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なかなかの遅筆……。


「それでは僕はこれで。お大事になさってください。お邪魔しました」


千颯はお礼がしたいという今朝の救助をした女性から辞そうと腰を上げた。


「ご迷惑をおかけしました。今日の奉仕作業の邪魔をしてしまってすみません」


絶対安静とのことで布団の中で横たわったまま、彼女から何度めか分からない程の謝罪の言葉がかけられた。




道端で倒れ込んだ山﨑ユリは、もう少しで流産してしまうかもしれなかったと千颯に話した。


日頃から徒歩で動き回っていて今日も婦人会の集会に参加しようとしていたらしい。


もう少しで集会場所に到着するという手前で転倒してしまい、そのまま流産の兆候が始まり腹痛で動けなくなった。


自分が妊娠していると思わず、自覚症状もまだなかったので仕方がない。


無理はしていないと思っていたのだが、転んだ時に腹に衝撃があったのだろうとのこと。


千颯が到着してすぐに、ユリの休んでいる部屋に通されて感謝と謝罪の言葉をかけられ恐縮してしまう。


「いえ。大丈夫です。お気になさらず。学校の教師が勝手に作業はもういいから早く行った方がいいと判断したのです。だから、そんなに気に病まないでください」


丁寧な言葉遣いにこちらの方が申し訳ないような気がして千颯は慌てた。


「ありがとう。坂上さんのような方に救助されて、本当に助かりました。今朝のお礼が言いたくてもどこの誰なのか訊くことも出来なくて申し訳なく思っていたのです。そうしたら、着ていた学生服が巣鴨中学の物だとお聞きして、調べてもらえることになって。本来ならばこちらから出向いてお礼を述べるのですが、今こんな状態なのでそれも叶わず呼びつける事になってしまって心苦しく思います。本当に申し訳ありません」


「あ、あの、……それより、お加減は大丈夫なのでしょうか?」


朝の苦しみに歪み辛そうな顔しか見ていなかった千颯は、彼女の明るい表情に安心してはいるのだが、まるで別人のような雰囲気に途惑う。


「このまま静かに横になっていれば大丈夫だそうです。こちらの鈴木家の奥様がとても良い方で、面倒を見て下さることになってね。本当に有難いわ。私は大丈夫なのだけど、お腹の中の赤ん坊が良くならないと動けないのが心配でね。だからこうやってお布団の中で横にいなっている事しか出来なくて。坂上さんにも申し訳ないのですが、横になったままでお礼を申し上げることになって、ごめんなさい」


「い、いえ。もう謝らないでください。これから大事な赤ん坊を産む大事な身体なのですから、何かあったら大変だと皆さん慎重になっているのでしょう。僕は末っ子で周りに小さな子供がいる生活はしたことがないので、想像するしかできませんが、きっと僕が思うよりももっと大変なのだろうと察することはできます」


「ありがとう。皆さんが心配して対応してくれたので私は安心してここにいられるのですが、もしあのままだったとしても仕方がないと諦めもしたと思います。既に三人も子宝に恵まれているのですから、私は十分なのですよ。でも今はこのご時世ですから、授かったのならしっかりと生んでお国のために奉公できる子を育てなければと」


ニッコリと千颯に笑顔を見せる。


「……そう、ですね。僕もとにかく今はご奉仕しながらお国のために何が出来るのかを考えて日々の生活をしています」


と……千颯は答える。


本音は隠して無難な物言いをする。


本当は勉強がしたい。


戦争が終わったら……家の事業を手伝いたい。


この戦争はいつ終わるのだろう。


しかしそれを言うことはできない。


言葉に出してしまうと非国民だと疑われてしまうかもしれないのだから。


憲兵に連れていかれて制裁をくだされてしまうのが怖い。


いつだったか、下宿先の園部家への帰宅途中で憲兵に連行される人を見かけたことがあるのだ。


その人の顔は殴られたのか頬が真っ赤に腫れあがり、目が虚ろになっていた。


一人では歩けないくらいに全身を打たれたようで服が汚れたり破れたりもしていた。


その様はまるで極悪人を捕まえて悦に入っている憲兵と、処刑されるのではないかと怯える容疑者のような、とても対称的な出来事で、千颯の脳裏にずっと残っていて偉い人には逆らってはいけないと思わされるほどの衝撃だった。


それからは非国民と思われるような言動に気をつけるようになった。


考えていることを悟られないように、周りの言う事をよく聞いてその通りに行動をする、兵隊の言う事には絶対に逆らってはいけない、口答えなんて以ての外、帝国民としての正しい行いをしなければならないと。


自分の思いに蓋をして、この戦争が早く終わる事を願い、しかし、声に出すならば「勝って終わらせましょう!」などと……思ってもいない事を発言するのだ。


そんな自分が嫌になる。


しかし、大きな力に流されておかなければ生き残れないし、自ら命の危険に飛び込んで己の考えを貫く気概は持ち合わせていない、争うのが苦手な少年なのだ。


だから千颯は大人のいうことをよく聞くおとなしい学生になった。


今もユリがお国のために子供を産み育て奉公させることを信じ、いずれは子供が成長し兵隊になり戦争にいくことを当然だという顔をしているのを目の当たりにして……複雑な思いを抱いているのだが、今素直に自分の感情を表せば千颯はきっと警察に通報されて殴る蹴るの暴行を受けてしまうのだろう。


そんな自分の気持ちを隠しておかなければ生きられず、疑われないためにも、戦争を良く思っていないなんて悟られないようにしなければならない。


至る所に監視し密告や報告する人間がどこかにいて、例え親族や親友だと思い信じていても気が抜けない状態なのだ。


お互いに監視しあっているといっても過言ではない。


「お互いにお国のために頑張りましょうね」


そう言って千颯はやはりにっこりと笑って横たわるユリを励ますのだが、気持ちの奥底の感情に蓋をする。


「そうですね、頑張りましょう」


判をついたように同じことを言い返してきたユリに千颯は暇のきっかけを告げる。


「僕はさっきのサイレンで少し気になる事があるので戻る事にします」


「そう!あのサイレンは何だったのかしら。凄い物音が聞こえて驚いてしまったの。奥さんからは動かず静かに横になっていてほしいと言われて何が何だか」


どうやら彼女は空襲があったことを知らされていないらしい。


「敵の飛行機が飛来して機銃で攻撃されたんです」


事実を簡単に話した。


「え……」


「それで……僕がここにお邪魔するまで奉仕作業をしていた方向から飛んできたので、学校の友人が無事なのか心配になっ」


「それは大変! すぐに確認したほうが良いと思います! 私もッ」


千颯が話している途中で言葉を遮り、飛び起きてしまいそうなユリに千颯はビックリする。


「ちょ、ちょっと! 急に起きたりしないで!? 安静にしなければいけないのではないのですか!?」


「あ、……すみません。興奮してしまって。もう大丈夫ですから」


起きだそうとしたユリの肩を千颯が慌てて掴んで押し戻そうとしている体制のままハッと冷静になり、身体の力を抜いた。


「ふうぅ。あ、すみません!」


千颯も肩から手を離す。


「こちらこそ、ごめんなさい。……私、妊婦だったのよね。自覚しなきゃ」


苦笑いをうかべてユリは反省している。


なんだろう?この人は、案外お転婆さんなのかもしれない……などと千颯は考えてしまった。


「被害はどんな感じなのかしら。実際に空襲にあってしまうといろいろな事が中止になってしまったり、けが人がいないかの確認をしたり、壊されたものの修理が入ったりして、予定が狂ってしまうわね。……私がこんな状態になってしまっては、暫くの間の婦人会のお仕事を誰かに代わってもらわなきゃならないわ。あー、やることいっぱいあるのに」


「残念ではあるのでしょうが、でもとにかく今は安静に! 流産したら大変ですよ?」


千颯との会話に廊下から割り込んだのはこの家の主人だった。


開け放したままの障子の向こうから姿を現した鈴木和美は妻から今朝の出来事の説明を聞き終わってから様子を見に来たらしい。


「はい……申し訳ございません。ここのご主人様でしょうか? ご迷惑をおかけしてしまって重ね重ねお詫び申し上げます。とても優しい奥様に介抱してもらえて本当に助かりました。ありがとうございます。このお礼は鈴木家の皆さまとこちらの巣鴨中学の坂上学生にも必ずいたしますので、ご厄介になっている間、どうかよろしくお願いします。……それで、あの、彼にはご奉仕されていた場所まで戻らせてあげてくださいますか? 聞けば先程の襲撃の被害に遭っている可能性があるそうなのです。同級生が心配です」


横たわったままではあるがしっかりと話すユリは、千颯を気遣って退席を許そうと提案する。


「それはもちろん構いませんよ。名前は……済まない、名前を聞いていなかった?」


「そうでしたね。改めまして、坂上千颯と申します。巣鴨中学二年です」


「坂上千颯君だね。よし、覚えた。いつでもウチにおいで。このご時世だから大したことはできないが、これも何かの縁で知り合ったんだ。サイレンが止んだからといってもいつまたすぐに警報がなってもおかしくない状況にあることは変わりない。気をつけて行くんだよ? 名刺を渡しておこう。持っていても邪魔にはならないはずだ」


「は、はい。ありがとうございます。ちょうだいします」


千颯は差し出された小さな紙を丁寧に両手で受け取った。


書かれている文字は『鈴木和美 日青新聞社 社会部編集 住所 電話番号』。


「新聞社にお勤めですか? 凄い」


「そんなことはないよ。毎日軍司令部に通って戦況を聞きに行って記事にしているだけだ。最前線で戦っている兵隊が一番凄い」


「それはそうですが、僕はどんな仕事でも敬意を表します。皆さんの働きのおかげで僕らは生かされていますから」


オトナ受けする模範的な、当たり障りのない優等生な事を言う。


これは軍所属ではない一般の人向けの、千颯なりの処世術だ。


あざといともいうが、今はこれで正解。


「……どうやったら君みたいな人間が育つんだ?」


千颯の台詞に素直に感銘を受けたようだ。


「はい?」


「いや、なんでもない。それよりも、奥さまからの許可が出たのだし、同級生がいる所に早く戻ってやりなさい。被害が出ているならウチにも報告してくれ。支援が出来るようにいつでも整えておく。乗れるなら自転車を貸すよ。その方が速いだろう」


「え、乗れますが……よろしいのですか?」


「構わんさ。裏にあるから、使いなさい。案内する」


「ありがとうございます」


「では山﨑区長夫人、私たちはこれで失礼します」


「ええ、どうぞ。同級生の皆さんがご無事でありますように。お気を付けて」


「はい。奥様、ありがとうございます」


そういって、千颯と鈴木氏は二人で頭を下げて腰を上げた。

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