第113話 原点回帰
言わずとも分かる。ジュリアの拳を通じて伝わってくる。悪意は常時展開に向かない。通常時は意思を纏い、相手に外向きの感情が乗ったところで悪意に切り替えるのがベストだ。だからこそ彼女は、僕の防御を突き破った。悪意の爆発……『瞬間火力』に重点を置いた本当の意味を実戦形式で教えてくれた。
(優しいな、ジュリアは。敵同士なのに、まだ僕に学びを与えてくれる)
『天使化』状態で感情表現が希薄になりつつあるのを肌で感じながら、人として残っている最後の良心が彼女を褒め称えている。どこまで自我を保てるか分からない。だけど、今だけは……。この瞬間だけは誰にも奪わせてなるものか!!
「――――」
僕は両手に持ったコンパスと定規を球状の結界で覆い、空中に固定。続けざまに背後に手を伸ばし、掴んだのは木彫りの両手杖。これには、センスの放出を強化する術式が刻まれている。前任者にとって、これが望まれた展開なのか、そうじゃないのかは判別がつかない。……ただ、偶然にしては出来過ぎている。対魔特攻を極めようと思ったのは、今に始まったことじゃない。
『封書庫の管理は一任する。意味は分かるな?』
脳裏に浮かぶのは、ハインリッヒ前英国王の言葉。全てはそこから始まった。魔術に精通し、悪魔に興味を持ったのは必然だと言える。この両手杖は、僕に出発点にして、終着点になり得る得物だ。一見、初歩中の初歩に思える術式だけど、なかなかに侮れない。魔術や芸事や学問も含め、何事も最初の一歩は浅い。そこからどれだけ深く潜り込めるかが重要だ。何かを極めるには、目先の成果よりも、興味関心が継続する方が大事だと思っている。人生は短いようで意外と長い。『コレだ』と思ったものに理屈はいらないんだ。……情熱は全てを凌駕する。ここで才能が枯れたっていい。今出せる全力を、余すことなく出し尽くしてやる!!!
「内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、種脱相対」
試みるのは原点回帰の詠唱。王位継承戦に行き着いた一つの答え。今なら、あの時よりも理解が深い。邪悪なるものを一方的に切り捨てるのではなく、自ら悪道に足を踏み入れ、力の一端に触れたことによって解像度は上がった。あの時は完成度が甘かったかもしれない。大した成果は得られなかったかもしれない。未来のアルカナ・フォン・アーサーには遠く及ばなかったかもしれない。
でも、今なら――。
「これら五重相対により、邪法邪義を峻別し、我が正法正義をここに示さん」
詠唱が成立し、身に纏っているセンスの色が青から白へと変わる。別にジュリアを殺したいわけじゃない。悪魔に憎しみを抱いているわけでもない。……ただ、心の底から戦闘を楽しみたいだけだ。彼女なら受け切れると信じている。変わらざるを得ない状況に追い込まれ、新たなステージに移行するのを願っている。
「破邪顕正っ!!!!!」
杖先を振るい、正面に放たれるのは、巨大な白い十字架。意思の力の大半を注ぎ込み、それらを凝縮した紛れもない全力の一撃だ。前回は張りぼてだった。中身が伴っていなかった。正法を語る資格を持ち合わせていなかった。……でも、今の僕ならどうか。彼女が悪魔だからこそ、答え合わせが可能になるはずなんだ。
◇◇◇
私は今、ものすごく腹が立っている。眼前の状況を目の当たりにして、苛立ちがピークに達しようとしている。友人だからどうとか、天使だからどうとかは一切関係なく、人間として越えてはいけない一線を越えようとしている。
「――」
背後にはミイラ女と女騎士と金髪の囚人がいる。あの巨大な白い十字架は直線的な軌道で避けられないことはないけど、避ければ彼女たちが巻き込まれる。廊下の構造上、軌道を逸らすのも難しく、受けざるを得ない状況になっている。これが計算済みにせよ、想像が及んでいなかったにせよ、最悪の選択だ。
『天使化』は言い訳にならない。知らなかったじゃ済まされない。人を殺した後に『そんなつもりはなかった』と言っても、陪審員には響かない。人間界の一般的な法制度と照らし合わせるなら、彼の行為は悪人に該当する。
とはいえ、意思の力は基本的に主観に依存する。自分のことを正しいと思い込むことができれば、客観的に見れば間違っていることでも関係ない。事実を捻じ曲げて、自己を正当化し、思い込みを力に変える。良くも悪くもそれが意思の力だ。悪意だろうが神意だろうが、本質部分は変わることがない。
(――駄目だ。――上手く加減できないかもしれない)
私は意思を鎮め、右拳を握り込む。一見すれば、思考と動作は一致していない。無防備な身体を晒し、このまま十字架が衝突すれば、葬られるのは間違いない。だけど、私の中で対処できるのは確定していた。打ち負ける気がしなかった。あらゆる条件がこの時のために用意されたかのように揃っている。……懸念点はただ一つ。勢い余って、アルカナを殺してしまいかねないこと。
「………………」
十字架が眼前に迫るのを見届けながら、私は目を閉じた。五感の一つをあえて縛り、肉体と神経に意識を張り巡らせた。これは別に誰かに教えられたわけでも、誰かの受け売りでもない。無意識の産物だ。なんの根拠もなく、ただ常軌を逸している。それでも、心が澄み渡るのを感じる。感情を私の支配下に置き、束の間の平穏が訪れる。だけど、長くは続かない。コンマ数秒後には雌雄が決する。本来なら思考を差し挟む余地はないはずだけど、その時間的矛盾をそよ風だと思えるぐらいには落ち着いていた。ここには焦りも不安もない。来るべき時に備える。
気付けば身体は動き出していた。握った裸の右拳を振りかぶり、正面に打ち付ける。完全に脱力した状態で大した攻撃力はない。拳で十字架を受け切る防御力すらも纏われていない。その致命的なリスクを背負うことで扱える技法がある。その技法には五段階の区分が存在し、打撃とセンスの誤差が少ないほど上位の区分が選ばれ、それに応じて威力が増す。私の最高記録は『厘』だ。それも何百回やって一回ぐらいの極めて低確率なもので、全く安定しなかった。全盛期の姉にも聖女マルタにも遠く及ばない。自分には合っていないと見切りをつけ、別の方向性を模索した。でも、結局はここに戻ってくる。示し合わせたかのように、意思の原点へと戻ってくる。もう逃げられない。賽は投げられた。後は……。
「――――」
私は目を見開く、黒い墨のようなエフェクトが生じ、視界に収まる範囲内の空間を自由自在かつ瞬間的に移動する。飛んだ先は言うまでもなく、アルカナの懐だった。致命的な隙を晒し、「……えっ」という言葉を零し、きょとんとした表情を作っている。ここまでくれば攻防の意味をなさない。彼に付け入る隙は与えない。誰かを守るためなら、卑怯と罵られようと一向に構わない。だから……っ!!
「――――黒耀!!!!!!!」
迸るのは黒の稲妻。悪意の爆発力を加味した上位の刹光。
私は期せずして、『厘』の二段階上、未踏の領域へと至っていた。




