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第1話 旅の始まり



 晩秋の京都は、底冷えの風と紅葉の匂いに包まれていた。

 新幹線のホームに降り立った天城遼真は、胸ポケットに差し込んだ一枚の依頼書を指先でなぞりながら、吐く息の白さを見上げる。


 ――「京都の山間にある温泉宿《稲荷の湯》に伝わる“狐火伝説”を取材せよ」


 出版社から渡された依頼はそれだけの、簡潔すぎる指示だった。民俗誌向けの記事用とはいえ、遼真にしてみれば、この手の“伝承取材”の裏に、往々にして人の複雑な因縁や土地の影が潜んでいることを知っていた。


 タクシーに揺られて市街地を抜けると、窓外の景色は徐々に紅葉した山肌と細い山道へと変わっていく。道端には地元の社に供えられた狐の石像。ちょうど夕暮れ時で、朱に染まった空がその影を長く伸ばしていた。


 「お客さん、《稲荷の湯》に行かはるんですか?」

 運転手が、バックミラー越しに声をかけてきた。

 「ええ、取材で。ご存知ですか?」

 「そらもう、地元じゃ有名ですわ。古い宿ですし、山の稜線に夜な夜な“狐火”が現れるって言い伝えがあって……。あれ見た人は、道に迷うて帰って来られへん、なんて噂ですわ」


 運転手の声は半ば冗談のようでいて、どこか真剣さも混じっていた。

 遼真は窓の外を見やりながら、心の中で呟く。

 ――狐火。人を惑わす炎。科学的に説明できる自然現象か、それとも……。


 やがて、山あいの小さな温泉街に入る。暖簾を下げた木造の宿が軒を連ね、硫黄の香りが夜気に混ざって鼻をくすぐった。

 その奥に、ひときわ古びて立派な佇まいの宿が見えてきた。看板には大きく『稲荷の湯』と墨書されている。


 玄関をくぐると、木の床が軋む音と、火鉢の温もりが出迎えてくれた。

 「ようこそお越しくださいました」

 出迎えたのは二十代半ばほどの若女将。艶やかな黒髪を後ろに束ね、笑顔はどこかぎこちない。

 続いて現れたのは、彼女よりも年嵩の男――義兄だという。眼鏡の奥に光る眼差しは、遼真を一瞥しただけで不機嫌そうに逸らされた。


 帳場に名を記し、客間へ案内される道すがら、遼真は他の宿泊客たちの姿を目にする。

 ・杖をついた資産家風の老人と、その秘書らしき男

 ・旅慣れた風情の中年夫婦

 ・カメラを首に下げた学生風の若者たち

 ……それぞれが、この山奥の宿に何らかの思惑を抱えて集まっているように思えた。


 部屋に荷を置いた後、夕餉を済ませて外に出ると、冷え込みはさらに厳しくなっていた。

 山道の方角に視線を向けると――。

 そこに、青白い光がふっと浮かんだように見えた。炎のように揺らめき、ゆっくりと宙を漂っている。


 「……狐火?」

 遼真が目を凝らす間にも、それは闇の中で揺れ、やがて消えた。

 背筋を伝う寒気を覚えつつ、彼は気づいていた。これがただの幻想で終わるものではないと。


 ――翌朝、《稲荷の湯》を震撼させる惨劇が、幕を開けるのだった。



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