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ヒミコの国造り・3 


 午前の作業時間から、昨日話しかけて来た柳原の姿が見えなかった。


 退所したのか作業場が変わったのか。あのまま退所したのだとしたらまたすぐに戻って来るに違いないと野口は思ったが、もしそうならまた女性に暴力を振るうというわけで。やりきれない思いに野口は苛まれた。


 にわかに作業場の奥がざわめき始めた。首を伸ばして伺うと、年配の男性が地べたに座り込んでいる。


「じいさん、また倒れちゃったかな」


 近くの男たちの話に野口は耳をそばだてた。


「良い歳こいて薬飲みすぎるから」


「もともと持病があったから薬飲んでたんだろ?」


「いや~、だったら早いとこ結紮しとくだろ。しても無いのにお盛んだったって聞いたぜ。だからここにいるんだろ」


「なんにしろ、出てから今さら結紮しろってのも酷な話だよな」


 つまりあの男性は結紮していないということか。野口は少し驚きながら、看守に支えられ立ち上がっている男を見た。




「大丈夫ですか?」


 休憩時間。バレーボールで盛り上がる受刑者たちを、庭の隅に座り込んで見ている男に野口は話しかけた。


 自分も収容されている身でありながら、野口はあまり入所者たちと関わるのをよしとしなかった。自分はあくまでも息子を助けたい一心で法を犯しただけで、セックスを楽しみたいとか手術を受けたくないとか自己中心的な都合で精管結紮術を拒み、ここに収容されている者たちと立場は違うと思っていたのだ。


 だが小耳に挟んだ話だけでも、先ほど倒れたこの男、たぶん70ぐらいの老人は、病気か何かの理由があっての結紮逃れで、他の受刑者と違う何かを感じたのだった。


「ああ。大丈夫。年取ってるからね。しょうがないよ」


 やや猫背の痩せた身体からは想像していなかったはっきりとした明るい口調で、老人は笑った。


「あなた最近来た人だね。名前聞いていい?」


 人懐っこそうな笑顔に野口は抵抗なく答えた。


「野口です。お聞きしても?」


「田川だよ。よろしくね」


 老人が右手を差し出したので、野口は照れながらそれを握った。


「野口さんも結紮してないの?」


 ここに収監されている受刑者は精管結紮関連の人ばかりなので、この質問は「こんにちは」とか「おはよう」などと変わりない。


「いえ。息子を外国へやろうとしたら、ちょっと……」


「ああ」


 言葉を濁す野口にすべて察したかのように田川は言った。


「良いお父さんだね」


 息子に結紮逃れをさせようとして『良いお父さん』などと言われるのは、この施設の中だけであろう。野口は少し笑った。


「田川さんは……?」


 訊きたいと思いつつ訊いても良いものか抵抗があったのだが、先に野口の事情を訊いてくれたので都合がよかった。


「うん。私はね、結紮してないんだよ。生まれてこの方、一度も結紮をしたことがない」


 穏やかに、ゆっくりと言葉を区切りながら田川は言った。


「それは……、ご病気か何かで……?」


 立ち入ってもいいものか迷ったが、言いたくなければこの人なら黙るだろうと、野口は訊いた。


「そうだね。それもあるけど……」


 田川は寄せた眉間を上げて野口を見た。


「なーんで結紮なんてしなきゃいけないんだろうね、こんな歳になってまで。ね」




 精管結紮術が義務化されたとき、田川は50歳だった。


 子供もふたりいて、精子を冷凍保存するつもりも妻共々なかった。


 もともと心臓の持病はあったが気をつける程度の症状で、それほど大袈裟に構えることはなかった。


 だがその頃の結紮義務化の条件として『完全な健康体であること』と掲げられていたので、そこから何年間か結紮せずに済んだという。


 妻との関係も良好だったし、心臓の持病もあったし、漁色家でもなかったのでなんの問題もなかったはずだった。


 ある日友人に心臓に良いというサプリを渡された。薬ではなくサプリ。


 薬だったら間違いなく断っていただろうが、サプリと聞いてたいして効きもしないお菓子のようなものだろうと安易に食してしまった。


 するとその夜、何年振りかというほどの男性としての本能がよみがえってしまった。


 50を過ぎて突然荒ぶり始めた夫に、もう何十年もご無沙汰だった妻は怯えて、お金を握らせ外へ放り出したという。


「……クセになっちゃたんですか?」


 あんぐりと口を開けて聞いていた野口は、ため息をつく田川に訊いた。


 田川はふうとため息をついて言った。


「いや、それがね……」


 若い頃に一度だけ会社の先輩に連れられて来た風俗の店などとうの昔になくなっていたが、そんなお店がありそうなあたりになんとかたどり着き、店の女性相手にさんざん暴れ倒したものの、最終的にサプリの効能が切れた頃に自分も倒れ、救急車を呼ぶ騒動になったのだという。


「……奥さん、さぞかし怒ってらしたでしょう」


「全然。送り出したの妻だしね……」


「……そうでしたね……」


 呼ばれて病院に駆けつけて来た妻と診察にあたった医師にサプリの話をすると。


「性欲増強剤だったんだ……」


 目を伏せる田川に、野口はああと納得した。


 以降得体のしれないものは口に入れないことにはしたが、そのサプリで変なスイッチでも入ったのか、ちょっとでも血流の良くなる何かを身体に入れるとやたら興奮するようになってしまった。


 その辺を歩いている女性を襲うような不埒な真似は到底するつもりはないし、そもそも血流の良くなるものを身体に入れなければ落ち着いていられるし、歳も歳なのでそうそう妊娠させることもそんな機会もないだろうと結紮せずにいたのだが。


「最近、心臓の方がね、少し調子悪くなっちゃってね」


 処方された薬は性欲増強剤とは縁もゆかりもない薬だったのだが。


「なんか暴走しちゃってね」


 はははと田川は頭を掻く。


 とうとう辛抱堪らず風俗嬢をホテルに呼び、ハッスルしすぎてまた救急車を呼ぶ事態になり結紮してないことが露呈してしまい。


「最近法律が変わったこと知らなかったんだよ。今は持病があっても全員平等に男なら結紮しなきゃならないってね」


 情けなく田川は眉を下げる。


「だからって、あんまりじゃないですか……」


 持病もあって、悪気なく結紮をしてなかっただけなのに、こんなところに入れられて……。


「なーんか、生きづらいねえ、男って……」


 田川のつぶやきを、野口はやりきれない思いで聞いていた。 



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