第1話 富山の静寂に潜む影
冬の富山。立山連峰から吹きおろす冷たい風が、古い城下町を包み込んでいた。
その日、玲子と遼真は師匠である舵村大輔本部長と共に、現地入りしていた。理由は――名家・氷見家の蔵で起きた「古文書盗難未遂事件」の初動捜査である。
しかし、その静かな現場に、不意にあの人影があった。
「……あれは――朴凛奈?」
玲子が思わず声を漏らす。遼真も目を丸くした。
黒いコートを羽織り、長い髪をひるがえして立っていたのは、名高き“キムチ探偵”朴凛奈。
彼女は、かつて都内の事件でもその名を轟かせた人物だ。
「おや、玲子さんに遼真くん。富山で会うなんて、奇遇ですね」
微笑を浮かべる凛奈は、両手に紙袋を抱えていた。その中には、小さな漬物壺が覗いている。
「また……キムチですか?」と玲子が呆れ混じりに尋ねる。
「ええ。私はね、この香りと食感に導かれるんです。香りは記憶を、食感は身体を、真実へと引き寄せる」
凛奈は小さく壺の蓋を開けた。ふわりと、辛さと酸味が入り混じった芳香が漂う。
玲子は思わず顔をしかめ、遼真も鼻を押さえた。
「辛すぎますよ……!」
「舌が痺れるっていうか……これ、食べ物なんですか?」
凛奈は笑った。
「辛さは、人の心を揺さぶる導火線。痛みを伴うからこそ、忘れていた“何か”を呼び覚ますのです」
そう言って、玲子と遼真に小皿を差し出した。
二人は恐る恐る箸を伸ばし、それぞれ一口。――瞬間、舌の上で爆ぜる辛味と酸味が、電撃のように全身を駆け抜けた。
「――っ!」
「な、なんだ……頭の奥に、映像が……」
玲子の脳裏には、古びた蔵の扉の前に立つ影が浮かんだ。
遼真の胸には、どこかで聞いたことのある“足音のリズム”が蘇った。
「……これが、“キムチの記憶”」凛奈は囁いた。
「香りは過去を開き、食感はその真実を身体に刻み込む。二つが合わさったとき――映像のように蘇るのです」
玲子はまだ頭を押さえながら、かすれ声で問う。
「これが……事件の手がかりに?」
「そう。あなたたちの見た“断片”が繋がれば、蔵の謎は明らかになるはず」
その時、大輔が合流した。
「やれやれ、また凛奈に先を越されたな」
「舵村さん」凛奈は懐かしそうに微笑んだ。
「富山ではいつもお世話になってます。……そういえば、眞衣さんに宜しく伝えてくださいね」
それだけ言うと、凛奈は軽やかに背を向けた。
残されたのは、鼻に残るキムチの香りと、舌に痺れるような辛味。そして、玲子と遼真の胸に刻まれた“謎めいた断片の記憶”だった。
「玲子、遼真。これからが本番だ」大輔が真剣な目を向ける。
「凛奈の残した鍵……俺たちで解き明かすぞ」
富山の静寂の中、三人の推理劇が始まろうとしていた。
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