15.振り回すって物理ですか?②
「ルーク様、助けていただき、ありがとうございます」
シェリルが頭を下げたのは、露天から少し離れた、人通りの少ない路地。
オパールのブローチを高値で売ることができた少年は帰った後で、その場にはもう二人しかいなかった。
「そんなに頭下げなくても良いよ。別にシェリルを助けたわけじゃないしね」
「いえ、私も後に引けなくなっていたので、本当に助かりました! 彼も、きっとあれだけあればしばらく薬代にも困らないでしょうし……」
「そうだね」
シェリルの脳裏に二人に何度も頭を下げて、笑顔で帰っていた少年の姿が思い出される。
「でも、あの店主さんは大丈夫でしょうか? あんな高額で買い取ってしまって……」
「大丈夫なんじゃない? 意匠を整えれば高額で売れるってのも嘘じゃないしね。ただまぁ、過剰に言ったのは確かだから、諸経費含めてトントンぐらいだろうね」
「トントン……」
「でもまぁ、いい勉強代になったんじゃない? 人を騙そうとするとろくなことにならないってね。まぁ、それを言ったら今回は俺の方が騙しているんだけどね」
ルークはからりと笑ったあと、シェリルの持っている本に視線を落とす。
先ほど店主の説得に使っていた鉱石の本だ。
「そういえば、その本どうしたの?」
「え!?」
「さっきの店主に見せたでしょ? そんな本、いつ買ったの? というか、お金持ってたっけ?」
その追求に血の気が引く思いがした。
シェリルが今持っている本は、少年を見つけたときにとっさに近くの扉から無限書庫に行って取り出してきたものだ。しかし、そんなことを馬鹿正直に言うことはできない。
シェリルは視線を泳がせた。
「こ、この本はもらったんです!」
「もらった?」
「近くにあった雑貨屋さんが騒ぎを聞きつけて本を持ってきてくれたんです。そのままいらないか私にあげると! なので、ありがたくいただきました!」
「そう。じゃぁ、お礼でも言っておかないとね」
「お、おおおおおお礼は、私が十二分に言っておきました! だから大丈夫です! 問題ありません!」
あまりにもあからさまに慌ててしまったからだろうか、気がつけばルークにじっと見つめられていた。
シェリルの背中に冷や汗が流れる。
力のことは何としても隠さなければならない。なんとしても、なんとしても、だ。そうしなくては、誘拐、もしくは、生きたまま解剖の上に実験台、になる運命が待っている。
(生きたまま解剖はいや。生きたまま解剖はいや。生きたまま解剖はいや! ……と言うか、もしかして、この力のことがバレたから、私は殺されてしまうのでは!?)
思いもかけない事実に気がついて、シェリルは慌てふためく。
そんなシェリルをルークはしばらく胡乱な顔で見ていたが、「まぁ、いいか」と呟いてふっと笑った。そして、シェリルに手を差し出す。
「シェリル、おいで」
「へ?」
「今日は頑張ったから、いいところにつれてってあげる」
「いい、ところ?」
きらきらと輝く水面も、果てのない地平線も、波打ち際の音も、全部全部本で読んだことがあったけれど。それがこんなに眩しくて、あんなに遠くまで続いていて、これほどまでに心をくすぐるなんて、シェリルはこの時始めて知った。
そこは海だった。
水平線のむこうに太陽が沈む、茜色の大きな水たまり。
「わああぁぁ……」
「どう、綺麗でしょ?」
「海!? これが海ですか!?」
シェリルは目を輝かせながら、波打ち際にまで走る。
波が寄せて返すのに足を取られながら、彼女は終始笑顔だった。
「わわわ!」
「入るなら靴脱ぎなよ。濡れるから」
「あ、そうですね。わかりました!」
シェリルは急いで靴を脱いで、そっと海に入る。ひんやりとした水の冷たさ。指先を撫でる波と砂の感触に、また心が沸き立った。
「す、すごい! 読んでいたとおりです! こんなに広い水たまりがあるなんて!」
どきどきする。こんなにどきどきするのは、生まれて初めてだった。
「ルーク様、冷たいです!」
「うん」
「ルーク様! しょっぱいです!」
「まぁ、海だからね」
シェリルのはしゃぎっぷりに、ルークは苦笑を浮かべた。しかしその顔は、馬鹿にしているようではなく、どこまでも優しい。
「ルーク様、ありがとうございます! 私、今日という日を一生忘れません!」
「そ。喜んでもらえたみたいで良かった」
「はい! とても楽しいです!」
波が砂をかき混ぜる音が耳に気持ちが良い。
そんな波の音に混じるようにして、ルークの声も低く穏やかだ。
「死ぬまでには来たかったもんね? 俺もさ、連れてきてあげたかったからさ」
だけど、その声はシェリルとは少しだけ違う切なさも含まれているような気がした。
「シェリルって、良い子だよね。誰からも好かれるし。気がついたら人のこと励ましているし。困っている人は放っておけないし。……まるで、妹みたい」
「ルーク様?」
「シェリルが、悪い子だったら良かったのに」
そう言うルークはいっそう深く笑っているのに、なぜだかシェリルにはそれが笑顔に見えなかった。
..◆◇◆
最初に創造神がいた。
彼は空を作り、大地を作り、海を作り、大気を作り、光と闇と時間を作った。
そして沢山の生物たちをも生み出した。
創造神はその箱庭を眺めているのが好きだった。とても慈しみ、愛していた。
しばらくすると、その中で人間が生まれた。
賢く、奇しくも自分たちの姿に似ていた彼らを、創造神はたいそう気に入った。
創造神は人間のために、三柱の女神をこの世界に産み落とした。
それが、『知識の女神』『美しさの女神』『力の女神』である。
そして創造神は、彼女らに『人間を正しく導くように』と命令を下したのである。
三柱は人間の世界に散り、創造神の命令どおりに人々を教え導いた。
その教えに導かれた人間たちは、見事な発展を遂げ、とうとう国を興すまでに至った。
それが今の『エルヴィシア』『イリシュタリア』『ヴィルトゥーア』である。
三柱は建国をたいそう喜び、それぞれの国の姫に自らの加護を与えた。
これが最初の神使である。
そして自らたちはもう役目を終えたとして、地中奥深くに籠もり、それぞれの国の発展を見守ることにした。
こうして、女神に愛された三国『エルヴィシア』『イリシュタリア』『ヴィルトゥーア』が誕生した。彼らは自らのことを『原初三国』呼称し、同盟を結び、人間の世界を発展させてきたのである。
…◇
ルークはそこまで読んだところで本を閉じた。
場所はルークの私室。先ほどまで読んでいたのはエリックに取り寄せてもらったトリニアム教の神話が書かれている本である。トリニアム教はそこまで大きな宗教ではないが、古くからあるものなので、語り継がれている物語もいろいろな種類がある。今回読んだのは、その中でも一番古典的で、トリニアム教を信じる者の多くが知っている神話だった。
ルークは先ほどまで読んでいた本の中身をかみ砕きながら、窓の外に視線を移す。そこには大きな満月が浮かんでおり、そばにはたくさんの星が散りばめられていた。
それらをじっと見ていると、昼間に聞いたシェリルの言葉が頭によみがえってくる。
『私、実は王宮の敷地から出るの、はじめてなんです』
「知識の女神に、エルヴィシアの神使、ねぇ……」
そのつぶやきは誰にも届くことなく、暗い部屋の中にかき消えた。