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「あそこに修一郎さんがいるのかしら……」
奥さんの呟きが千颯の耳に入ってくる。
隣組の皆に説得していた力のある声はまるでなく、ただ夫を心配する気弱い妻のそれとなり、とても『大日本国防婦人会』所属の心強くも凛とした女性のものではない。
勇ましさはどこへいってしまったのだろうか。
不安にさせてしまっているのは申し訳ないが、それでも生きられる命は生きなければならない。
「ずっと北上しているのかね? 奴らは」
たった今、副班長の鈴木さんも合流してきた。
班員の殿を務めていたようで千颯たちに追いついた班員たちの足が止まったことで閊える列の間を、縫うようにして先頭までやってきて声をかけてきた。
「鈴木さん、お疲れさまでした」
千颯は真っ先に礼を述べる。
「いや、構わん。……それにしても確かに今夜の空襲の恐ろしさが分かってきたよ。これはもし我々が救助に出向いても火に近づくこともできなさそうだ。焼け出されてくる人が多すぎて下手すると逃げ道を塞いでしまって身動きが取れなくなってしまっていたぞ」
「君の考えていたことが現実味を帯びてきたな。……あの大火事には太刀打ちできない。参ったな」
頭をかいて班長さんたちは「さぁもう少しだけ歩いて安全だと思えるところまで行こう」「警報が止むまで近づかずに見守ろう」と、また移動を促した。
夜中の隣組全員の移動途中で、次の集落に差し掛かった。
西側の隣組の人々は防空壕に入っているのだろう、閑散としている。
しかし、壕には入らずに危険を承知で様子を見に外に出て確認している人がいた。
「あれ? 鈴木さん? どうしたんだね、そんなに大勢で」
「おう、永瀬さんじゃないか。みんなで話して壕から出て避難してきたんだ。あれでは消火の手伝いなんて行けないだろう?」
ここの集落のおじさんが副班長の鈴木さんと知り合いだったらしく、暗い中でも姿を見つけて話しかけてきた。
敵機はどうやら進路を変えずに北上していくようで、こちらには向かってきそうには見えない。
右から左へとずっと通り抜けていく。
火事の範囲が広がっていくのを、ただ、眺めるだけ。
圧倒的な武力を目の当たりにして無力感にうつろな目を向けるしかない。
「どうやらここまでは敵さんは来ないみたいだな。よかったよかった。などと、安心していいのかどうか」
「そうだな。明日は我が身。かもしれん……」
「あんなに火の手が上がればどうしようもないなぁ」
「千颯の言うことの方が正しかったと、実感してくるよ」
「このまま風向きが変わらないことを祈るか……」
小さく囁くような独り言を皆がポツリポツリと言葉に出している。
会話にならない、それぞれの胸の内を声に出してしまうのをじっと周りの者も聞いているだけ。
腹の中の焼夷弾を落とし終わった敵機の群れは飛び去って行く。
が、どうやら殿が見えてきた。
「最後の爆撃機が見えます。あれが過ぎればもう今夜は攻撃が終わるのではないでしょうか……」
視力の良い千颯は、見えている最後だと思われる敵機を発見して班長さんたちがいるところに報告した。
「そうなのか?」
「はい。たぶん。今、あそこで焼夷弾を落としているのが最後のようです」
千颯は最後尾の敵機を指さして方向を知らせてみるが、班長さんたちは目を凝らしても見つけられないようだ。
「あの敵機の後ろには後続機がいません。それ以降の焼夷弾の光もありませんので僕はそう判断します」
「うーん? そうなのか? 鈴木さん見えますか?」
「いえ。……残念ながら」
「君は本当に目が良いのだなぁ。私はその焼夷弾の光が見えないのだが? 敵機だって見えてないし。……やっぱり若者は良く見えるものなんだねぇ」
班長さんはなんとか敵機が見えないものかと身体を揺らしたり背伸びや首を伸ばそうとしてみたり、矯めつ眇めつしてはいるのだが、それで遠くの小さなものを見つけられるなら苦労はしないだろうが、無駄なことをしては唸っている。
もちろん千颯はそんなことしても見えないものは見えないなどと、言わないし態度にも出すこともしない。
「ここまで来ないなら、ここの住人には外に出て避難しろとは言わなくてもいいだろう。火災がどこまで広がるのか警戒するくらいで」
移動してきた先の、隣組の永瀬さんも安心したように言う。
「あとは風ですね」
千颯は奥さんや近くにいる大人たちに次の懸念を投げかけた。
「そうだな……。風向きだ。班長、風が西に吹いてきたらこちらにも被害が出るかもしれません」
「えぇ……。今夜の天気はどうだったかな……」
「誰か、ラヂヲでも新聞でも今夜の風向きを知っている者はおらんか?」
急に聞かれた周りにいた大人たちは、呼び掛けてきた鈴木さんに視線を向けるが有力な情報など皆無だった。
黙り込んだり視線を外したりしているようだ。
「……誰も知らないよなぁ。そうだよなぁ。朝夕聞いても軍事美談や慰問番組に戦況ばかりで天気なんてすぐに終わってしまう。天気を集中して聞くことはないし覚えてもいない。ましてや風向きなんて気にもしない」
「そうですよね。僕は夜の勉強でちょっと外に出たときに北風が強いなと思いながら壕に入って教科書を読み始めたくらいで……」
千颯もこれからの風向きなど気にすることもなかった。
「あら、そうだったの。奉仕作業の後に勉強まで頑張っているなんて。さすが学生さんね。太一もしっかり勉強しなさいね」
すぐそばにいた太一少年に母親として説く。
「そうよね。あんたたちも兵隊さんになるためには勉強もしておかなきゃ、偉い将校さんにまでなれないわよ? きちんと先生の仰ること大人のいうことを聞いて賢くなりましょう」
岸さんと竹田さんの奥さんが自分たちの子供へのお小言が始まり、その息子たちは「ハイ!」と返事を素直にすると一目散に逃げだした。
「お説教キラ~イ!」
「逃げろー!」
そう叫んで幼い子供たちは走っていったようだ。
「あ、お待ちなさい! お話はまだ途中ですよ!?」
「きゃあー!お説教いやー!」
「あはははは!」
きゃあきゃあと高い声を上げて、未明の農道を器用に走って逃げていく少年たちの足音は途中でパタリと止まった。
「ふぎゃッ……」
「んっ!?」
「わぁッ」
と、同時に「大丈夫か?」の男声も聞こえる。
子供たちが誰かにぶつかって悲鳴を上げ、ぶつかられた方が心配して声をかけたのだろうか。
「え、ちょっと? なに? 暗くてよくわからないわ。誰かにご迷惑かけてるの!?」
「あ、いえ、大丈夫ですよ。ちょっと当たっただけで。元気があって頼もしいくらいだ。たいへん宜しい」
「この声は森下さん? すみません、ぶつかりましたか!? 本当にごめんなさい、怪我はありませんか? あんたたちもしっかり謝りなさい!」
「ごめんなさい!」
「ごめんなさい」
すぐに素直に謝る子供の声が聞こえる。
「ちゃんと謝れた、えらい。だが母ちゃんのところに戻りなさいよ」
「はぁい」
「うん」
暗い中でもちゃんと母親のいる場所がわかるのは子供ならではの感覚だろうか、小さな足音が聞こえて「お母さ~ん」「えへへ……」「もうちゃんと反省しなさい」とやり取りがあった。
「暗いからあんまり親から離れちゃいけないよ?」
班長さんが子供たちに注意すると子供たちも「うん。分かった。ごめんなさい」と言って母親のそばにいることにしたのだろう。
もう気持ちを切り替えて、静かに言うことを聞くことにしてくれた。
そしてまた、東の空を皆で眺める。
するとそれまで火のあかりが低かったのが高くなってきて、炎が直接見えるようになった。
「ねェ! なんだかあの火事おかしいわよ?」
そう声が聞こえた。
声の感じからすると本橋さんのお嫁さんだろうか、若い女性の声だ。
「えー?」
「本当だ。あの火のうごきかた! おもしろい~」
「……面白い?」
「うん。だってミミズがおどってるよ!」
「ミミズ……」
子供らの言葉に他の大人たちは目を凝らした。
千颯はすぐに子供たちの表現の仕方に納得した。
4キロ離れているこの場所から下町で燃えている炎が見えることが不思議なのだ。
いくつもの火柱が立ち上がり、細い竜巻がゆらゆらと……、つむじ風のようにグネグネ躍っているのが小さく見える。
それまではぼんやりと火事があそこで起きている、という明るさだったのが、火の柱が見えたのをきっかけに更に激しい火災になっている。
あの火柱はどれくらいの高さにまでなっているのだろうか?
この巣鴨から見て、ひょろひょろと立つ火柱は子供の言うとおり、まるでミミズが動いているように見えなくもない。
そしてその火柱が次々といくつも出来て、あちこちへと移動するのだ。
千颯も大人たちも、不気味に光る光景に衝撃を受けた。
呆然と、放心している中で静かに時間が過ぎていく。
三月とはいえ北風の吹く、畑ばかりが広がるあぜ道で身体が冷えてきていると自覚した千颯は、班長さんに声をかけた。
「警報が鳴りやんだみたいですね……」
ふと気づけば鳴り続けていた警報が止んでいた。
「敵機も飛来しないな……」
「そのようです」
「警報が止んだなら戻って避難者の救護活動を始めなきゃ」
やるべきことをやっておかなければ……と、班長さんは次の段取りを考え声に出して周りの者に伝える。
「そうですね。風向きに注意しながら戻ってみましょう」
鈴木さんも同意して、いつまでも寒空の下で待機するよりも動いた方が良いと判断する。
「それにしても、あの火柱はどういったものなんだろう?」
「あれは気流のせいで炎の竜巻になってしまっているんだよ」
「へぇ?」
「大地震のときが、確かあんなのができて火災がなかなか消し止められなかったんだ……」
「そうなんですか? 僕はその時は廣島にいていてね。関東大地震のことは分からなくてねぇ」
「あのときも酷かったもんだ。そこら中が火の海になった」
「渡さん地震の時の生存者?」
「そうなんだよ。今回は難を逃れたけど、あの時は生きた心地がしなかったよ」
渡さんの声が聞こえていた人たちはみんな彼を見つめた。
「大正12年だから、もう20年は過ぎてしまっているけど、思い出したくないなぁ……あの時のことは」
「でも。その時と同じような状況が下町で起きているのなら今あそこはどうなっているのでしょうか……。渡さん。教えてもらえませんか?」
千颯は渡さんに話してもらえるように頼んでみた。




