第3話 沖島忍軍参上
第3話 沖島忍軍
――永禄十一年、西暦一五六八年。
織田軍が沖島との対峙を終え、京へ向かって数日が経った。
木下藤吉郎秀吉は、まだ沖島のことが頭から離れなかった。
あの城。
あの鉄甲船。
そして六角四郎義治。
「われらは琵琶湖で満足しておる」
本当に、そうなのだろうか。
「藤吉郎」
信長に呼ばれた。
「はっ」
「沖島には忍びがおるそうじゃな」
「そのようで」
「どれほどじゃ」
「三百ほど、と」
「三百」
信長は笑った。
「多いな」
滝川一益が口を挟んだ。
「ただの忍びではございませぬ」
「ほう」
「六角四郎が幼い頃より育てた者たちと聞いております」
「強いのか」
「分かりませぬ」
一益は正直に答えた。
「姿を見た者が、ほとんどおりませぬゆえ」
信長が面白そうに笑った。
「ならば見てみたいものじゃな」
竹中半兵衛が嫌そうな顔をした。
「殿」
「なんじゃ」
「もう沖島には関わらぬ方がよろしいかと」
「臆病になったか、半兵衛」
「はい」
あっさり答えた。
「私は命が惜しゅうございます」
藤吉郎が吹き出した。
信長も笑った。
その日の話は、それで終わった。
――はずだった。
翌朝。
織田軍の先行隊が、近江の山道を進んでいた。
京へ向かう街道から少し外れたところで、騒ぎが起きた。
「止まれ!」
前方から兵が走ってくる。
「野盗にございます!」
「数は?」
「百……いや、二百ほど!」
この辺りには、戦乱に乗じて村を襲う野盗がまだ残っていた。
織田軍そのものを襲うほど馬鹿ではない。
だが軍勢の移動で混乱した村を襲い、食料や女を奪う。
藤吉郎が顔をしかめた。
「面倒だがや」
織田兵を二百ほど向かわせることになった。
藤吉郎も様子を見るため同行した。
村へ近づくと、煙が上がっていた。
悲鳴が聞こえる。
「急げ!」
兵たちが走った。
ところが。
村へ入る直前。
悲鳴が止んだ。
「……?」
藤吉郎が足を止めた。
静かだった。
妙に静かだった。
村へ入る。
そこで全員が止まった。
「なんじゃ……これ」
野盗が倒れていた。
一人。
二人ではない。
道にも。
畑にも。
家の前にも。
何十人も倒れている。
死んでいる者もいる。
腕を押さえて呻いている者もいる。
足を斬られて動けなくなっている者もいる。
だが村人は――
誰一人死んでいなかった。
「誰がやった?」
藤吉郎が村人に尋ねた。
老人が震えながら答えた。
「分かりませぬ」
「分からん?」
「四人……」
「何?」
「四人の侍様が突然現れまして……」
「四人?」
藤吉郎が倒れている野盗を見る。
百人以上いる。
「四人で、これを?」
老人が何度もうなずいた。
「黒い服を着ておりました」
藤吉郎の顔から笑みが消えた。
「……沖島か」
そのとき。
屋根の上から声がした。
「違います」
全員が上を見る。
男が一人立っていた。
いつからいたのか。
誰も気づかなかった。
黒装束。
だが、顔は隠していない。
まだ若い。
二十歳になるかどうか。
藤吉郎が尋ねた。
「六角の忍びか」
「沖島忍軍にございます」
「同じだがや」
「我らは忍びではありますが、六角家の正式な家臣にございますので」
妙なところにこだわる。
藤吉郎は苦笑した。
「こいつら、お前らがやったのか」
「はい」
「何人で」
「四人です」
「……本当に四人か」
「はい」
藤吉郎が周囲を見る。
「他の三人は?」
「もう帰りました」
「お前は?」
「報告がございますので」
「誰に」
「藤吉郎様に」
「わし?」
男が懐から紙を取り出した。
嫌な予感がした。
「まさか……」
男が紙を藤吉郎へ投げた。
藤吉郎が拾う。
本日の戦況
野盗
死亡 四十三名
重傷 六十一名
捕縛 七十八名
村人
死亡 なし
重傷 なし
沖島忍軍
死亡 なし
重傷 なし
軽傷 なし
藤吉郎は紙から顔を上げた。
「またこれか!」
男は真顔だった。
「戦況報告でございます」
「誰に報告しとるんだ!」
「四郎様に提出するものの写しをお持ちしました」
「なんでわしにも寄越す!」
「近くにおられましたので」
「いらんわ!」
男は少し考えた。
「では次回から不要と記録しておきます」
「そうしてくれ!」
織田兵たちが笑いをこらえている。
藤吉郎はため息をついた。
だが。
一つ気になることがあった。
「待て」
男が振り返る。
「お前ら、なんでここにいた」
「巡回です」
「巡回?」
「四郎様より、近江の村を野盗から守るよう命じられております」
「織田が近江へ入ってきたのにか」
「それと村人は関係ございません」
藤吉郎は黙った。
「四郎様の命令は三つです」
男は指を一本立てた。
「村人を守る」
二本目。
「野盗を排除する」
三本目。
「我らは死なない」
藤吉郎が眉を上げた。
「死ぬな?」
「はい」
「普通は殿のためなら命を捨てろ、と言うもんだがや」
男は不思議そうな顔をした。
「なぜ捨てるのです?」
「……」
「我ら一人を育てるのに、十年以上かかっております」
「……」
「四郎様はいつも仰います」
男は淡々と言った。
『十年かけて育てた兵を、一日で死なせる馬鹿がどこにいる』
藤吉郎は答えられなかった。
その日の夕刻。
この話は信長の耳にも入った。
「四人?」
「はっ」
「百八十ほどを?」
「はっ」
「味方の怪我は?」
藤吉郎は紙を見た。
「なし」
信長が黙る。
柴田勝家が鼻で笑った。
「野盗であろう。戦の経験もない烏合の衆じゃ」
「ならば試してみますか」
声を出したのは滝川一益だった。
勝家が一益を見る。
「何をじゃ」
「沖島忍軍が、本当にそれほどのものか」
「どうする」
「こちらも腕の立つ者を出す」
信長が興味を示した。
「面白い」
半兵衛が頭を抱えた。
「また始まった……」
翌日。
藤吉郎を通じて、沖島へ申し入れが送られた。
模擬戦。
殺し合いではない。
木刀。
織田側から十二人。
沖島側から――
「何人出す?」
信長が尋ねた。
藤吉郎が答える。
「四人だそうです」
「十二対四か」
「はい」
勝家が笑った。
「舐められたものよ」
半兵衛だけは笑わなかった。
場所は湖岸の広場。
織田側の十二人はいずれも腕自慢だった。
沖島側は四人。
特別大きくもない。
筋骨隆々でもない。
普通の若者に見える。
藤吉郎が尋ねた。
「始めてよいか」
沖島側の一人が手を上げた。
「一つ確認が」
「なんじゃ」
「勝利条件は?」
「相手全員を戦闘不能にすることじゃ」
「承知しました」
「では――」
藤吉郎が手を下ろした。
「始め!」
織田兵が動いた。
沖島の四人は――
動かなかった。
「行け!」
十二人が一斉に襲いかかる。
次の瞬間。
一人が倒れた。
「え?」
二人目。
三人目。
何が起きたのか分からない。
一人が攻撃を受ける。
その瞬間、別の一人が横から入る。
三人目が足を払う。
四人目が背後を取る。
必ず二人以上で一人を攻撃する。
一対一をしない。
格好よく戦わない。
敵に囲まれない。
危なくなれば逃げる。
そして孤立した一人だけを倒す。
「卑怯な!」
勝家が叫んだ。
半兵衛が答えた。
「何がです?」
「一人を三人で囲んでおる!」
「三人いるのですから、三人で戦うでしょう」
「……」
「なぜ一人ずつ戦わねばならぬのです?」
勝家が黙った。
半兵衛は沖島の四人を見つめた。
「強いのではない」
「何?」
「いや……強いのでしょうが、それ以上に――」
また一人倒れた。
「戦い方が徹底しております」
やがて。
最後の一人が地面に転がった。
十二人全員。
戦闘不能。
沖島側。
四人。
全員立っている。
藤吉郎が聞いた。
「怪我は?」
四人がお互いを見る。
「ありません」
藤吉郎が額を押さえた。
「……またか」
沖島の一人が懐に手を入れた。
「おい」
紙を取り出す。
「やめろ」
「本日の――」
「いらん!」
藤吉郎が叫んだ。
「戦況報告はいらん!」
周囲から笑いが起こった。
信長まで笑っていた。
ただ一人。
竹中半兵衛だけは、笑っていなかった。
「殿」
「なんじゃ」
「先日の話ですが」
「何じゃ」
「あの城を三十万で攻めるという話です」
「ああ」
半兵衛は沖島の四人を見る。
そして湖の向こうに浮かぶ沖島城を見る。
「訂正いたします」
「ほう?」
「三十万でも無理、と申し上げましたが――」
半兵衛は小さく息を吐いた。
「三十万連れて行っても、三十万人が帰ってくる保証すらございません」
信長の笑みが消えた。
琵琶湖の向こう。
沖島城。
鉄甲船。
そして三百人の沖島忍軍。
信長は初めて理解した。
城だけではない。
船だけでもない。
あの島にいる人間そのものが、異常なのだ。




