007 間違っているのは世界の方
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研究室へ行くと、依弦先輩が資料らしき本を読んでいた。真剣な眼差しがカッコよくて、このままずっと隠れていようかとも思ったけれど、構ってほしさに耐え切れず声をかけてしまった。
「せんぱぁい、今日もおひとり様ですかぁ?」
依弦先輩は、本を閉じてあたしに腹を向けた。一見なんてことのない仕草に思えるけれど、こういう真摯な態度をとる人は滅多にいないことをあたしは知っている。何をするにも、ちゃんと向き合おうとしてくれていることが嬉しくて、なんだか頭がぽーっとしてくる。
「教授が席外してるからな、今は俺一人だ。研究か? 真宮」
「違いまぁす、せっかく来たのに休講だったので暇潰しにきただけでぇす」
「そうか。まぁ、ゆっくりしていけよ。茶ぁ淹れてやる」
……大好き。
あたしは、依弦先輩が大好きだ。依弦先輩の目が好きだ。いつも、遠いところを見据えている目。強い信念を感じる目。形が鋭くて、ちょっと怖く見える目。けれど、笑うとシワのよるかわいい目。
気を抜くと、うっかり依弦先輩の目に視線が吸い込まれてしまう。そして、何も考えられなくなるたびに彼は静かに笑って――。
「どうした? 何か困ってるのか?」
泣きたくなるくらい、優しくそう言ってくれるのだ。
「なぁんにも困ってませ〜ん」
「そうか」
先輩は、マグカップに紅茶を淹れてあたしの前のデスクに置いた。色違いの先輩と同じマグカップ。彼のカップの底に貼りっぱなしになっていたラベルを見て、わざわざ同じものを買ってきたのだ。
もちろん、先輩はそんなことに気が付かない。だって、そういう時だけバカだから。
「何読んでたんですかぁ?」
「社会思想史をちょっとな」
「相変わらずの哲学バカですねぇ。あたしには、それの何が面白いのかさっぱりピーマンです」
事実、私がこのゼミに入ったのは哲学を学びたいからではなく、依弦先輩と一緒にいたいからだ。アリスとかテレスとか、そんな昔の人の考え方になんて少しも興味はない。
「それ聞いたら、教授や同期が悲しむぞ」
「べっつに〜。先輩以外に本音なんて話しませんし、仮に聞かれたとしても、鼻の下伸ばして寄ってくる男たちが悲しんだってあたしの胸はちっとも痛みませんも〜ん。むしろ、ここでの話を盗み聞きなんてしてたらやっつけてやりますよ。シュッシュッ!!」
拳を二回突き出す。依弦先輩は苦笑い。
「逞しい奴だな」
「だって、聞いて下さいよ。先輩。この前飲み会参加したらまさかの合コンだったパターンで!! あいつら、無茶な飲み方させて酔わせようとしてきたんですよ!?」
「そりゃ災難だったな」
「男なんて、一皮剥けばみーんなあんなもんですよ。ケダモノです、ケダモノ。こっちは、あたしがいなきゃ盛り上がらないかな〜って思って、仕方なく参加してあげたのにさぁ。もう、ほんと最悪っ!!」
「それでも、無事でなにより」
ここまで分かりやすく説明しているのに、まだ素っ頓狂なことを言いやがるから、いよいよこの恋愛ポンコツ野郎を非常に分からせてやりたい気持ちになった。
「なにか、言うことがあるでしょう?」
言って、あたしは依弦先輩の膝の上に座った。続き、腕を掴んで胸の間にギュッと抱く。別に恥ずかしくなんてない。
だって、大好きなカレシにおっぱいを触らせてあげることくらい、朝の挨拶と何も変わらないから。
「……得意じゃないんだよ、そういうの」
「得意じゃなくても付き合ってくれないとダメ。だって、カノジョが合コン行ってるのに嫉妬しないなんてありえないから」
「心配してるよ」
「それだけじゃおかしいでしょ。気が付いてないかもしれないけど、私、本気で怒ってるよ」
あたしは、依弦先輩のカノジョだ。れっきとしたコイビトだ。それなのに、嘘で合コンに参加させられて、怒りもしないなんてあり得ないに決まってる。
「悪い、真宮。やっぱ、俺はそういう気持ち分からない」
「……まだ、好きになってくれないの?」
「ごめん」
分かってる。
酔っ払ったから食ってやろうだなんて、そんな下劣な考え方が依弦先輩にないってことは知っている。セックスすることが、幸せと直結しない男がいることを承知している。例え、あたしが彼の初めての女だからといって、それの虜になっていないことだって理解してる!!
……だから、ムカつくんだ。
先輩は、いつもあたしじゃない誰かを見ている。記憶から引き離そうとして、断る先輩に無理矢理付き合ってもらったあたしでは、何をしたって心が手に入らない気がしてしまう。
憂鬱だ。
あたしには、何が足りないんだろ。
「なぁ、真宮。罪滅ぼしってわけじゃねぇんだけどさ、よかったら俺と一緒に論文書かないか?」
「……へ?」
「興味ないとは言え、表面上は同じテーマで研究してるんだしよ、共同執筆も面白いと思うんだ。コンクール用に手ぇつけてるもんがあるから、これを一緒に完成させよう。履歴書に書けることは、多けりゃ多いほどいいだろ?」
突然の提案。
あたしは、この優しさに違和感を覚えていた。コイビトに対する優しさとは思えない。とどのつまり、あたしはいつまでたっても後輩のままだという現実を突きつけられたような気がして、心の底から切なくなる。
そして、こんなに切ないのに、同時にどうしようもなく嬉しくなってしまう自分が腹立たしい。この程度で満足してしまうことが悔しくて、あたしは先輩に深く頭を預けるとため息をついた。
「……仕方ないなぁ、先輩は。あたしがいないと、論文も書けないんだから」
「あ、あぁ」
「いいよ、やってあげる。喜んでいいよ」
「ありがとう、頑張ろうぜ」
その日から、あたしは今までよりずっと長い時間を先輩と過ごすことになった。せっかくコンクールに提出するなら、生半可なものは出せない。そういって、講義が終われば研究室に籠もり、どうせ考えたって答えの出ないようなものについて理論を連ねた。
研究室にはいつも誰かがいて、二人きりになれることはあまりなかったけれど。先輩の横顔に我慢できなくなるたびに、あたしは隠れてキスをした。
「えへへ」
先輩は、鋭い目を細めて笑ってくれる。あたしだけに向けた、あたしのための笑顔。たくさん不安になるけれど、この笑顔があたしのものだってことだけは確かだ。
今はそれでいい。
既に、依弦先輩はあたしのものだ。ゆっくりと時間をかけて、好きにさせればいい。あたしのことを大切にしてくれるのと同じくらい、いつかあたしに甘えさせてあげたい。疲れた時、あたしと一緒にいるだけで癒やされるような、そんなコイビトになりたい。
だから、今はそれでいいんだ。
……そう、思っていたのに。
「先輩、大学辞めるってどういうことですか?」
別れは、突然やってきた。
「家庭の事情ってやつだよ」
「事情なんて関係ないでしょ!? 一人暮らしじゃないですか!!」
「うちの親、中学ん時に離婚しててさ」
「……え?」
「俺は親父についていったし、今は奨学金とバイト代でどうにかなってんだけどな。弟は母親と暮らしてたんだ。けど、最近になって母親が再婚して、弟が肩身狭いってんでよ。とりあえず俺と暮らすことになったのさ」
「お、お父さんは?」
「知らねぇ、俺が高校を卒業したタイミングで消えた。別に思うこともねぇがな」
意識が、遠退いて行く気がした。
なんで、そんな大切なことを話してくれなかったの?
「ただ、弟はまだ高校生なんだ。おまけに、あいつは俺より頭がいい。大学行くなら、俺よりあいつだ。そのために、俺は働かなきゃなんねぇ」
なんで、そんな顔で自分のことを諦められるの?
「それでよ。俺、広い部屋に引っ越さなきゃいけなくてよ。都心から離れるんだ。なんというか、しばらく忙しくなるし、遮二無二働かなきゃいけねぇんで、会えなくなるっつーかよ」
なんで、あたしは彼の力になってあげられないの?
……。
「だから――」
「別れる」
「……あぁ」
「別れるよ、先輩」
あたしには、彼をフッてあげることしか出来なかった。
それしか、力になれることはなかった。
「……行って」
「……でもよ」
「行ってってば!!」
早くしてくれないと、縋り付いてしまいそうだった。行かないでって。ずっと側にいてって。泣いて、泣き喚いて、もう二度と離れられないように縛り付けてしまいそうだった。
そんなことをしたって、先輩を困らせるだけだ。それだけは、絶対にしたくなかった。
「今までありがとうな」
きっと、たくさんの言葉を考えてくれたのだろうけれど、口にしたのはありきたりなものだった。先輩は、最後まで優しい。今、綺麗事を言ってしまえば、あたしが囚われてしまうと知っていた。
先輩は、静かに研究室の扉を開ける。早く行って。もう、堪えきれない。
「……ばか」
扉が締まったと同時に、声にならない悲しみが涙になって絶え間なく溢れてくる。頬を伝う冷たい感触。触れると、弟さんのことなんてどうでもいいって。あたしだけ見ていてって。どうして、そうやって縋らなかったんだろうって、すぐに決意を裏切るように後悔が押し寄せた。
「痛いよ、先輩」
先輩のいない研究室。デスクの上には、書きかけの論文が寂しそうに広げてあるだけだった。




