第117話 生か死か
身体の力が抜けていくのを感じる。血が冷たくなっていくのが分かる。『天使化』が進行した。まだ自意識は残っているけど、ここから先はどうなるか分からない。人格を『天使』に乗っ取られるのか、僕のままで頭がおかしくなるのか。
……まぁ、なんにしてもやることはやった。今の僕の全力をぶつけた。ここで意識を失っても、後悔はない。結果を見届けて、ジュリアと別れの言葉を交わして、終わりだ。できることならチョモスとの決着をつけたいところだけど、これは過ぎた願望かな。僕抜きでも彼女たちならどうにかできる。新しい仲間を迎えたようだったし、金髪の囚人の心身掌握もそろそろ解ける頃合いだ。後は任せよう。
「…………」
フワリと地面に降り立ち、驚くほど静かになった中庭を見る。そこには超大型戦車が鎮座し、先ほどの甲虫は見る影もない。簡潔に言えば、ペシャンコだ。あれだけの体積を圧し潰せるほどの質量がアレにはあったらしい。メイン火力は別であったわけだけど、使う予定はなかったし、思い描いた通りの結末だ。僕は視線を切り、歩みを進め、仰向けに倒れる緋色髪の悪魔のもとへと辿り着く。
「やぁ、元気?」
「――そう見える?」
「病状は?」
「――全身複雑骨折。――ソラルよりひどい」
「ははっ、言えてるね。笑い事じゃないのかもしれないけど」
「――笑い事だよ。――悪魔だから放置すれば治る」
「それって、骨ごと再生するの?」
「――折れた骨同士がくっつく感じ。――そんで元に戻る」
「なんだか時間を巻き戻したみたいだね。再生というよりも逆行に近い」
「――私のことはいい。――それより、そっちは大丈夫なの?」
都合が悪いのか、詳しく知らないだけか、ジュリアはバツが悪そうな表情を作り、顔を背けて、話題を切り替える。どうやら、僕の変化に気付いているらしい。無理した日常会話も作り笑いもバレバレってところかな。
「率直に言うと、限界が近い気がする。こうして話せるのは最後かも」
僕は正直に本音をこぼすと、和やかな雰囲気が一気に引き締まるのを感じた。ジュリアの表情は曇り、口を真一文字に結び、沈黙を貫いている。気の利いた一言を探しているのか、別れの言葉を切り出せずにいるのか。僕が彼女の立場でも似たような反応をするかもな。余命宣告された友人がいたとして、それを急に聞かされたら、なんて声をかけていいか分からない。何を口にしても薄っぺらく感じてしまう。当人の気持ちに寄り添う発言はできても、根本的な解決にならない。むしろ、下手な配慮は神経を逆撫でする結果になることが多い。末期患者に『辛かったね、ご苦労様でした』なんてのは最悪だ。本人は生きたかったに決まってる。やるせない思いでいっぱいになって不満や怒りをぶちまけたくなるはずだ。だけど、相手に悪意はない。心遣いで言ってくれた言葉なのも分かる。だから誰にも当たることはできない。自分一人で抱えるしかない。……恐らく、彼女はそれを分かっている。どんな言葉を投げかけたところで、僕の根本的な原因を取り除けないことを察している。
行き着く答えは沈黙だ。
冷たくもあり、優しくもある反応。何を思っているかは分からないけど、ネガティブな態度じゃないことは分かる。それが分かっただけで十分かもな。ポジティブな感情のままで、アルカナ・フォン・アーサーの幕を閉じることができる。
「――治せるかもしれない。――今の私なら」
沈黙の果てに選ばれた言葉は、気休めとは思えないものだった。気心の知れない相手ならともかく、他でもないジュリアの発言だ。信用できる。希望が見える。結果が不確かだとしても、試してみる価値はある。
「それなら、君が治り次第、すぐにでも――」
思いがけない提案に、藁をも縋る思いで食いつく。急かしても意味がないと分かっていながら、彼女の両肩を両手で掴んで揺らし、熱がこもった態度で接した。でも、そこにジュリアはいない。首から上は切り離され、青い血が顔にかかる。
『お前を食らう。そう言うたろ?』
僕は防御面が向上した。彼女のおかげで強くなった。魔術師としての弱点を克服し、距離を問わずに戦えるようになった。一つだけ盲点があった。僕の最尤反転常中は僕しか守ることができない。その結果……。駄目だ。事実を認識するな。目の前の現実に目を向けるな。そうすれば、僕は壊れる。もう二度と戻ってこれない。感情と自我を犠牲にして、化け物に変わってしまう。眼前にいる甲虫男を殺すためだけに残りの人生を捧げることになる。
『ほおら、よぉく見ろ。これがイキった三流悪魔の成れの果てだ』
僕はこう見えても、『悪』については詳しい方のはずだ。上位の悪魔ともそれなりに接してきたし、話し合って互いに利益が出る形なら友好関係が築けることも知っている。結局のところ、悪魔が人間に忌避されるのは、悪い面にばかり目を向けられ、良い面を見ずに切り捨てることが原因だと思っていた。だけど、アレはなんだ。目の前にいる者はなんだ。悪魔と比較するのもおこがましいド畜生。人の言葉を喋る腐った肉の塊にしか見えない。目の前の事実や諸々の事情を差し引いても、今までの人生経験を照らし合わせれば、一つだけ断言することができる。
ヤツに良い面など存在しない。
人間の感性にほだされ、思い遣りのある心が育つとは到底思えない。なぜなら、僕がここで殺すからだ。改心させる余地を与えず、葬り去るからだ。僕の腹の底は決まった。残りの人生を捧げる覚悟はできた。後は何を言うかだ。長々と喋れるほどの理性は残されていない。端的かつ、的確に。受け手に伝わる明確な意向と意思を示し、僕の終わりにふさわしい言葉で締めくくらなければならない。
「きしょいな。死ねよ」
僕は落ちる。低俗な感情に身を委ね、罵詈雑言を口走る。本を読んで背伸びして大人びたところで、僕は子供だ。年相応の言葉だし、気の利いた一言にカロリーを使うのが勿体ない。そもそも、コイツとは二度と話すことはないし、感情と理性が蒸発するから話せない。……あーあ。この性悪をボコボコにするのを見届けたかったな。でも、無理なんだろうな。今のが最後だったんだろうな。
『――――』
複眼持ちの甲虫男の顔色が強張ったのが分かる。悪口が気に食わなかったのか、私に主人格が入れ替わったことへの警戒か、なんにしても潮目が変わったのを理解している。まさか、表舞台で活躍できるとは思いもしなかった。客観的な立場で『教皇外交録』を綴るのが私に与えられた役割だと思っていた。ただ、主従関係が変わった。主は神ではなく、人になった。端的かつ、的確な命令を受けた以上、私は仕える主のために新たな職務を全うしなければならない。
「月が綺麗ですね。と言いたいところですが、これでは風情が台無し」
私は両手のコンパスと直角定規を宙に浮かし、左手を横に伸ばす。その動作に従い、くるくると回転し、やってきたのは木彫りの両手杖。それを両手でしっかりと掴み、戦闘する準備は完了。残るは、主の意向と意思に沿った言葉を私なりの言葉に変換し、告白と勘違いされない程度に引導を渡してやるまで。
「大掃除としましょう。あなたの存在は見るに堪えないので」




