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先月の奉仕作業で物理教師が引率だったので昼休憩の勉強時間で聞いた記憶がよみがえる。
防空壕に入ったのに火災で蒸し焼きになって亡くなってしまった人がいるという出来事があった。
それはただ偶然起きてしまった事故なのだが、あまりにも不幸な死に方だったと思う。
防空壕は爆風や衝撃には強いが高熱には弱いことが分かってからは、どんな攻撃なのかがわかってから壕に入るか判断しても遅くはない、とその時に結論が出たのだ。
わずかな光でも敵に見つかればそこに人がいると判断され、集中的に狙いを定めて攻撃されるので灯りを付けることもできない中、千颯も学生帽と防空頭巾を鞄から出して重ねて被り、避難準備をすることにした。
防空頭巾のおかげで敵機から聞こえてくるエンジンの音が極わずかではあるが軽減された。
避難用のカバンを斜め掛けに、ゲートルも出して手早く巻いていく。
視力が良い千颯は、米国の飛行機にはエンジンが片翼に二つ付いているのが見えていた。
B29。
大型の爆撃機だが、それが300以上の大編隊で東京上空に押し寄せてきているのが見える。
こんなに沢山の飛行機を見たことがない。
まるで大群ではないか。
千颯は敵国の軍事力に改めて恐怖を感じた。
こんなに飛行機を所有している敵に、神国日本は勝てるのだろうかとさえ疑ってしまう。
思ってはいけないことを思わされてしまう。
日本は負けてしまうのではないかと……。
早く戦争が終わってほしいと考えてはいても、負けてしまったらどんな生活になるのか。
そんなことは考えたことがなかった。
進学は?
農学校に行けるのか?
そもそも自分が生きているのか?
殺されてしまうのではないのか?
いろんな不安が千颯を責め立てて、壕の前で手が止まり立ち尽くしてしまった。
「千颯さん何をしているの? 早く準備を済ませて防空壕に入りなさい」
そう声をかけてきたのは下宿の奥さんだ。
どうしようもない不安の中から引き上げられて、ハッと思考から戻った。
「あ、いえ。ここでこのまま暫く様子を見させてください」
と断った。
「何故? どうしたの?」
奥さんは千颯の言葉に驚いた。
「攻撃に向かっている方向が少し東側なんです。それにあの敵機を見てください。大型であの大編成ならここが攻撃範囲から少し外れていると思うんです。ただの移動ではこんなに低く飛びません。ならば攻撃だと思いますが、攻撃の手段がまだわかりません。今までと同じようなの爆撃なのか、去年から使われるようになった焼夷弾なのか」
「攻撃が始まればとにかく防空壕に入るのが当たり前でしょう?」
この子は何を言っているのやら……と、不思議そうな顔でいる。
「いえ。実はそうではないと考えているんです。普通の爆弾なら防空壕に入るのが一番助かる可能性が高いのですが、焼夷弾であれば防空壕に入るのは良くありません。ここのように家の中に壕があると火災で蒸し焼きになってしまいます。だからどんな攻撃なのかを見てからでないと……」
空を見上げたまま奥さんに早口で説明する。
「先月の奉仕作業で聞いた出来事ですが。火事が出て家の中に作っていた防空壕に避難した家主一家が蒸し焼きになった状態で死んでしまっていたというのです」
「そんなことあったかしら?」
「僕の同級生の親戚の方から聞いたそうです。新聞には載っていないんですよ。今は戦争関連以外の記事はあまり載らないみたいで。同級生の話の詳しい説明は農作業の合間の休憩時間に先生にしてもらいました」
「そう。新聞も戦争に関係するものばかりになっていたわね。私は防空壕に入ればなんでも助かるとばかり思っていたわ。考えてみればたしかにそうかもしれないわ。大本営からの発表だけを聞いていてはいけないということかしら……」
「あ、いえ。そういうわけでは……」
千颯は慌てて軍を批判しているのではないと主張しようとした。
「もし、この空襲でのあの大編成がここを通るようでしたら爆撃での破壊行動なのか焼夷弾で火災を発生させたいのかを見極める。もし焼夷弾なら、防空壕に入って蒸し焼きになるのは癪に障るというか」
「わかりました。じゃあ私も千颯さんと一緒にここで攻撃手段を見ておくことにしましょう」
「そうですか? あの敵機がいつこちらに方向を変えてきたりするか分からないので、本当に危険です。
充分に注意していつでも壕に入れるように気を付けてください」
「ええ、そうしましょう。それにしても心配だわ。……修一郎さん無事でいてほしいわね」
「今夜はどちらまで仕事で出かけているんですか?」
「向島よ。非国民を疑われた依頼人の家族に事情を聞きに行って、その後お通夜に行くと言っていたのよ。今夜は帰らないって言ってて」
向島は敵機が飛んでいく方向にある。
「こんな日に間の悪い……。お通夜はどちらまで?」
「仕方ないわよ。本所の寺田さん宅。貴方も貴方のご実家も会ったことはなかったと思うけど、よく主人からお名前は聞いていたはずよね」
「本所の寺田さんと言えば。とても楽しい愉快な考えを持っている同僚で、宴会を盛り上げてくれると言ってました」
「そう。その寺田さんのお父様がね軍需工場での作業中に攻撃されて……。働いている人たちを避難させているときに機銃で撃たれて即死だったそうなの」
「そうでしたか」
「修一郎さん。どうか無事でいて」
奥さんは心細く手を合わせて、祈るような眼差しで大編成を見つめる。
千颯も園部氏が無事に帰宅できるように願った。
目を凝らしていると夜空の星明りの中、かすかなシルエットを作るB29の、腹が開いたのが確認できた。
「あ……」
「え……?」
ちらちらと橙色の星屑が零れ落ちていく。
落ちた場所は住宅密集地域で、爆発したようには見受けられない。
爆発音が聞こえない。
今までの爆弾ではないということだ。
敵機が落としてく小さな光が雨のように降っていくのが見える。
その赤い星たちが敵機と下町の屋根の間で明かりを灯しオレンジ色に染めていく。
最初の光が落ちていったところから火の手が上がったようだ。
焼夷弾が使われているのだと千颯には分かった。
無数の焼夷弾がばら撒かれていく小さな影が見えたのだ。
「焼夷弾だ……」
千颯が小さな声を上げる。
「あぁ……」と奥さんからため息が漏れた。
千颯は隣に並んだ奥さんを見ると、目を見開いて苦しそうな顔だ。
「……はぁ。千颯さんが言っていた焼夷弾、なのね」
「はい……どうやらそのようですね」
二人で深呼吸して気持ちを切り替える。
「不本意ながら、逃げますよ」
「え? 逃げるって」
「まず、死んではいけません。生きてまたそれから何をすればお国のためにご奉公できるのかを考えても遅くはありません」
「……貴方、そんな風に思っていたのですか?」
「……はい。……戦場で死ぬだけがお国のためになるわけではないと思います。まずは風上へ移動しましょう。ですがその前にやらねばならないことがあります」
「……ふぅ。……わかりました。何をすれば?」
奥さんも千颯の言いたいこと理解してくれて、キリッとした顔つきになった。
「まずは、貴重品はいつものように持っていますね」
「えぇ、もちろん。この避難袋は当たり前です」
そういって奥さんは避難用の斜め掛けの布製の嚢に巾着を入れているのを見せて、出かけるときも家の中にいても常に肌身離さず持ち歩いている。
その避難袋には毎日水を入れ替えた水筒まで入れている。
毎日何度も警報がなるのが当たり前になってきているので、ずっとこの濃紺の袋を右肩から斜め掛けにしているのが習慣化していた。
「防空頭巾も大丈夫ですよ」
「では、家の防空壕をきちんと閉じて壕の中が燃えないようにお願いします。僕はこちらの壕に土嚢を積んでいきます。家の戸締りもしてください」
「わかったわ」
そして避難準備をしていく。
とはいえ、暗い中での作業は少々時間がかかった。
家財用の壕が焼けてしまわないように防火対策として戸口に土嚢を積み上げていくのだが隙間なく積み上げるのは大変なのだ。
焼夷弾攻撃でどこまで火の手が迫ってくるのか全く分からない。
戸締りをすべて確認した奥さんが素早く玄関から出てきてカギをかけてやってくる。
東側の焼夷弾のせいで燃え始めた空は明るくなり、積み上げた土嚢が丁寧だなと、確認できてしまうのがとても皮肉だ。
とても悲しい思いがこみ上げる。
「よし。これで大丈夫。奥さん、行きましょう」
千颯は積みあがった壕の出入り口をしっかりと目に焼き付けてから移動を促す。
「そうね。そうしましょう……」
今夜は北風が強いので北西へ移動しましょう、と奥さんに伝えて奥さんが歩く速さに合わせて歩き始めた。
「千颯さん。消火活動を手伝った方が良いと思うのだけど」
と、奥さんは少し前を歩いて周囲を警戒している千颯にそんなことを呟いてしまう。
「消火しに行っても火に巻かれて焼け死んでしまうだけだそうです」
小さな声で否定の言葉を出した。
「そんな……」
千颯の淡々とした言葉に驚いた。
「そんな。消火しないなんて非国民みたいなこと、……こんな誰が聞いているのかわからない場で言わないでください。憲兵さんやご近所の人に聞かれでもしたら大変なことになりますよ」
奥さんが慌てて千颯を叱る。
「そうですね。不要な言葉であったなら謝ります。では、こうしましょうか。奥さんを安全な場所まで付き添う、というのは? それなら大丈夫ではないですか?」
暗い道の中でどんどん二人で歩いていく。
「まぁ、私をダシに使うというの? ひどいわね。でもそれならいいわ。確かに今夜の空襲は不気味だもの。そういうことにしておきましょう。夫の大切な友人の大事なお子さんを預かっている、下宿の女将として貴方を守らないと」
早歩きでも小声で話しながら二人で更に言い訳を言い合い、赤く染まりつつある背後を気にしては振り返り歩き続ける。
広い庭が多いこの地域はのどかで軍の関係する工場も少なく、人が多く集まるような所ではないので、本当に人通りがない。
出会う人がおらず、歩いているのは千颯と奥さんだけだった。
と、二人が歩いているとさっき避難の確認にきた隣組の班長さんが向こう側からやってきた。
どうやら隣組の皆さんの避難確認を済ませて戻ってきたようだ。
「班長さん!」
奥さんが声をかけた。
「ん? その声は薗部さんの奥さんかい? なんでまだ避難してないんですか!? 早く防空壕に入って!」
班長さんは千颯たちが逆光になっていて誰がいるのか分かっていなかったらしい。
びっくりしてまだのんきに出歩いている者がいるとは思ってなかったようだ。