009 だから最後まで嘘をつく
その日の夜。
俺は、会社に誰もいなくなった後で会議室に真宮を呼び出していた。決着をつけるために相応しい場所とは言い難いが、落ち着いて話すにはちょうどいいだろう。
「珍しいですね、先輩。こんな時間に呼び出しなんて。ひょっとして、あたしのこと好きになったんですかぁ?」
隔離された空間、呑気な表情で彼女は俺を見ている。久しぶりに、真宮の顔を見た気がする。大学時代よりも大人になった姿にハッとして、俺は、俺が逃げていたことを改めて認識した。
「なぁ、真宮。聞きたいことがあるんだ」
呼び捨てにすると、真宮は笑顔を咲かせた。鈍感な俺にも分かる。心の底から喜んでいる、幸せを隠そうともしないかわいらしい笑顔だった。
……今から、俺はこの表情をした女にトドメを刺すのだ。
「なんですかぁ?」
「お前、喫煙所のこと見てたろ」
一瞬、真宮の動きが止まった。まだ笑っている。しかし、それが一秒前とはまるで違う、顔に張り付けた偽物の笑顔であることに俺は気が付いていた。
「さぁ、何を言ってるのかさっぱりピーマンです」
「俺が有坂にタメ口きいてるの、お前は知ってたからな。二人の時にしか、俺はそんなことしてねぇのさ」
「……」
「ごめんな」
すると、真宮は怒りの籠もった表情で俺を上目遣いに見つめた。
「なんで、謝るの?」
「俺は、お前の気持ちから逃げた。過去のことは割り切ってるもんだと信じて敬語を使っちまった。そのせいで、お前に寂しい思いをさせた。だから、ごめん」
一瞬の静寂。
「……ふふ、ふふふっ。あははっ!! そこまで分かってて、まさか離れていくのを許すと思ってるの?」
「いや、思ってない。だから、俺はお前に許されようとは思ってないよ」
「……え?」
俺は、両手をぶら下げて真正面から彼女を見据えた。
「もっと言えば、社内に変な噂流したとか、俺のことを恨んでいるとか。はっきり言って、そんなことはどうでもいいんだ。俺は大人だ。評判で金稼ぎしてる身分でもない。ここがダメになったって、自分の食い扶持くらい自分でなんとかする。相応の手間はかかるけど、今までだって似たような経験もしてるからな」
「……っ」
「そもそも、俺が伝えたいことってのはさ。真宮。たった一年ぽっちの最近の話じゃないんだよ」
「なら、何を……」
「論文、完成させようぜ」
× × ×
それは、想像すらしていない提案だった。
普通、あたしを説得しようと必死こいて足掻いてみせる場面じゃないのか? 彼女のためなら死ねるだとか、こんなことはお前の為にならないとか。カスみたいなペラッペラの綺麗事を並べる状況じゃないのか?
それなのに、論文を完成させる? この人は一体何を言っているんだ?
「俺、ずっと心残りだったんだ。お前と一緒に始めた研究を、最後までやり遂げられなかったことが」
「……は、はぁ? なにそれ、マジで何言ってんの?」
「楽しかったんだよ。俺、今まであんなふうに誰かと一緒に勉強したことなんてなかったから。一つの目標を、誰かと並んで目指す喜びなんて知らなかったから」
どうしてか、体が震えてくる。悪い事をしている自覚なんて無かったのに。何をしたって、先輩を手に入れようと思っていたはずなのに。責められるだけなら、絶対に耐え切る自信があったのに。
……虚勢が、壊れる。
「大学生活、楽しかったよ。お前と一緒にいられたからだ。お前にはさ、真宮。本当、色んなことを教えてもらったと思ってる。多分、一生忘れられないものも貰った。感謝してるよ」
「……じゃあ、なんでよ」
「……」
「じゃあ、なんであたしじゃないのよ!! あたしとあの女の、一体何が違ったってのよぉ!!」
分かってたよ、先輩。
あなたの目が、大声や泣き言で揺れることなんて無いってことくらい。
でも、叫ばずにはいられなかった。
「とどのつまり、臆病なんだよ。俺は。色んなことにビビリ過ぎて、何を信じればいいのかずっと分からなくてさ――」
「そんなことないでしょ!? 先輩は頭が良くて、カッコよくて、なんでも知ってる!! 臆病なんて嘘だよ!! それに……それに……っ」
こんな時でさえ、自分の言葉を引っ込めて待ってくれる。あたしが訊いたことを、あたしが遮って、それでも、あたしを待っててくれる。
そんな人が、弱いわけない。臆病なんかじゃない。先輩は、いつだって自分や他人と向き合ってる人だ。他の誰でもない先輩だけが、優しさを誇っていいくらいに優しい人なんだ!!
だから――。
「いいよ」
「……ぁ」
「聞いてるから、言ってごらん」
……ズルい。
ズルいよ。
「好き、なの……っ」
そんなこと顔されたら、嘘なんてつけないよ。
「好き、本当に好きなの。先輩。あたしは、今でもずっと先輩のことが大好き。誰よりも愛してるよ……。だから、お願い。あたしと一緒にいて。お願い……っ」
……どうして、もっと早く伝えられなかったんだろう。
「ありがとう、本当に嬉しいよ。真宮」
……あたしって、バカだな。
「でも、ごめん。お前とは付き合えない。俺は有坂が好きだ」
ずっと、こうやって真正面からフラレることを避けてきたのに。付き合ってもらった時だって、心の中に誰かがいるのは分かってた。必死に見てもらう努力をしたのに、不安で仕方なかった。だから、別れる時、『それでも一緒に居たい』って縋るのが怖くて。最後かもしれないのに、最後まで素直になれなかった。
それなのに、もう取り返しのつかないくらい酷いことをした今になって、ちゃんと失恋しようと思うなんて。
本当に、バカだ。
「……はぁ。なんか、違うなぁ」
「なにが」
「失恋したら、思ってたよりスッキリするとか、清々しい気持ちになるとか、むしろ前向きになるだとか。そういうこと言う人や物語、世の中にはたくさんあるでしょ」
「そうだな」
「あんなの、全部嘘だよ。嘘っぱち。勝手に失恋を美しいものにして、諦めることを正当化させようとする優しい嘘。だって、そうじゃなかったら、あたし……。あたし、こんなに悲しい……わけ……な……い……っ」
あたしは、先輩にしがみついて大声で泣いた。
彼の胸の温かさに触れていると、後悔と無念で心が張り裂けそうになる。もう二度と、こんなふうに触れられない未来が怖くて、だから、あたしは泣いている。
もっと、先輩を見ればよかった。もっと、先輩を知ればよかった。あたしは、ただ、あたしが先輩を好きって気持ちだけでどうにかなると思っていた子供だった。その時点で、あたしと先輩が本当の意味で結ばれることはなかった。
そして、それだけ理解していても、あたしはまだ、城田依弦が大好きだ。この気持ちが消え失せるとはとても思えない。いつまでもずっと、叶わない恋をしなければならないと思うと、明日が来るのが嫌になる。
……この苦しみこそが、あたしの犯した罪への罰なのだろう。
「……えへへ」
どれだけの時間、泣いていたのだろう。
先輩は、あたしの頭を撫でるわけでもなく、かと言って突き放すわけでもなく。ただ黙って、最後の時間を甘えさせてくれた。
このまま時間が止まればいいのに。
そんな、お伽噺のお姫様みたいな事を考えてしまう自分が、この上なく滑稽に思えた。
「……もう、噂はどうにもなりませんよ。あたしが言うのもなんですが、あの手の類の人間に合理的な考え方を求めるのは無意味です」
「知ってる」
「なら、どうするつもりですか。先輩は大丈夫でも、有坂は大丈夫じゃないでしょ」
「考えはあるよ。後は、実行するだけだ」
「……怒って、ないんですか?」
「ちょっとね。でも、もう許した」
「どうして?」
「許さなかったら、俺とお前の今の関係が終わらないから」
……本当、敵わない。
いつも正しくて、優しくて、強くて、カッコよくて。
でも、後ろめたい人にとっては、清々しいくらいに残酷だ。
「先輩。あたし、先輩が好きです。でも、有坂のことは大嫌いです。だから、あなたたちの幸せは願いません。いつか、あたしをこんな目にあわせたあの女が、誰より不幸になることを祈ってます」
「なら、あいつがそうならないように頑張らねぇとな」
あたしは、その言葉を聞いて思わず笑みを零してしまったが、即座に隠すと、ついでに先輩のシャツで涙を拭いてゆっくりと離れた。
……さよなら、依弦先輩。
「さて、論文のテーマはなんだったかな。思い出すところから始めないと」
「はぁ? 何言ってるんですか?」
「なにって、だから――」
「前にも言いましたけど、あたしは哲学なんて興味ありませんし、今さら論文執筆なんて絶対に嫌です。書きたいなら、城田さん一人で勝手に書けばいいでしょ」
あたしは最後まで嘘をついた。
それが、有坂に負けたあたしの礼儀だと信じたから。
「そうか、残念だ」
彼は、静かに笑ってくれた。
「……本当に、残念だよ」
そして、あたしは先輩を置いて先に会議室を出る。
恋したあたしが最後に見る彼が笑っていて本当に良かったと、心から思った。




