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大変長らくお待たせしております。
申し訳ございません。
どこが着地点なのか迷子になってまして……。
どこに目標を定めようかと思案中です。
鈴木氏から許可を得て貸し出してもらった自転車に乗って、千颯は奉仕作業をしているはずの同級生の下に急いで走っていく。
実家の宮城で家業の手伝いをするようになってから、近所のお客様に御用聞きをするのによく乗り回していたので、自転車の扱いには慣れている。
スピードをどんどん出して高階たちのいる作業場所へと急ぐ。
すると、引率の教師と出くわした。
「先生!」
自転車で走ってくる千颯の掛け声に気が付いた教師は驚いて立ち止まってくれた。
「あ? 坂上か!?」
「はい!」
ブレーキをかけて教師の前で自転車を停めた。
「さっきの襲撃で被害が出ていないか気になって戻ってきました。みんな無事ですか?」
「大丈夫だ。慌てて転倒した者がいたが、それくらいだ。それよりもその自転車はどうしたんだ?」
千颯が借りている自転車を指さして眉根を寄せた。
「お邪魔した家のご主人が僕に貸してくれました。一刻も早く状況確認したいだろうからと。それから、被害が出ている様なら支援するとも言って下さっています」
「それはありがたいな。自転車に乗れるのならお前に伝令を頼みたい。生徒・教員・作業従事者は全員無事だと学校に連絡をいれたいのだ」
「はい、わかりました。お邪魔していた鈴木氏の家には電話がありました。お借りできるか相談してみます」
「電話があるなら是非貸してもらってくれ。頼む。それでそっちは、被害はでていないのか?」
「僕が目にした範囲では敵機についていた機関銃で家屋に打ち込まれていましたが、けが人までは確認できませんでした」
「そうか。けが人がいない事を願うしかないな。では学校への伝令を速やかに行ってきてくれ。あー、学校からなにか問い合わせがあるかもしれんな。やはり私も一緒に鈴木氏の家に行く。連れて行け」
「はい」
千颯は乗ってきた自転車の向きを変えてきた道を戻る。
教師と二人並んで早歩きだ。
「……」
「……」
何を喋っていいのかわからないので千颯は黙り込んでしまった。
教師も無駄口をたたかずに黙々と歩を進める。
チラチラと教師の顔色をこっそりと窺って……。
そしてそのまま目的地にたどり着いてしまう。
千颯にとって目上の……教師と二人きりで一緒にいるのが居心地が悪くて何か話した方が良いのだろうかと考えたり、でも何を話して良いのか分からず、教師から話しかけてくれても良いのでは……とか頭の中でぐるぐると独楽鼠のように思考が回り、結局どうしたらいいのかとまた同じことを考えていた。
鈴木家に自転車を返却して、案内してきた教師と引き合わせてから電話を借り、中学校に襲撃に遭遇したことと被害状況を連絡する教師を待つ間、千颯は周辺の被害の確認から戻ってきていた鈴木家の主人と話をしていた。
千颯たちが在籍している巣鴨中学の二年生は、軍事教練の最低限の知識はあるが、中学校に入学してから学徒動員が始まるまでの授業で、軍事講話と戦史の座学と基本教練しか出来ていなかった。
戦闘機からの銃撃で飛んでくる銃弾を回避する知識など持っていなかったことに、鈴木氏は驚き嘆いた。
「これは軍の、……いや、学校の怠慢になるのか? 君たちには作業中の空襲で退避の仕方や避難訓練が必要だな」
「今日の出来事で僕も実戦を想定した訓練をしなければならないと思います。無駄死にはよくありません。僕はただの敵の的になってやるつもりはないです」
「そうだな。この件は地域での訓練に学徒も参加できるように掛け合っていこう。軍需工場で作業している学生は軍の管轄で避難訓練が頻繁に行われているが、食糧生産を担っている者たちには必要ないという考えなのか? まぁ、敵は兵器がある工場を攻撃したいだろうし、実際に軍需工場が爆撃されているんだよな……」
「そうなんですか。ではさっきの敵の襲撃はこの地域ではとても珍しいことになりますね。この辺りは畑ばかりですから」
「そうだな。しかし、もう珍しい事と思っていてはならんのかもしれない。いつ警報が鳴っても落ち着いて退避できるように緊張感をもっておかねばな」
そんな会話をしていたのだが。
それから月日は流れていく。
数日に一回の空襲警報が鳴り響き、ほぼ毎日、一日に数回と、どんどんサイレンが鳴る回数が増えた。
実際に実弾が撃ち込まれることはなかったのだが、上空を我が物顔で飛んで行く敵機を千颯たちは畑作業の手を止めて身を隠すのを繰り返しているのだが、サイレンの音に慣れを感じ始めてもいた。
国民学校では集団疎開が始まり、千颯の下宿先の家族で双子の兄弟が教師をしているのだが、二人は子供たちの疎開の引率をすることになり家を離れる事になった。
疎開先は山形県の山の中にある寺でそこで子供たちと共同生活を共にすることになった。
とはいっても教師は学校との連絡などで東京と疎開先での往復を何度もするのだ。
その業務内容の最たるものは、子供と親の連絡や集団生活に馴染めない子供や病にかかった子供を親のいる東京の家に送り返すというもの。
始めの内は寺の檀家が野菜などの食料を分けてくれていたのだが、それに甘えていては申し訳ないと思い、子供たちと一緒に空いている土地を借りて畑を作り作物を育てたりしている。
今まで農作業をしたことのなかった子供や教師は檀家の好意で野菜の育て方を教えてもらったり、魚の取り方を教えられて、自給自足を目指し、檀家の仕事の手伝いなども率先して頑張らなくてはならなかった。
初等教育なんてやっている場合ではなくなっていた。
みんな生きる事に必死だった。
そんな中でも教師たちは子供たちの世話をし、子供たちの模範となる行動を課された。
虐めや暴力や争いが無いように神経を張り巡らし、東京で暮らす子供たちの親に近況報告の手紙を書き、学校への定期連絡を熟す。
千颯の下宿先の双子教師は、一時帰宅が許されても一泊することもなく疎開先に戻っていく生活をしていた。
何度も往復する生活で疲れが出ている為、どうしても遅れている勉強を彼らに教えてもらうことが難しくなってきた。
「千颯。ちょっと良いか?」
「はい」
そう返事して、千颯が使わせてもらっている三畳の部屋の外から双子の片割から声がかけられた。
するりと襖が開いて部屋に入ってきた弟の方の孝志が、申し訳なさそうな表情でいる。
何か良くない事なのだろうかと、千颯は身構えた。
「実はな。俺たちが務める国民学校での疎開のことだ」
「はい」
「前から言おうと思っていたことなんだが、……もう、今までのように君の勉強を見てあげるのが難しくなってしまってきていてね。……薄々は感じていていただろう?」
「……はい。そうですね。」
きちんと正座して話を聞く千颯に対して、孝志は同じように正座して膝を突き合わせるほど近くで、声を潜めて続きを話す。
「できるだけ俺も厚司も戻ってきて君の勉強を助けるつもりではいるのだが、これからはどうなるか分からない。少しでも自分で学んでおいてほしい」
「もちろんです。今まで僕が甘えてしまっていました。反省しています」
「反省はしないでくれ。君はまだ学生なんだから、学ぶことが一番大切な職務だ。独学でどんどん進めていればそれでいい。どうしても分からない時にはまとめてッ疎開先に送ってくれ。疎開先で解説を書いて送り返す。本当は俺たちが君の勉学を妨げてはいけないのだがな……。悪いな。大人たちが体たらくで迷惑をかけてしまって。許してくれ」
小さくなった声でそう言って頭を下げてくる。
「そんなことしないでください。僕らは戦争に勝ってほしいので、それまでは我慢します。勝ってしまえばまたいくらでも勉強ができますから」
そして千颯はまた、キリリとした優等生発言をするのだ。
ここは実家ではないのだから、誰が誰に何を言うのか。
疑心暗鬼な世間からは、たとえ信頼できる人であっても本心は隠しておくほうがいいと思って仮面をつけてしまう千颯なのだった。
話を終えるとまたすぐに出発してしまうそうで、バタバタと慌ただしくおばさんと言葉を交わして玄関で靴を履きゲートルを巻きなおして荷物を抱えるが、ふとこちらを振り返る。
「千颯。俺たちの部屋に今まで俺たちが使っていた教科書や参考書も全部、本や資料も残しているから勝手に入って読んでいいからな」
と、今までは入れてもらえなかった双子の部屋への入室許可がおりた。
「え、なんで?」
「いまの君にしてあげられることってそれくらいだから。書き込みがしてあるから解りやすくはなっているはずだ。走り書きだから読みにくいかもしれんがな!」
そう言って右端の頬だけを引きつらせてニッと笑う彼は、ちょっと悪戯を思い出した悪い顔にも見える。
何か良からぬことが書かれてあるのだろうか?
それとも千颯には読めないほどの悪筆なのだろうか?
どう判断すればいいのか分からなくて千颯は取り合えず頭を下げてから「ありがとうございます」と返事をした。
千颯の通う巣鴨中学の卒業生である彼らの使っていた教科書が、現役の中学生の千早が使うものと大して内容が変わっているとは考えにくいが、何故か二人とも千颯に自分たちの教科書を見せるのを嫌がっていた。
下宿が始まってすぐの時期だからまだ千颯が入学した初期に、学校において来てしまった辞書の代わりに、双子部屋に勝手に入って国語辞典を抜き取ったところで見つかり大変に叱られた経験がある。
烈火のごとく、といってもいいくらいだ。
そして出入り禁止とまでされてしまっていたのだが、今、解禁にされて戸惑う。
どんな書き込みがあるのか……俄然興味が湧いてくる。
駅まで見送ってから帰宅するなり、千颯は双子の部屋の襖をそろりと開ける。
少し動悸がするのは急いで帰ってきたからなのか、二人の秘密を暴こうとしている後ろめたさからなのか。
半身が入るくらいの隙間から部屋に入り窓際にある大きな書棚の前に立った。
下から三段を使って分厚い辞書と二冊ずつ同じ教科書がズラリと並べてある。
そこから上の段はノートなどの背表紙が並び、冊子や小説などの雑多な棚になっていく。