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「警報が解除されたので戻りましょう!」
「そうですね。ゆっくり帰りましょうか」
「和ちゃん眠っているわ。警報は煩くなかったのかしら」
「防空壕に入るよりも外で警報を聞いている方が良いだなんて変な子だよ……」
「ずっとおんぶしたままだけど大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫ですよ。それよりも寝ている子が背中にいるおかげで私も背中が暖かいです。和ちゃんのおかげだねェ」
「ふふふ」
女性たちは雑談をしながらゆっくりと歩き始め、その後を子どもたちもついていく。
まだ燃え続ける東側へと向かってどうかこれ以上燃え広がることのないようにと祈らずにはいられない。
班長さんは一人一人に戻りましょうと声をかけながら来た道を戻るため、先頭に立って歩く。
千颯は渡さんの隣を歩くことにした。
まだ千颯が生まれる前にあった関東大地震の話を聞いておきたかったのだ。
「え……。大地震の時の話が聞きたい? 君は変なことを聞きたがるんだね……」
「はぁ。すみません。……変、ですか?」
「うーん。あのときは地震がこんなに恐いもんだとは思いもしなかったよ」
そう言って、渡さんは話し始めてくれた。
「地震発生直前は、もうすぐ昼飯だ……って思ってたんだ。職場で昼飯の弁当のことばかり考えていてね。かみさんの作ってくれた弁当は握り飯でね。中に何が入ってんのかね……。梅干しだったら嬉しいなぁとか。あー、かみさんの梅干し入りの握り飯は旨いんだよ。食った時のあの酸っぱいのを思い出すとじわーっと唾を出てきてね。いや、まぁ、塩むすびでもなんでもかみさんが作ったもんなら喜んで食うんだけど。まだ結婚してすぐだったし、あたしの為に作ってくれたんだと思えば本当に幸せだったよ」
新婚時代を思い出して渡さんの目が細くなった。
「いや、まぁ、なんだ。ハハハ。……で、その時にいきなりガタガターっと来て。もう世の中がひっくり返ったような揺れがすぐにやって来て皆で飛び上がったもんだよ。職場の机の上の物も本棚の資料も書類も全部揉みくちゃになって落ちてきて、その本棚も倒れかかってくるわで、慌てて避けようとするんだが物凄く強い揺れのせいで立っていられないし足が動かせない。頭を守るのが精一杯だったよ」
思い出しながら当時の事を淡々と言葉にしていく渡さんの横で千颯は静かに聞いている。
「とにかく、揺れが収まるまでは何もできなくてひたすら頭を抱えてその場で踞っていた。やっと揺れが収まって静かになったなと思って周りを見たら何故か薄暗くてね。光が差すところまで何とか気を付けて這い出てみれば、天井が落ちていたよ……」
渡さんはそれからふぅっと一息入れた。
「あたしは運が良くて。……その落ちてきた天井は、倒れてきた棚が机に被さるように倒れ掛かり棚の上に天井と梁が落ちてきていた。棚と机の間の隙間に蹲っていたあたしに奇跡的に直撃しなかったんだよ。本当に運が良かったんだ。あたしは怪我もなかった。偶然できた隙間にはあたししかいなかった。……あっという間に瓦礫になっちまった職場から埃だらけで脱出することもできた。一緒に働いていた仲間も、あたしの後から続いて出てこられたけど、彼は足の骨を折っていたらしいよ。その時は死に物狂いだったから本人もわかっていなかったんだが、ホッとして生きていると感じて安心した途端に足が痛いと訴え始めた。埃だらけになったズボンをめくり上げたら左足がパンパンに腫れあがっててびっくりしたもんだ。慌てて応急処置で添え木を当ててしばってあげて」
「添え木? あったんですか?」
「……あったよ。瓦礫の山がそこにあるんだから、ちょうどよさそうな木材ならたくさん。……きっとあれは職場の壁の一部だったんじゃないかな。濛々と土煙が立ち込める中ではそれくらいしかできねーんだわ。……序に杖になりそうな木材を探していたらいろんな処から『助けてくれ』って声が聞こえてきたよ。自力で出てこられた人ってのはいるんだが、殆どがどこかに怪我をしていてな。頭から血を流していたり腰を擦っていたり座り込んでいたりで。助けに行きたくても行けないんだよ」
当時の記憶が鮮明に蘇ってきたのか渡さんの声は苦しくなってきたようだ。
「しばらくすると、火の手があがってきた。それもあちこちから。さっきも言ったが、地震発生時が昼飯時だからいろんな場所でメシの支度のために火を使っている時間帯だったんだよ。例えば七輪で魚を焼いていたり飯炊きでかまどを使っていたりで、そんな時に地震なんかきちまったから、火の始末なんてしている暇もなくみんな崩れ落ちてくる家の中の家具や壁や梁で押しつぶされた。今も同じで木造瓦葺ばっかりの建物なもんだからすぐに燃え移って火事になってな。……崩れ落ちた家の中で何が起きたのか分からず混乱していたり、頭を打って気を失っていたり、脱出したくても塞がって出られなかったり、体のどこかが挟まって動けなかったり。消火したくても人手が圧倒的に不足して大火災になってしまったんだよ。本当に、今夜の空襲とよく似た光景だ……」
下町の明るくなっている方を見て声が小さくなる。
「逃げようにも、どこに逃げればいいのかも分からず、逃げていく最中でもどうにかして家財道具を持ち出そうとして大荷物をまとめて背負い、まだ持てると言って両手に荷物を抱えてよろよろと歩いている人もいた。逃げ惑う人々の波に流されて、あたしは上野にいた」
それからは渡さんの話は、どうやって逃げ延びることができたのか、奇跡のような経験をしたという。
話を聞いているうちに、下町の方から歩いてくる人が現れた。
前を歩いていた班長さんたちが立ち止まって、つっかえてしまった。
疲れ果てた顔でふらふらになって歩いてくる。
まだまだ暗く朝にはならないが、千颯たちを見つけてホッとした雰囲気でその場に座り込んでしまった。
その様子を見て、話を中断した渡さんは座り込んだ人に近づき顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「……」
「えーと? あんたの名前は……。野崎美智子さんって、言うのかい?」
「……はい……」
疲れ切った目は焦点が合っていないようだ。
あごの下でしっかりと括り付けられ、脱げないように被っている防空頭巾の、縫い付けられている名札に『野崎美智子』と書かれた小さな布も、少し煤で汚れているが丁寧に書かれた文字は読み取ることが出来た。
千颯たちは、自宅近くまで戻ってきていたので、ここから一番近い竹田さんの家でその女性を保護することにした。
幼い兄弟は幼いなりに疲れ果てて動かない彼女に励まそうといろいろ話しかけている。
兄弟の母親が家を解錠して玄関を開けると、渡さんが彼女を背負って玄関に入っていく。
「さぁ、あんたたちも手を洗ってこの人にお布団を出してあげて休んでもらいましょ」
そう言って息子たちに指示を出すと、子供たちは元気に「はーい」と返事をしてバタバタと指示通りに動く。
「渡さん、ありがとうございます。あとは私たちだけでもなんとかなると思いますので」
「そうかい? じゃぁ、よろしく頼むよ」
渡さんは女性を上がり框に座らせるようにして降ろす。
彼女は背中を丸めるようにして俯いたままだ。
「それでは、今日はゆっくり休んでくださいね。しっかりと休んで疲れをとって、それからどうするのか一緒に考えましょう。いいですかい?」
心配そうに声をかけるが彼女は返事をしなかった。
「じゃあ、あたしらはこれで」
「はいご苦労様でございました」
「失礼しますよ」
渡さんは玄関を出てあいさつをすると静かに引き戸を閉めた。
「あ、ありがとうございます」
戸の向こう側から声が聞こえて「さ、中で休んでくださいね」と竹田さんたちの気遣う声まで聞こえた。
やり取りを見ていた者たちは気の毒な面持ちでため息をついてまたゆっくりと歩き始める。
それからまたそれぞれの歩幅で帰路につく。
徐々に班員の列はばらけて家族単位でまとまっていく。
千颯も奥さんと二人で並んで歩くことにした。
そのまま道なりに進めば渡さんの家や班長さんの家へとつながっている。
が、千颯たちはあぜ道へと入って畑の中を歩く。
こちら側には順に、岸家、森下家、千颯の下宿の園部家と続いて副班長さんの家もある道へと続く。
副班長の鈴木さんもこちらのあぜ道を一緒に歩いて帰宅する。
あぜ道を通り抜ければすぐに岸さんと森下さんの家に到着し、家に入ろうとしていた子供たちに鈴木さんは「ご苦労様だったね」と声をかけていく。
小さな和枝ちゃんにも「よく頑張ったね」と寝顔に向かって静かにほめていた。
「あらあら鈴木さんありがとうございます」
眠っている子にまで声をかけると思わなかったので少しびっくりしている。
「ご丁寧にありがとうございます。これからもこの子たちをどうぞよろしくお願いします」
と、たまたま来ていた岸さんのお母さんが挨拶をして別れた。
同様に森下さんの家族にも鈴木さんは労いの言葉をかけた。
園部の家の前で千颯たちにも声をかけてくれる。
副班長の仕事として、鈴木さんはこれをずっとやっていくつもりのようだ。
「鈴木さんこそお疲れ様でございました。私たちの話を聞いてくれて本当にありがとうございます」
「いやぁ、なんてことはないよ。おかげで班の皆さんとこれからのことを話すきっかけにもなったんじゃないかな。空襲警報が鳴ったらすぐに防空壕に入るのが危険になったことが分かったんだ。さっきの避難してきた人のように、まだきっと焼け出されて逃げてくる人がいるだろうし、そういう人たちを助けていかなきゃ」
今夜の空襲で何度も同じ内容を繰り返されるこの話題はいつまでも尽きることはない、衝撃的なできごとだったので、精神的に傷つき挫けそうになっている。
それでも生きていかなければならない千颯たちは、今夜は攻撃されずに残された家にたどり着き、ずっと外で北風に晒されて冷えてしまった身体を休ませるために早々に自室に入った。
荷物を降ろして布団を敷く。
しかし、いつ警報がなってもすぐに行動できるように外套だけを脱いで掛布団の上に広げてかけ、荷物は枕元に置きなおして布団に入った。
入学祝に兄から贈られた外套は、寒空の下で大いに役立った。
高価なものなので本当は衣紋掛けに丁寧に肩を合わせてつるしたい。
もしすぐに飛び出さなければならない非常事態の時には衣紋掛けから外すのも慌ててしまいそうなので、布団の上で皺が極力できないように広げて、寝返りをしないように気を付けて寝るようにした。
姉たちからのお祝いの万年筆はその外套の内ポケットに、家族写真と共に手帳に挟んで入れている。
目を閉じて、眠る。
……眠りたいのだが、なかなか眠れなかった。
ずっと、目を閉じているだけの時間が過ぎていく。




