1.『私の首を刎ねました』
はじまりました!
皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
最初に創造神がいた。
彼は空を作り、大地を作り、海を作り、大気を作り、光と闇と時間を作った。
そして沢山の生物たちをも生み出した。
創造神はその箱庭を眺めているのが好きだった。とても慈しみ、愛していた。
しばらくすると、その中で人間が生まれた。
賢く、奇しくも自分たちの姿に似ていた彼らを、創造神はたいそう気に入った。
創造神は人間のために、三柱の女神をこの世界に産み落とした。
それが、『知識の女神』『美しさの女神』『力の女神』である。
そして創造神は、彼女らに『人間を正しく導くように』と命令を下したのである。
三柱は人間の世界に散り、創造神の命令どおりに人々を教え導いた。
その教えに導かれた人間たちは、見事な発展を遂げ、とうとう国を興すまでに至った。
それが今の『エルヴィシア』『イリシュタリア』『ヴィルトゥーア』である。
三柱は建国をたいそう喜び、それぞれの国の姫に自らの加護を与えた。
これが最初の神使である。
そして自らたちはもう役目を終えたとして、地中奥深くに籠もり、それぞれの国の発展を見守ることにした。
こうして、女神に愛された三国、知識の『エルヴィシア』、美しさの『イリシュタリア』、力の『ヴィルトゥーア』が誕生した。
彼らは自らのことを『原初三国』呼称し、同盟を結び、人間の世界を発展させてきたのである。
――トリニアム教教典 第一章より抜粋
◇
シェリル・ハリソンにとって、本は世界で、世界は本だった。
「お嬢様! シェリル、お嬢様! おられますか?」
薄暗くて静謐な図書室に、その声はよく響く。
「お嬢様――! シェリル、お嬢様!」
「……」
「お嬢さ――って、もう! こんなところにいた! 危ないから階段で本は読まないでくださいとあれほどいっていますのに!」
「……」
「聞いていますか、お嬢様? お嬢様! お・じょ・う・さ・ま!」
「……」
「……」
「…………――あぁっ!」
いきなり、没入していた本(世界)を手から引き抜かれ、シェリルは情けない声を上げた。
彼女の両手は本を追いかけるように上に伸ばされ、同時にかけていた大きなめがねが顔の中心からズレる。
長いまつげの奥にあるアイスブルーの瞳は、困惑に揺れたあと、本を引き抜いた人物を捕らえた。
「……って、サシャ」
「『って、サシャ』じゃありませんよ。何度もお呼びしましたのに」
そこにいたのは、シェリルのよく知っている人物だった。
彼女の名前は、サシャ・アルサン。年齢はシェリルより二歳ほど上の十八歳。
短く切りそろえられた鳶色の髪と、常に冷めたような表情が特徴のシェリル専属の使用人だ。
もう十年以上の付き合いになる二人は、立場の上では主人と使用人だが、実際は親友と呼べるほどに仲が良かった。
「すみません。つい夢中になってしまって」
「つい、じゃないです。まったくシェリル様は、本を読み出すと人の話が耳に入らなくなってしまうんですから」
「あはは……どうにも一度に二つのことができる人間ではなく。……そういえば、私になにか用事でしょうか? 本日分の本は、もう読み終えていますけれど」
「それは、存じています。お声がけさせていただいたのは、国王様がお呼びだからで……」
「叔父様が?」
思わぬ人物の名前に、シェリルは目を瞬かせた。
シェリルの叔父であるロジェ・ロレンツは、この国――エルヴィシア王国の国王だ。
元々は彼女の父親であり現国王の兄である、ルドルフ・ロレンツが国王の座についていたのだが、十五年前にルドルフと彼の妻が事故で他界してからは、弟であるロジェが王位に就いている。
早逝したルドルフにはシェリル以外に子どもはおらず、現在留学中のロジェの息子が国王の座を引き継ぐ予定になっていた。
「叔父様に呼ばれるのなんて、半年ぶりだわ。でも、何のご用かしら」
「どうやら、オルテガルドに関するお話のようですよ」
「オルテガルドに?」
オルテガルドというのは、先月までエルヴィシア王国と戦争をしていた隣国である。
戦争といっても、ここ十数年で一気に国土を倍にした軍事大国であるオルテガルド帝国に、数百年前から小さな国土を細々と守り続けてきたエルヴィシア王国が敵うわけもなく。小競り合いの延長のような小さな戦争の末、先月ついにエルヴィシアは敗北を喫してしまったのだ。
シェリルは少しだけ暗い表情で息をつく。
(叔父様は、どうしてあんな無謀な戦争を仕掛けたのかしら……)
先の戦争でオルテガルドにはほとんど被害はなかったらしいが、一方でエルヴィシアはそれなりに痛手を食らった。国王がまた戦争を仕掛けるかどうかは分からないが、こんなことを続けていれば、いずれ国は疲弊して倒れてしまうだろう。
そこまで考えてから、シェリルははっと顔を上げる。
「もしかして私、オルテガルドにお嫁に出されるんでしょうか?」
「人質として、ですか? そんなわけないでしょう。まさかシェリル様まで、そんな噂を信じているんですか?」
「でも、オルテガルドが私たちの国土を要求しなかったのは事実ですから」
オルテガルドの内政が落ち着いていないという話が本当なのかはわからないが、戦争を仕掛けたのがエルヴィシアであるにもかかわらず、かの国は敗戦国であるエルヴィシアの土地を要求しなかった。
そんな状況に、『オルテガルドは、エルヴィシア王族に連なる貴族の淑女を人質として嫁に差し出すよう求めており、エルヴィシア王族はそれを受けて、貴族の未婚の淑女に頭を下げて回っている』という噂がまことしやかにささやかれ始めたのである。
「それに、仮に噂が本当だとして、誰がトリニアム教の神使であるシェリル様をお嫁に出すというんですか」
「そう、よね」
「そうですよ」
サシャは呆れたようにそう言いつつ、溜息をつく。
トリニアム教というのは、三柱の女神――『知識の女神』『力の女神』『美しさの女神』を信仰の中心に据えた宗教である。その教えは、創造神によって遣わされた三柱が人間を導き、原初の三国――『エルヴィシア』『ヴィルトゥーア』『イリシュタリア』を興す礎となった、という神話に基づいている。
神使というのは、『エルヴィシア』『ヴィルトゥーア』『イリシュタリア』に一人ずつ存在する、三柱の女神から特別な加護を受けた存在だ。彼らはそれぞれの王族の血族に産まれてくるとされ、教団の象徴であった。
「でも、もうトリニアム教を信仰している国も少ないですし、オルテガルドのような、興ったばかりで勢いのある国からしてみれば、そんなことは関係ないのかもしれません」
「それはそうですが。けれどこんな力、私が国王様なら絶対に国外に出したりはしませんよ」
そう言って、サシャは辺りを見渡した。
眼前に広がるのは、広大で荘厳な図書館だ。
高いドーム型の天井に、長くて先の見えない回廊。
回廊の脇には背の高い本棚が列をなして並び、それらすべてに、たくさんの本が隙間無く、これでもかと押し込められている。
床は冷たく光る大理石で出来ており、本棚と本棚の間には、読書をするための机や椅子、ソファなどが置かれていた。
古書特有の香りが満ちるその空間全てが、女神からシェリルに贈られた加護であり、彼女を神使たらしめている力だった。
加護の名前は『知識の箱舟』。
『無限書庫』とも呼ばれるその加護は、神使が目を通した文字の全てを保存し続ける能力だった。そして、この能力は神使が代を重ねても途切れることなく引き継がれる。
つまりこれは、本来ならば時代によって失われる文化や知識を保護しておくための力なのである。
シェリルは、知識を求める者ならば喉から手が出る程に欲しがるこの空間に、どこからでも行くことができる唯一の人間だった。
行く方法は、シェリルの首に掛かっている紐、その先につけられた真鍮製の鍵を、そこら辺の扉の鍵穴に差し込んで回すだけ。鍵穴がない場合でも鍵穴は勝手に出現するので問題はない。ただし、鍵穴はなくてもいいが扉は必ず必要で、鍵を回す人間も必ずシェリルではないといけないのである。
そして、ここにある本の貸し出しも、この空間から持ち出すこと自体も、シェリルの許可がなくては行えないのだ。
「ところで、そんなに集中して、お嬢様はどのような本をお読みになっていたんですか?」
サシャはそう言って、先ほどまでシェリルが読んでいた本を確かめる。
本に使われている革はシェリルの瞳を思わせるような深みのある青に染められており、文字には彼女の髪の色を思わせるような銀の箔が押されていた。
そして、肝心の本の表題も『シェリル・ロレンツ』――シェリルの名前だった。
「お嬢様、これって……」
「えぇ。私の『自叙伝』ね」
シェリルの言葉に、サシャの表情は強ばった。
それもそのはずである。
この図書館には、現実には存在しない本がいくつか並べられている。
その中の一つが歴代神使の『自叙伝』だ。
それらは神使に選ばれた人間の歴史であり、神使が死ぬと同時に図書館に現れる――はずだった。
「えっと、シェリル様はまだ生きておられますよね?」
「えぇ、まだ元気ね。ここ数年、病気もしていないわ」
サシャはもう一度本の表題を確かめる。
そこにはやっぱり、『シェリル・ロレンツ』の文字。
サシャはおそるおそるその本を開いた。
そうしてパラパラとめくり、最後のページを見て息をのむ。
「どうやら私、三ヶ月後に死んでしまうらしいわね。それも、オルテガルドで」
サシャの見ていた本の最終ページには、日付と一緒に一行だけこう書かれていた。
『衆人環視の中、夫であるルーク様は無情にも剣を振り下ろし、私の首を刎ねました』
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