好きな人の好きな人
放課後の教室には、まだ夏の熱が残っていた。
私は窓際の席で、ノートを閉じる。
前の席には、彼がいる。
山本くん。
背中越しでも分かる。
少し猫背で、髪が柔らかくて、シャツの襟がいつも少し曲がっている。
私はずっと、この背中を見てきた。
授業中も。
テスト中も。
プリントを回すときも。
でも話したことは、ほとんどない。
理由は簡単だ。
彼には、好きな人がいるから。
私はそれを知っている。
知っているから、何も言えない。
その日、彼が珍しくこちらを振り向いた。
「ねえ」
心臓が跳ねる。
「消しゴム、落としたよ」
机の脚のそばに白い塊が転がっていた。
「あ、ありがとう」
声が裏返る。
彼は少し笑った。
「よく落とすよね」
「う、うん……」
覚えてるんだ。
そんな小さなこと。
胸が痛くなる。
好きな人がいるくせに。
私は視線を逸らす。
彼は一瞬、何か言いかけて、やめた。
それから数日後。
私は見てしまった。
廊下で、彼が女子と話しているところを。
長い髪。
細い指。
優しそうな笑顔。
彼は少し照れた顔で話していた。
ああ、やっぱり。
この人だ。
私はすぐに分かった。
胸の奥が、静かに沈む。
その日の帰り道。
靴箱の前で、彼が立っていた。
私を待っているように。
「……あの」
彼が言う。
「ちょっといい?」
私はうなずく。
昇降口の外。
夕方の光。
影が長い。
彼はしばらく黙っていた。
靴先で地面をこする。
そして意を決したように顔を上げた。
「俺さ」
喉が鳴る。
「好きな人、いるんだ」
知ってる。
でも頷く。
「うん」
「ずっと前から」
知ってる。
ずっと見てたから。
「そっか」
声が少し震える。
彼は続ける。
「でもさ」
手が、制服の裾を握る。
「その人、たぶん……」
言葉が途切れる。
私は笑おうとする。
「応援するよ」
彼が止まる。
「え?」
「その人のこと、好きなんでしょ」
私は視線を落とす。
「今日、見た」
彼が息を飲む気配。
「廊下で話してた子」
沈黙。
私は続ける。
「きっとあの子だよね」
胸が痛い。
「優しそうで、可愛くて」
言葉が滲む。
「お似合いだと思う」
彼は何も言わない。
私は笑う。
「だから——」
「違う」
私は顔を上げる。
彼が見ている。
「違うよ」
真っ直ぐに。
「俺が好きなのは」
心臓がうるさい。
「ずっと前から」
彼が一歩近づく。
「消しゴム落とす人」
世界が止まる。
「授業中に、前の席の背中見てる人」
呼吸ができない。
「俺が振り向くと、慌ててノート見る人」
足が動かない。
「俺の好きな人は」
彼の声が少し震える。
「君だよ」
音が消える。
風も、声も、靴の音も。
ただ彼だけがいる。
「……え」
私はかすれ声を出す。
「でも」
頭が混乱する。
「廊下で話してた人」
「あれ、幼なじみ」
間抜けな声が出る。
「え」
「恋愛相談してた」
彼が苦笑する。
「君の」
世界が揺れる。
「どうしたら話せるかって」
私は動けない。
「ずっと好きだった」
彼が言う。
「前の席になった日から」
私は思い出す。
席替えの日。
彼の背中が前に来た日。
私の恋が始まった日。
彼は続ける。
「君、俺のこと見てたでしょ」
顔が熱い。
「俺もさ」
彼が笑う。
「後ろ、気になってた」
涙が出る。
「だから」
彼が言う。
「好きな人の好きな人が」
少し照れて。
「自分だったらいいなって」
私は泣きながら笑う。
そうか。
私はずっと、
好きな人の好きな人を見ていた。
——それは、
私だった。
夕方の光の中で、
初めて彼の隣に立つ。
前でも後ろでもなく。
同じ向きで。
同じ速度で。
帰り道を歩き出した。




