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ヒミコの国造り・8 


「いよいよ明日ですね。おめでとうございます」


「ああ。ありがとう。野口さんはいつごろになりそうなの?」


「結紮がまだなのでもう少し先になりそうですね」


 夕飯時の食堂で野口と田川は向かい合って座っていた。夕食は昼食よりも小鉢がふたつ多い。ふたりとも冷ややっこや野菜のお浸しが身に染みる年齢だった。


 息子の結紮はとうに終わったようだが、野口自身の再結紮がまだであった。


 50を目前にした自分が今さら何のために再結紮しなければならないのかとつくづく憂鬱だった。女色に溺れるつもりもないし、浮気心も全くない。だが目の前の老年の田川が素直に結紮した以上文句を言うわけにもいかず、素直に受けるしかない。もとより結紮するまでここから出してはもらえないだろう。


「納得してないでしょう、結紮」


 ふふふと笑う田川に野口も薄く笑った。


「ええ、まあ」


「でも結紮しとかないと、あんなんなっちゃうかもしれないよ」


 田川の視線の先には、脱走して捕まって病棟に連れて行かれたあの男が戻って来ていた。


 おっとりと笑顔のまま食事を咀嚼している。周りには誰も座っていなかった。


「あの人は……、処罰ですから……」


 眉をひそめて野口は言う。ひそめた眉は『犯した罪』に対してか、『受けた処罰』に対してか。


「なんでここには性犯罪で捕まった人と結紮を逃れただけの人が一緒に入れられてるんだろうね」


 田川はいつも穏やかだった。そもそもそういう人柄なのだろうと思ってはいたが、日に日に落ち着いてるような気がする。


「治療がしやすいからではないですか?病棟と隣接してますし」


「私は思うんだけどね、たぶん傍から見ればどっちも犯罪者なんだよ。女性を傷つける犯罪者」


 野口は絶句した。




 田川が退所してすぐに野口は結紮することになった。


 手術に備え健康診断を受けるが、同時にカウンセリングも行われる。どうせ「結紮に抵抗はないか」とか「息子を逃がそうとしたことを反省しているか」などといった話だろうと、全然反省などしていないがあらかじめ模範的な文言を用意して行ったがあては外れた。


「セックスの途中で射精は止められますか?」


 野口より年上の、いかにも紳士といった白髪混じりの頭をした医師にさらりと言われ、野口は思わず聞き返した。


「は?」


「射精無しのセックスは可能ですか?」


 ふたたび「お酒は飲みますか?」ぐらいのテンションで訊かれ、野口は口を開けたまま答えられないでいた。たぶんこれは問診なのだと頭の隅で理解していても、とっさに言葉が出てこない。


「射精を自分の意思でコントロールできます?」


 あわあわと2度ほど口を開け閉めしてから野口はようやく答えた。


「セックスって……、射精するからセックスなんじゃないですか?」


「なるほど」


 医師はそれだけ答えると電子カルテに何か打ち込みながら野口に言った。


「野口さんはコンドームもきちんと使用されていますし、結紮だけで問題ないでしょう。……結紮でいいですか?パイプカットの選択肢もありますが」


 再び野口に視線を戻して医師が確認する。


 質問が変わって落ち着いた野口は、長くなるかもしれないことを覚悟で話を戻した。


「あの、さっきの話ですけど、射精しないセックスなんてあり得るんですか?」


 医師は笑って言った。


「女性は射精しませんよ」


 野口はイラっとした。


「そりゃ、女性は射精しないに決まっているじゃありませんか」


「じゃあ、なぜあなたにはセックスして射精する権利があるんです?」


「男は気持ち良くなったら射精するようにできてるからです」


「女性は?女性は気持ち良くなったらどうなるんです?」


「それは……」


 野口は言いにくそうに、それでももごもごと答えた。


「イったりとか、潮を吹いたりとか……」


「本当に?本当にイってます?毎回、セックスするたびに潮を吹いてます?イってるって見てわかります?」


 医師は伺うように野口を見る。


「イくって言うし……。潮はわかりませんけど……」


「つまり射精ほど毎回、女性の快感の度合いを確認できてはいないわけですね」


「いや、あの」


 しどろもどろになる野口に医師はあっさりと言った。


「なのに何故毎回男性は厚かましくも射精できるんです?」


「いや、だから射精しないと終わらないから……」


「射精がセックス終了の合図なんですか?」


「そうです!それです!」


 的を得たとばかりに野口が肯定すると、医師はまた不思議そうに言った。


「女性が終わってなくても?」


「は?」


「女性がオルガズムを迎えなくても、男性が射精すればそこでセックスは終了なんですか?」


「いや、だいたい射精したときには女性も一緒にイってるから……」


「そもそも女性は快感を感じていないかもしれない。男性が射精するずっと以前にオルガズムに達してしまってるかもしれないし、まだ全然オルガズムを感じてないのに男性が射精して終了になるかもしれない」


「いや、よがってますよ。女性もあちこち触られて気持ちいいって言ってます。女性がよがるから男性も感じて射精したくなるんでしょう」


「なるほど。では百歩譲って男性も女性も同時にオルガズムに達したとして、どこに射精するんです?」


「女性が妊娠可能であるとき、あるいはコンドームを使用しているときであれば女性の中で……」


「中ですか」


 医師がため息をついたように野口には見えた。


「間に合えば外で……」


「『間に合えば』。外とは」


「女性のお腹の上とか……」


「『女性のお腹の上』」


 復唱されるたびに間違っているような気がして、野口の声は尻すぼみになっていく。


「つまり、『射精』は絶対だと」


「はい……」


 射精は生理現象である。絶対に間違っていないはずなのだが、とにかくなんだか怒られているような気がして野口は自分が椅子の上ですごく小さくなった気がしていた。


「では『結紮』と『パイプカット』、どちらになさいますか?」


 今までの問答が無かったかのように、あっさりと医師は野口に訊く。


 野口は思わず顔を上げ、呆気にとられた顔で医師を見た。


 医師は眉を上げ、返事を促す。


「パイプカットで……」


 野口はぼんやりと答えてしまった。

 




「『避妊』も『中絶』も『出産』も女性のお腹の中で起きるから、全部女性の問題だと思ってたのかもしれないね」


 田川の言葉を思い出す。


「『射精』して『妊娠』のきっかけを作るのは男なのにね」



 野口は生物学で聞いた講師の言葉を思い出す。


「男性は快感を感じなければ『勃起』しないし『射精』もしません。対して女性は快感を感じようが感じまいが常に子宮はそこにあり、卵子もそこで待っています。もちろん必ずしも受精するわけではありませんが、精子さえ入って来なければ100%妊娠することはありません」



 田川は眉を下げる。困った顔は若めの好々爺だ。


「私ね、みせしめなのかな~って思ってるんだよ。こんなジジイも若い男も、みーんな結紮しなきゃ駄目だよ。性犯罪しようもんなら、容赦なくああなるよ。肝に銘じときなさいよって言われてるのかなと」


「……みせしめなんて、やっていいことでしょうか……」


 田川の考えすぎだと思いつつ、野口は声を絞り出す。


「きっと我慢の限界だったんだよ。女性はね」



 1か月後、パイプカットの手術が終わった野口は帰宅した。


 息子が巣立った、いつでも野口を待っている妻が待つ家へ。



                                終わり

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