襲えなかった話
男はふと聞き耳を立てた。誰も居ないと思っていた暗い通りに、微かな足音を聞いたからだ。さっき浴びるように飲んだぶどう酒のせいか、気が抜けすぎていた。ブンブンと頭をふると、酔は冷めずとも少しは頭が回るようになった気がした。
青白い月が、黒く染まった通りをぼんやりと照らし、脇にある吐瀉物を更にひどく見せる。月の光は古い家屋の柱や、倒れかけた門、散り散りになった窓の破片を照らす。とおり全体が不気味に歪んで見える。このあたりは、王国で特に荒れた地域で、こんな夜更けに出歩くものなんて、ロクでもない奴らだった。
とうの男も、盗人だった。盗賊の大将とも言える。少し前までは、この辺りに星の数ほどいる追い剥ぎの一人に過ぎなかった。が、悪党を集めて牛耳っていたグライゼン一家が壊滅したのを機に、一気にのし上がった。
何故グライゼン一家が消えたのかは知らないが、誰かが倉庫を燃やしたとか、住処を襲ったとか、メンバーが皆殺しにされたとか、そんな噂がしばらく流れていた。
――おれは、ついてる。きてる、きてるんだ!!
アルコールだか、興奮だかが体内を駆け巡った。沈み込んだ通りに合わない奇妙な高揚を全身で感じる。
グライゼン一家がなくなったくらいじゃ、男がここまでのし上がることなんて到底不可能だった。その後すぐに、革命があったからだ。あのときの混乱に乗じ、向かい来るチャンスに貪欲に乗り続け、ここにたどり着いた。
――おれの流れがきてる。何をやったてうまくいく!
今じゃ、ゴミクズ同然だった自分がここらを占めるリーダとなった、と男は悦に浸りながらも、目を凝らして先程の足音の主を探す。
――見つけた。
男の先に、ローブを被りこんだ一人の人間がふわふわと歩いていた。
男は、先程の酒場で部下に言われた言葉を思い返す。
――「護衛をお付けしやしょうか?」
ガツンと頭を殴られたような感覚だった。男にも自分の矜持があった。これまで一人で上手くやり、ここまでのぼりつめたという自負も。護衛なんて、舐めた口を、と殴りつけて、一人酒場からでてきたのだ。
男はじっと前の人影を見る。男は自分が森の中で獲物を狩る獣になった気がした。
――舐めんなよ。賊の業を忘れたわけじゃねぇ。
盗みであろうと追い剥ぎであろうと、男にとってそれは自身が誇る技術であった。
男は呼吸を整えて、ナイフを握ると、眼前を呑気に歩く不幸な人間に走り寄る。
さあとりかからん、とした時、ふらりと獲物がこちらを振り返った。
ぱちり、と目が合うこと数秒、獲物の顔が薄っすらと見える。きれいな顔をした青年で、透き通った瞳がこちらを何の気負いもなく見返していた。先に目をそらしたのは男の方だった。
なぜだか耐えきれなくなったのだ。
気づいた時、何を言われるか、と身構えていた。だが、男が拍子抜けするほどにあっさりと、青年はまた前を向き直し、元のようにゆっくりと歩き出した。
男は心臓が冷え込み、わけのわからない汗をダラダラと垂らす。すぐに額を伝う汗を拭い去り、心を落ち着かせる。
改めて、獲物と見定めた青年を見る。どこに自分を追い詰めるものがあるのか、と。
軽やかな足取りはこちらを警戒する様子がまるで無いものだ。深く被ったローブは、さぞ視界を悪くすることだろう。長身痩躯といえる体に、男をどうにかできそうな力があるようには到底見えない。
見れば見るほど、普通の、いや、簡単すぎる獲物だった。
――おれが酔い過ぎたんだ。
男はそう結論づけるが、先程、視線を合わせた時に酔いが吹き飛んだことにも気づいていた。男はなにかに焦らされるように、もう一度走り寄る。
――次こそっ!
だが、青年の周りに厚い壁でもあるかのように男はピタリと止まる。また青年が振り返ったのだ。ブルリと体が震える。そのまま襲いかかるわけにもいかず、グッと後ろから引っ張られるように立ち止まった。
また青年が元のように歩き出す。
何度かそれを繰り返したあと、男はついに覚悟を決め、そのまま青年に殴りかかった。ここで止まれば先程と同じだと思った。思考を止め、ただ殴りかかる。
男の覚悟の一撃は、青年にひらりと躱された。体が自然に揺れたとでも言うような気負いのない動きで、それが一層男の心を煽る。男は煽られるままに必死で殴り蹴る。自分が賊としてやってきた中で身につけてきた動きは、青年に全て平然とかわされた。
同仕様もなくなって息を乱した男は、一度大きく距離を取る。
――なんなんだよコイツ……。
青年は、また歩きだすのかと思ったが、今度はローブを脱ぎ去り、月光で輝く金の髪と、端正な顔を顕にした。
男は無意識に数歩後ずさった。
「僕に何か用?」
青年が男を見てそういった。周囲の空気に合わない柔らかな声だった。男はそんなふうに話しかけられるとは思っておらず、陸にあげられた魚のように口をパクパクとさせる。
男は自然と居住まいを正し、貴族の前にひざまずくような心地になる。男は常日頃、貴族相手にペコペコと腰を低くする奴らを心底軽蔑していたが、この青年を前にすると、自然とそうあってしまう気がした。
「……ぁ、おらあ、賊だ。おめえを……お、おそっやろうってんだ」
男が気圧されるように正直に言うと、青年は男をみて再び訊ねた。
「何の為に?」
「そりゃ……生きる、ため、だ……」
悩む。改めて訊ねられると、男は自分が何のためにこの青年を襲おうとしていたのか、てんで分からなくなってしまった。
――昔は、生きるために、しょうがなく。そうに決まって……今は?おれは、何のために……。
昔は、まともに働いていたころもあった。賊に落ちる時には、それなりに葛藤もあったが、生きるため、という言葉の前には何の意味もなかった。だが、今はどうだ?大将になって、上まできて、傲慢になってるんじゃないのか?酔の高ぶりのまま襲おうとしたんじゃないか?
それの何が悪い。おれは盗人だ。盗賊で大悪党だぞ。気に入らない、暇つぶし、気が向いた。そんだけだ。
黙り込んだ男を見て、青年がほんのりと笑う。
「襲われるのは、困るな」
青年は全く困るとは思っていなさそうな気楽な口調でそう言うと、振り向いて歩き出した。
「ついておいで」
男はわけの分からないまま、貴族に侍る使用人のように恐る恐るついて歩いた。
襲いかかることはもはやできなかったが、このまま、じゃあそんで、と言って去ることができるとも思えなかった。
しばらく歩き、男は青年が向かう先に気づく。王城だった。
正門前に着き、どうするつもりかと思う間もなく、青年は平然と正面から王城に足を踏み入れる。左右に立ち並ぶ城の警備兵をも無視し、ずんずんと進んでいく。男は顔が青くなるのを感じながら青年を盾にするように、後ろを歩く。
男は必死に頭を巡らせながら今するここから立ち去るべきではないかと考えるが、不思議と実行しようとは思えなかった。先程青年の、ついておいでと言った言葉が男を強く縛り付けるのだ。
声をかけるべきか、何かの罠か……。
ここはもう相手のテリトリーだ。入り込んでしまった自分は間抜けな笑いものだが、ここから逃げ出せるとは思えない。
ビクビクとしていると、前を歩いていた青年に話し掛けるものがいた。
「セオ、後ろの男は何だ?」
青年はセオと呼ばれ、話しかけた者は、どこか男と同じ匂いがした。王城内にしては不自然さがある雰囲気を持っている。
後ろの男というのは自分のことだろう。矢のような鋭い視線が自分を射貫き、背筋がブルリと震える。黒みがかった紫の瞳が、男よりも深い闇を持っている気がした。黒い人間。内心でそう思った。
「ああリオ、さっき会って連れてきた」
青年、セオがそう答えるとリオと呼ばれた黒い人間が、男に向ける視線の強さを和らげる。子供が拾ってきた犬猫でも見るような目で、男を見ていた。微妙な哀れみも感じられる。
「飼うのか?」
「まさか、前にリオがグライゼン?とか言う奴らを……間違って潰しただろ?その後に散らばった小者をまとめたのって彼じゃないかなって――」
「陛下!!」
その時、牛の突進もかくやという勢いで貴族らしい青年が叫びながら走りより、セオの腕をガシッと捕まえる。
――陛下……?
男は今まで多くの危ない橋をわたってきた。その中で、狙ってはいけない者というのも学んでいたはずだ。その中で真っ先に浮かぶのは、騎士だ。城下の酒場で出会った時、狙うと一番面倒になる相手だと思った。金はある。が、武器を持っていることが多く、腕が立ち、貴族が多いためメンツにこだわり、上手く逃げおおせてもしつこく追われるだろう。捕まったって、貴族相手じゃどうにもならず、どう考えたって割に合わない。
「陛下!どちらにお出かけに?」
「いや、えっと、ちょっと」
「城下へ下りる際は護衛をつけてくださいとあれほど!」
――陛下?
男の中で、狙っては面倒になる相手の一番が入れ替わろうとしていた。
――確か……革命を起こした王子は、セオドール……せ、お?
「ちょっとだけのつもりだったから……」
「ちょっとでも、……あなたもあなたです!どうしてついていかないんですか!?」
「セオはすぐに帰ると言った。こいつだって何も知らないガキじゃないんだ。自分の身ぐらい守れる。ずっとつきっきりでいるなんておかし――」
「この国の国王陛下ですよ!国王陛下なんです。陛下ももう少しご自覚を持って行動してください!あなたも、護衛になったんですからしっかりと任を果たしてください!」
「僕だって自分の身一つくらい――」
「腕の怪我があるでしょう」
「腕は使わないよ」
「……?」
「剣も何も持っていないから」
「……オレが間違っていた。今度からは護衛につく」
――こっ国王陛下ぁあッ――!?
男の中で、やばい、とか、まずい、とか、そんな意味のない後悔を伴う言葉がまわり始める。貴族らしい青年が国王陛下と言うたびに、男の心が容赦なく抉られていく。
「陛下は、このアークリシア王国の国王なんですよ。もう少し身を大事にしてください」
――ぉぉおおいいい!!国王ならそれらしくしろよ!なんであんな場所にいんだ!?なんでだよ。どこが国王だ!?国王って貴族の代表だろ!?もっと仰々してくれよぉ。
そのとおりだ。もう少し身を大事にする素振りくらい見せてくれ。切実に、そう思った。
「陛下に少しでも怪我があれんば、恐ろしく、大事になるんです」
先刻襲いかかった時に、傷を負わせたかどうか必死に思い返す。
触れてない。触れてない。
賊として、全力の攻撃を全てかわされたというのはどうなのか、と思う余裕すらなく、ひたすら安堵する。
ジリジリと後ずさると、欄干に手が当たる。男は突き出すようなベランダの上に立っており、後ろを見ると王城の外の景色が広がっていた。下は硬そうな石造りだが、追い詰められたせいか地面が近く、柔らかそうに感じられる。
「もし、誰かのせいで傷を追うことになれば、敵意がなくても、相手が罪を負うことになるんです。陛下だって、それは望まないでしょう」
敵意があればどうなるのだろうか。
――飛び降りて逃げられる……?
「もし、夜道を歩き、不埒な輩にでも出くわしたら……。陛下の代わりはいないんですよ……」
すがりつこうとする希望は大きく見えるものだ。男はいっそ安らかな気持ちで地面を見ていた。
――やらなばなん。ここにいては死ぬ。飛び降りれば死ぬ、かもしれない。飛び降りるほうがマシにちげぇねぇ……。
「でも、リオを連れ歩くと、リオがやりすぎるから……」
セオ……”こくおうへい”かがそう言った。
「襲いに来た輩を八つ裂きにして何が悪い?」
八つ裂き……っ!
先ほど襲いかかった輩であるところの男はおののいた。
「それは、私もやりすぎかと思いますが……」
「国王なんだろ。反逆罪じゃないか」
リオ、が邪悪な笑みを浮かべる。
「反逆者なら、八つ裂きでいい。いや、火炙りか、情報を持つなら、拷問……」
「でも、僕が国王だって知らないわけだから……」
「そういえば」
リオの目がこちらに向けられた。拷問……ここから落ちて頭を打って死んだほうがいいんじゃないか?……と考えていた男は、突如向けられた注目に胃から迫り上がる気持ち悪さを感じた。
「その男は結局何だ?」
賊で、夜道で国王陛下に殴りかかった。厚かましくも今、なぜか王城にいる。それが、男であった。
男はつい先程、国王に歯向かい、襲いかかった重罪人となったのだ。男のこれまでの人生がゆっくりと脳内に流れ始める。無邪気だった子供時代、優しさなんて何の意味もないと荒れていた青年時代、人の中のクズとして闇雲に生きた壮年期。そして今。逆徒だ。
――オレが何したってんだっ!
「ああ、彼は――」
セオが口を開く瞬間が、酷く遅く感じられる。
分かっていた。ちまちまと小狡く生きてきたつけがここで回ってきたんだ。気が遠くなった男がフラリと揺れた時、男が立っていた場所に強い風が吹く。
そのまま男は後ろへとひっくり返り、そのまま
――落ち、るっ……
落下する前に、セオが男の腕をしっかり掴み、体を支えた。
「大丈夫か?」
「あ、ああ」
男の中に安堵の思いが湧き上がるが、すぐに掻き消える。
男はもはや、何でここで楽に死なせてくれないんだ、と怒るべきか、今までの無礼と襲いかかったことを必死で謝るべきか、ただただ許してくれと、咽び泣くべきなのか全く分からなかった。
「彼は、僕を助けてくれたんだ」
セオが言った。男はただ呆然とする。全く予想もしない言葉だった。
実際のところ、盗賊の頭領とも言える男が常時、まるで護衛かのように張り付いていたため、セオはいつもより狙われることがなく出歩けたという意味で言っているのだが……気づかない男は、セオが自分を庇う発言だと思い込んでいた。
「それに、いろいろあって潰したグライゼン一家。あの後を上手くまとめてくれてるみたいだから、何か礼をしようと思ってさ」
男はセオを見て、感謝とともに跪くべきなんだ。としみじみと思った。
あれよあれよという間に、男は両手に抱えきれないほどの物を持たされ、城から丁重に送り出された。
「おれはな……気になって聞いたんだ。おれがお前を、陛下を襲ったことを許すのかってな……」
男は自分を慕う部下たちにその時の話を語る。
『生きるために襲ったなら、それは国王である僕の責任でもあるから』
「――ったんだよ。器のでけぇ方だよなあ」
「貴族にもそんな人がいるんすね」
「おれは国王なんざどうだってよかったが、あん人がなってよかったっておもったねっ」
男は話が一段落したところで、ぐいっと手の中の杯をあおった。男の言葉に、アジト内で賛同の声がひろがる中、夜が更けていく。
新王はあれ荒んだ地域の荒くれ者に何故か評判がいいのだが……その理由を王自身は知らない。




