16.いざ婚前旅行です!
シェリルにとって、鳥の羽音はいつだって幸福の合図だった。
『ニコ、来てくれたのね!』
いつもの羽ばたきの音が聞こえて、シェリルはその姿を認める前にそう声を上げた。
視線を向けた窓には、予想していたとおり、白い鳩がいる。シェリルは塔の窓を開けると、鳩を招き入れた。そして、彼の苦労を用意していた麦でねぎらいながら、右足にくくりつけられた小さな筒から小さな手紙を受け取る。
それは、大好きな人からの手紙だった。初めて自分に外の世界を教えてくれた人。
シェリルは数行しか書かれていない手紙にすぐさま目を通し、ぎゅっと抱きしめた。
『随分と、積極的だね』
――その声は、手紙から聞こえた。
『へ?』
シェリルは抱きしめた手紙を見下ろしながら、数度瞬きをする。
一度、二度、三度……
瞬きをするたびに目の前の光景が変化していく。
シェリルが手紙だと思っていたもの、それは――
「布団?」
「残念。人の身体だよ」
再び聞こえた声にシェリルは顔を上げ、悲鳴を上げそうになった。
そこにいたのはルークだった。彼は手で頭を支えた状態で横向きに寝転がりながら、胸事にくっついているシェリルを見下ろしている。
場所はいつの間にか塔からシェリルの部屋にある寝台の上に変わっていた。
シェリルは布越しの体温に思わず頬を染めたあと、慌てて背中に回している腕を放し、ベッドの端に逃げた。
「な、な、な、な、なんでここに、ルーク様が!?」
「覚えてない? 昨日の晩、シェリルが呼んだんでしょう? いいワインが手に入ったからって……」
「…………あ」
そこまで言われて思い出した。
そういえば昨晩は、ルークをメロメロにするため本にあったシーンを再現しようと『媚薬』をワインに混ぜて彼に飲ませたのだ。
『特製の媚薬です。ほら、身体が熱くなってきたでしょう?』
『これは、媚薬じゃな、く、て、……しびれ、薬』
その言葉と動かなくなったルークに驚き、急いでエリックを呼んできたところ、
『放っておいたら治りますよ』
と冷たく告げられて、そのままどうしたら良いのかわからず、布団を掛けて一緒に寝たのである。
「シェリル、よく眠っていたね。俺はなかなか眠れなかったけど?」
「す、すみません」
当てこすりのようにいわれた言葉にシェリルは頭を下げた。だけど意地悪な言葉とは裏腹に、彼はいつもどおりの楽しそうな笑みを浮かべている。
「と言うか、なんでしびれ薬? 媚薬じゃなかったの?」
「参考にした本が物語だったので、どこにも媚薬の作り方が書いてなかったんです。なので、薬学の本を参考に、効能が近しい薬を作った結果……」
「しびれ薬になったってこと? なんでそうなるわけ」
そういいつつも、ルークはどこかおかしそうに笑っている。
ちなみに薬はサシャに頼んで作ってもらった。材料と作り方を渡すと、彼女は「作りますけど、なにに使う気ですか?」「変なことに使わないでくださいね?」と怪訝な顔をして調合していた。その様子からして、彼女はその成分で何の薬なのかわかっていたのかも知れない。
「でも、しびれ薬で良かったよ。死ぬような薬だったらさすがに困っていたからさ」
「さ、さすがに死ぬような薬は飲ませません!」
「どうだか。そうはいっても、シェリルだからなぁ」
ルークはからからと笑う。この人は、いつでもどこでもどんなときでも常に楽しそうだ。そういうところが、シェリルにとってはとても新鮮で、すごくあたたかい。
(それにしても……)
ここ最近、ルークとはずっとこんなやりとりをしているような気がする。
シェリルが積極的にアプローチして、そのズレた行動に、ルークが笑う。
先日だって、ルーク様の胃袋を掴むぞ! と、アンヌから『ルークの好物』として聞いたナッツのパイを作ったところ、真っ黒なナニカが誕生してしまい、笑われてしまったしし、『女性らしい仕草』という本に書いてあった『髪の毛をかき上げながらウィンクする』を実践しようとして、どうやっても両目を瞑ってしまい、『髪の毛をかき上げながら両目をしばしばさせる女』をルークに見せつけてしまい笑われた。
他には、動物の求愛行動も参考にしてみようと、ダンスでアピールしてみたところ、『どうしたの? なにか俺の知らない儀式でもしてる?』と不審がられたあと、笑われたし、百年前のエルヴィシア人が詩で愛を伝えたと本で読んでから、詩を勉強してルークに贈ったところ、文字も古代エルヴィシア語で書いてしまったがために「これは、読めないわ!」と笑われた。
失敗ばかりのアプローチだが、ルークとのやりとり自体は楽しい。
楽しいが、当初の目的である『ルークをメロメロにする』というものがまったく達成できている気がしなかった。
(このままでは、あの自叙伝の通りに死んでしまいます)
自叙伝のデッドエンドにはまったく変化がない。シェリルの残りの寿命を示すように、ただただ空白のページだけが消えていく。
(どうにか、しなくては……!)
そんな風にシェリルが思った時だった。
「ルーク様。お部屋にいないと思ったら、こんなところにいたんですね」
声が聞こえた。その方を見れば、開け放たれた扉の奥に立つエリックが見える。
彼はシェリルとルークの視線を受けて、ドアノブを持っていた手で扉をコンコンと二度ほど叩いた。
「ちなみにきちんとノックはしましたよ? お二人が話に夢中で気がつかなかっただけですからね」
「わかってるよ。それで、どうしたの?」
ルークは、エリックの訪問に少しだけ驚いたような表情を浮かべたあと、そう聞いた。
「今朝、ロースベルグ鉱山付近に住む住民から嘆願書が届きました」
「嘆願書?」
ルークは怪訝な顔でエリックが差し出してきた書類を受け取る。そして、中身を見ながら険しい顔をした。
「鉱山街にある川が、鉱山からの廃水によって汚染されているようなので、調査をしてほしいと」
「はあ?」
「きちんとした原因が解明され対処がなされるまで、鉱夫たちは仕事を放棄するそうです。その上で仕事をしていない期間の生活保障も求めています」
「なんで、そんな。あそこの排水はちゃんと処理しているだろう?」
「そのはずですが。とにもかく、なるだけ早く現場に行かなければならない事になりました。……ご準備を」
「わかった」
ルークは短くそう返してからベッドから飛び降りる。
先ほどまでの陽気な雰囲気は、その表情からは消えていた。
「あ、あの!」
シェリルが呼び止めたのは無意識だった。
振り返ったルークに、シェリルは言葉を探すように視線を彷徨わせる。そうして、ようやく適切な言葉を見つけ、口を開いた。
「ルーク様、いってらっしゃいませ」
言葉を発した瞬間に、もしかしたら自分はそれを言いたくなかったのかもしれないと、彼を呼び止めてしまった理由を見つける。
公害の調査ということなら、ルークは一日や二日で帰ってくることはない。少なくとも一週間。もしかすると何ヶ月も帰ってこられないなんて事もあるかも知れないのだ。
シェリルはきっとそれが寂しかったのである。
そんなシェリルの様子になにを思ったのか、ルークはこちらに向かって笑みを作った。
「もし良かったら、シェリルも一緒行く?」
「へ?」
「は?」
思わぬ言葉にシェリルは驚いた顔で固まり、エリックが厳しい顔になる。
「何かするわけじゃないから、行っても楽しくないかもしれないけどさ。軽い婚前旅行になるんじゃない」
「婚前旅行!?」
「と言っても、俺は聞いての通りの状況だからさ、相手をしてあげられるかわからないけど。それでも良いなら」
「い、行きたいです! 行きたい!」
シェリルは必死に手を上げながらそう希望を口に出す。すると、ルークは破顔した。
「んじゃ、決まり。すぐに出るから準備しといてね?」
その言葉にシェリルは元気よく「はい!」と答えるのだった。
..◆◇◆
「あー、もぉ。なんでこうなるかなぁ」
ルークはそう言いながら、持っていたロースベルグ鉱山の調査報告書を背後に投げた。それは、十年前。まだロースベルグ鉱山の利権がヴァレンティノ侯爵にあったときのもので、投げられたそれをエリックは慣れた手つきで華麗に受け取った。
「というか、ちょっと前まで賃金上がったって喜んでいたのに、なんでこんな……」
「まぁ、それとこれとは話が別なのでしょう」
「そもそも二十年以上動かし続けて、どうして今更こんな話が出てくるわけ? あーもー、昨日はあまり眠れてないのに、今日これから長距離の移動って。いや、仕方がないけどさぁ」
「眠れなかったって、昨晩の話は自業自得じゃないですか」
その言葉に、ルークは黙ったままエリックの方を見た。
「あのワインに何か入っていたこと、わかっていて飲まれたでしょう?」
「バレてた?」
「バレてますよ。大体、貴方、そこまでうかつな人間じゃないでしょう?」
「いやだって、あそこまでそわそわしていたら、さすがにわかるよ。でも、まさかしびれ薬が入っているとは思わなかったけどさー」
昨日のシェリルの慌てようを思い出し、ルークは苦笑を漏らす。
そんな、終始面白そうなルークを見て、エリックは眉を寄せた。
「それにしても、本当にシェリル様を連れて行くんですか?」
「なに? だめ?」
「ダメというわけではありませんが、女性が行って楽しいところではないでしょう?」
「まぁ。それはそうだけど、本人が良いって言っているんだからいいんじゃない?」
「それはそう、ですが……」
エリックはしばらく黙ったまま何かを考えるようにしたあと、慎重に口を開いた。
「ルーク様、貴方もしかしてシェリル様とナタリア様のことを重ねて見ていませんか?」
その言葉に少し先を歩いていたルークは、黙って振り返った。
「だから、ここに残していきたくないんじゃないんですか?」
「……」
「何度も言っていますが、あれは貴方が悪いわけでは――」
「俺が悪いよ」
ルークはエリックの言葉を遮るようにそう言った。そうしてそのまま再び前を向く。
「ナタリアは俺が殺したんだ。それは事実としてここにある。誰がなんと言おうとね。……でもまぁ、それとこれとは話が別だよ。シェリルを連れて行こうと思ったのは、彼女が暇そうにしていたから可哀想になっただけ。それにほら、放置していて殺す前に逃げられても困るでしょ?」
「そう、ですね……」
エリックが微妙な表情でそう呟いた瞬間、ルークは背後にエリックの者ではないもう一つの気配を感じた。慌てて振り返ると、大きく目を見開くエリックの姿が眼に入る。
ルーク、何かに気がついたように振り返る。しかし、背後にはなにもない。
「どうかしましたか?」
「いや。……気のせい、かな?」
ルークは何度か視線を左右に滑らせたあと、そう言って頭を掻いた。
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