第149話 賛美歌
賛美歌。簡潔に言えば、神を褒めることで精神を整える歌。それをそのまま歌唱すれば、心が清らかになり、歌う人数が多ければ多いほど、神の力を増長させることに繋がる。神を天界に送ることを趣旨とする生前葬では逆効果であり、相手が天使であれど例外ではない。通常の運用では、神にまつわる者を地上に繋ぎ止める結果を招くため、少しばかりアレンジを加える必要があった。
『――――』
私は祭壇の正面に立ち、猫のままで歌声を奏でる。それに伴い、長椅子に座る大量の猫たちは同時に声を上げる。高らかな旋律が聖堂内に響き渡る。歌声を反転させる……なんて凝った芸当をする必要はなかった。猫は古来より魔女の使い魔として知られ、特に魔女を迫害してきたヨーロッパでは邪悪な存在や不吉の象徴としてのイメージが強い。そんな私たちが賛美歌を歌うという矛盾した行為そのものが、元来の要素を反転させる。
聖堂内の隅の方に生じるのは、半透明の階段。歌声を紡ぐ度に一段ずつ増えていき、天井に向かって左回りの反螺旋状に伸びていく。天井に到達した時点で生前葬は完了する。悪魔に宿った天使は天界に帰還することになる。問題は……。
◇◇◇
展示物立体表現技法により作成した聖マルタ大聖堂は、思った通りに機能した。ジオラマであるはずの猫に魂が宿ったようだった。細部に神は宿るというが、まさにこのことなのだろう。確かな手応えを実感するものの、こちらの勝利が確定したわけではない。
「「…………」」
正面入り口付近にいるわたくしと天使は睨み合う。他の存在には見向きもせず、わたくしだけをターゲットに見据える。どうやら、聖堂と賛美歌を成立させる本質に気付いたらしい。実際、その見立ては正しい。意思能力を維持するわたくしさえ倒せれば、生前葬は瓦解する。賛美歌を指揮する灰色猫に襲い掛かるのも一つの手ではあるが、『祝詞』が通用しないわたくしをフリーにすることになる。あのナイフを見せた以上、うかつに放置はできない……と天使は考えているだろう。わたくしの手札は全て明らかになったわけではない。他にも手札を隠し持っているかもしれない。その短絡的な猜疑心が、わたくしの意図した方向に足を進ませる。
「「――――」」
もはや、言葉は不要だった。猫の賛美歌をBGMに、わたくしたちは同時に駆け出した。敵の能力を把握し、対策を施して可動域を削り、対天使用の道具や意思能力を駆使して、最後に行き着くのは極めて原始的なコンテンツ。
「「―――――っ!!!」」
暴力。わたくしの右拳と天使の右拳が空中で交差し、お互いの左頬に到達する。遅れて黒と緋色のセンスが迸り、わたくしたちは弾き飛ばされるように後方へ距離を取った。もはや、ここまでくれば言葉は不要。戦闘に意識は溶けた。
◇◇◇
聖堂内でじいやとジュリアの殴り合いが始まった。いや、じいや対天使と言い換えた方がいいか。どういう状況かは詳しく分からねぇし、戦いに参加した方がいい気もするが、僕の頭の中は別のことでいっぱいだった。……アウロラ・ルチアーノ。じいやは灰色猫のことをそう呼んだ。僕とは無関係の存在だと思っていたが、どうやら違うらしい。親戚か、親父の兄妹か、隠し子か、同じ苗字なだけか。色々と考えられることはあるが、一つだけ確定しているのは、僕の母親じゃないという点だ。
8年前、僕の両親は漆黒の鎧に殺された。真相は闇の中だが、両親が殺された事実に変わりはないはずだ。少なくとも、親父が殺される場面は目撃した。母親が殺される場面を目で見たわけじゃねぇが、名前はアウロラじゃない。ローラだ。猫化してるから容姿を確認できねぇってのもあるが、話し方も性格も全然違う。だから、さっきの四つの説が僕の中での有力候補になる。
今、考えたところで答えが出ないのは分かっていた。立て込んだ状況の中で妄想を膨らませるのは建設的じゃねぇって理解していた。……ただ、なんとなくだが、僕のルーツに関係している気がする。ある程度の予想が立てられれば、よく分からん状況の中でも先行きが見通せるはずなんだ。
◇◇◇
これが予測不能の未来ってやつか。俺はセバスから聞かされていた未来とは大きく異なる展開に困惑していた。立場も目的も自分の中で明確だが、いまいち動き出せずにいた。手助けをしたいのは山々だったが、俺は敵の意思能力への耐性を持っていない。下手に動けば、敵の手に落ちる可能性が高く、かといって、何もしないというのも気が引ける。恐らく、ラウラも似たようなことを考えているのだろう。今、自分には何ができるのか。何を優先すべきなのか。それを問われている。あのクソったれ天使を天界に送ることはこの場の総意なんだろうが、細かい優先順位は各々の立場と心情によって異なる。
俺が優先するべきものは何か。セバスと天使との戦闘が激化する中で、密かに問いを立てる。ルチアーノファミリーの殺し屋稼業をモチーフにしたマフィアを組織するのは当然として、その未来に通ずる匂いを嗅ぎ取れ。誰の味方につけば得をするか。誰なら命を張る価値があるか。誰を勝たせれば望んだ未来が開けるか。……残念ながら、この場の主役は俺じゃない。化け物同士の戦闘についていける気がしない。志だけは立派なもんだが、実力も実績もまだまだ未熟だ。それらを全て受け入れた上で考えろ。俺が優先するべきものは何か、だ。
◇◇◇
『祝詞』があれば、大半の相手には勝てた。場に合わせた二字熟語を考える知能さえあれば事足りた。鍛錬をする必要がなかった。血生臭い努力をする意義を見出せなかった。才能さえあれば何事も上手くいくと思っていた。
「……っっ!!」
しかし、目の前で拳を振るう男は、ワタシの対極にいる存在だった。肉体もセンスも意思能力も凡庸。人間界ではそれなりに戦えるのだろうが、天界目線で言えば、平均を大幅に下回るレベルだろう。……ただ、準備を怠らなかった。努力を惜しまなかった。油断も慢心もせず、対天使用に特化した対策を施した。『祝詞』のないワタシは、才能頼りの腑抜け者だと気付かせた。それだけで、生きてきた価値がある。ワタシに気付きを与えた時点で、天命を終えている。幕を下ろしてやらねばならない。それなりの年齢を重ねてきた老体を次のステージへ循環させねばならない。
「…………」
ワタシはセバスの拳を腹で受けつつ、右手の掌を敵の顔面に向けた。確かに、基礎的な攻防ではワタシを上回っているかもしれない。意思能力を実質的に封じられたことによって、ワタシの努力不足が可視化されたかもしれない。……だが、果たして、対天使用の刻印はどこまで役に立つのだろうか。天使が出力したあらゆるものを全て否定できるとは到底思えない。限界があるはずだ。わざわざ、相手の得意な土俵で戦ってやる必要はないはずだ。『祝詞』の真価はあんなものではない。『露見』程度の安い言葉が通じなかったからといって、他の言葉を諦める必要はない。ワタシはワタシの才能を信じている。血生臭い努力を踏みにじれると知っている。それが天使だ。人間の上位存在だ。ワタシは一言で終わらせることができる魔法の言葉を知っている。制限された天界の力を解放できる術を持っている。この期に及んで出し惜しむ必要はない。ワタシを追い詰めた努力に免じて、褒美をくれてやる。
「――円天」
◇◇◇
超至近距離で放たれるのは、円形状の緋色のセンスだった。見た目だけなら、ただの意思弾の延長線上に見える。ただ、直面した時の印象は全くの別物だった。何も感じない。目に見えて分かるのに、その威力を予想することができない。秤が壊れたような感覚と言えばいいのか。人間が推し量れる領域にない出力。知能指数に開きがあれば話が通じないという通説があるが、それと似たようなものかもしれない。実力差に開きがありすぎて、正常な評価を下せない。それが、わたくしを恐怖へと駆り立てた。刻印があろうがなかろうが、殺されると思うには十分な超常現象だった。
直後、身体の一部が欠ける感触があった。右手の甲に焼けるような痛みが走った。敵の攻撃が接触したからではない。わたくしの自信が喪失したせいだ。意思の力はできると思ったものを現実にする力があるが、逆もまた然り。できないと思ってしまえば、効力を失う。身に刻まれたものは特に影響を受けやすく、第三者の関与を受けていようとも、本人の状態や思考によって出力は大きく上下する。
今、対天使用の刻印は消えた。戻る可能性もあるが、この攻防に関して言えば、確実に戻らない。自然と訪れるであろう結末が頭をよぎる。もしかすれば、わたくしが見てきた未来よりもひどい惨状になる光景が目に浮かぶ。もう後戻りはできない。タイムリミットも迫っている。今日のわたくしが責任を取れないところまで来てしまっている。仮に見届けられないとしても、ここで息絶えるとしても、生前葬さえ上手くいってくれれば、それで……。
「飛燕舞踏会!!!」
死を悟ったと同時に聞こえてきたのはジャコモの声だった。同時にシルクハットがわたくしの胴体に直撃し、放たれる円天は聖堂を突き破り、空を切った。それを見届けると、視界にはノイズが走る。逆行の前兆。残された時間は多くない。
「後は、任せましたよ……」
わたくしは残りの展開を丸投げし、意識は過去に飛んだ。




