第10話 飛騨の朝
夜を越え、飛騨の山々には澄んだ朝の光が差し込んでいた。
天城家の屋敷には、事件を終えた緊張感がようやく解けはじめ、静けさが戻りつつあった。
その朝――門前に現れたのは、柳瀬由梨だった。
透の妹。制服姿のままの彼女は、小さな鞄を抱え、目を真っ赤にしていた。
後ろには両親も連れ添っていた。父は警察庁生活安全局長という重責を負う男であり、母はどこか疲れた面持ちで玲子を見つめている。
玄関先に出迎えたのは美佐子だった。
「……いらっしゃい」
母の柔らかな声に、由梨は耐えきれず膝を折った。
「……ごめんなさいっ! お兄ちゃんが、玲子さんに、あんな……!」
震える声に、美佐子はすぐさま駆け寄り、その肩を抱いた。
「あなたが悪いんじゃないわ。辛かったでしょう? でも、謝りに来てくれてありがとう」
由梨は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも玲子の前に進み出た。
「玲子さん……お兄ちゃんのせいで、本当にごめんなさい」
玲子は一瞬だけ目を伏せ、そして静かに首を振った。
「あなたは謝らなくていいの。由梨さん……あなたは、家族を思ってここに来てくれた。それだけで十分です」
その言葉に、由梨は声を上げて泣いた。
背後で母親も玲子に頭を下げる。
「娘のためにも、そして私自身のためにも……謝罪をさせてください。本当に、申し訳ありません」
玲子は苦しげに微笑み、ただ「ありがとうございます」とだけ返した。
一方、父親である局長は、輝政に呼ばれ、別室で二人きりになっていた。
机を挟んで座った二人。
局長は顔を歪めて、苦々しく言った。
「……息子の件では迷惑をかけた。だが、あれは個人的な愚かさだ。庁全体を巻き込むものではない」
輝政は鋭い目で相手を見据える。
「親としての責任を問うている。地位や立場ではなく、家庭を顧みなかった代償だろう」
局長は言葉を失い、ただ拳を握り締めた。
「……認めよう。私は、父親失格だ」
◆
数日後――裁判所。
透は証拠と証言により有罪を宣告された。
「懲役十年」
判決が下った瞬間、透は小さく笑みを浮かべた。
「……これで、やっと終わりか」
その姿は、もはや憔悴しきっていた。
◆
そして飛騨の屋敷に戻った日。
応接室には由梨と両親、天城家の面々、そして佐伯優人と玲子が揃っていた。
重たい空気を破ったのは、優人だった。
彼は懐から封筒を取り出す。
「玲子」
玲子が不思議そうに首をかしげると、優人は少し照れたように、けれど真っ直ぐに続けた。
「――婚姻届だ。今日、これを市役所に提出しに行こう」
その瞬間、部屋の空気が一変した。
由梨も両親も驚いて目を見開き、玲子自身も言葉を失った。
「……優人さん、ここで……?」
優人は微笑みながら、ポケットに手を伸ばす。
そこから取り出されたのは、小さなケース。
ぱちりと開くと、指輪が朝日を受けてきらめいた。
「玲子、俺と結婚してください。もう遠距離に苦しむことも、誰かに邪魔されることもない。これからは、正式に夫婦として共に生きていこう」
玲子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「……はい。お願いします」
由梨はその様子を見て、胸を押さえながらも笑顔を浮かべた。
「玲子さん……幸せになってください。お兄ちゃんの分まで」
母親も深く頷き、父親である局長でさえも小さく息を吐き、視線を逸らした。
――こうして、飛騨の朝に誓われた新たな約束。
天城家は再び絆を確かめ合い、そして玲子と優人は、新たな一歩を踏み出したのだった。
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