテムも持てない体でやれることは何も無い。
緩やかに五体を投げ出そうとしたカルマの耳に希望が届く。
「待たせたな」
それに返事をするよりも先に、体が反応していた。
一斉攻撃を加えようと体液放射のモーションに入ったデッド・ロスを横目に、上体を捻じ曲げて崖に倒れるように腹這いになる。
力が入らない手の先には、太い胴体に人間の泣き顔がある怪鳥の背に乗った天城が居た。怪鳥の両目にはナイフが刺さって飛びながらもがいている。
「掴まって下さいッ……」
「ああ」
そう言って手首に飛びついた天城を、痺れを無視してstrに物を言わせて引っ張る。
瞬間、天城の体がフワリと浮き、カルマの前を通過する。物理の法則を無視した動きで一気に崖を越えた天城は、今にも体液を飛ばそうとしている最前列のデッド・ロス八体へ同時にナイフを投げる。
十本の指の間に挟んで投げたナイフのその全てが頭部に命中し、天城はカルマの背後に軽やかに着地した。
「まだ前へ歩けるな?」
天城が麻痺を治す丸薬を指でカルマへ弾く。
寝返りをうって丸薬を口にしたカルマは起き上がって回復薬を飲んで入れ物を投げ捨てる。
「俺には始めから退路なんて無いんです」
「クク……その意気だ」
天城は小さく笑い、前列のデッド・ロスの下に埋もれていた《スレイヤー》を引っ張り出してカルマに投げる。
「敵は百体以上。だが木偶の坊だ」
皹こそ入ったままだが、刀身は滑らかで体液による侵食は見られない。
まだ、戦える。それはこの苦しみが続く事を意味している。
それでも俺は前に進むしかない。
「……」
つかの間の静寂にデッド・ロスが不快な鳴き声で水を差す。
「■■、■■……」
都心部のラッシュアワーを彷彿とさせる新たな肉の波が、荒れた道を踏み均して地響きを鳴らす。
首だけカルマに向ける天城の瞳孔が収縮する。冷めた目だった。
両の手には、体液に浸食され、刃が泡立ったナイフが拾われている。
「まるで、人間だな……」
呟いた言葉は、相も変わらずどんよりと曇る空に消え入り、誰の耳にも届かなかった。
天城はそれきり口をつぐみ、短距離の助走をつけてデッド・ロスの大集団に飛び込んだ。
軽々とデッド・ロスの頭上を越えて集団の中程に降りた天城は、直ぐにカルマの視界から消え失せた。
西から差す日がもう時間が無いことをカルマに知らせる。
夜が近い。夜はモンスターの時間だ。
月明かりがあればかなり明瞭な視界が確保できるが、この辺境の地ではまともに月が出た例がない。
夜が来る前に、この津波をどうにかするしかない。
細胞の一つ一つが鉛に変わってしまったように重く気だるい体を動かして、カルマはデッド・ロスの壁へ突撃する。
今求めるものは、最速の剣。
「……《雪月花》」
恐るべき高速で刺突を繰り出される。デッド・ロスの首の付け根から体液が噴出するが、カルマはもうそこにいない。
返り血をも振り切り、離れた場所で二撃目が二体目のデッド・ロスに叩きつけられている。
残像を残す速度域のスキルに対応出来る個体は居なかった。
襤褸クズになるのがデフォですが、天城は作中でダントツにチートな人物ですので悪しからず。
当たり前のように神経衰弱をノーミスクリアするレベルです。
各人物の身の上話もそろそろ挟もうかと思ってます。
質問はいつでも受け付けてます。
ご意見ご感想も待ってます。




