灰紫色の逡巡
セオが大通りのど真ん中で兄に決闘を挑まれてから数週間後……。
あれからすぐにセオは城へ帰り、会っていない。もう会うことはないかもしれないと考えていた。
最初は金儲けの為のいいカモになると思って近づいた。
次にあったのは、エリックが偶然連れてきたとき。それで、あいつ等の面倒事に巻き込まれた。どういうわけか、見捨てるはずだった子供達を助けるために、証拠を探しにあの劇場裏に戻ることになった。オレはどうにも、セオには甘いのかもしれない。……それは、危険だ。
セオは、変わったのかとオレが聞いた時、変わりたいと答えた。それから、オレに会った時変わったのだと言った。
一瞬、おんなじだと思った。オレも、お前に会った時、変わったんだと、そう言いそうになった。慌てて口をつぐんだが、嬉しさは拭いきれなかった。オレを起点としてセオが変わったというのが、俺にとっては何故か嬉しかったらしい。
セオのことを考えながら、ソファの上を転がる。
――駄目だ、やわい。今のオレは、やわすぎる。
セオのせいだ。あいつのせいで、今のオレは、なまくら同然だ。
離れなきゃいけない。いや、もう会うことはない。あいつは、王族だ。オレとは生きる場所が違う。あいつだって、もうこんなところに来る気も起きないはずだ。建物の至る所に積もる白い埃。あちこちに転がるゴミ。ここの通りは特に酷く、奥まった場所には吐瀉物と排泄物。誰がこんな場所に好き好んでくる?それも、王子殿下が。
オレに会ったこと、走り回ったこと、言い争ったこと……すぐに忘れるだろう。覚えておく理由もないはずだ。セオはこの腐ったスラム街とは関わりのない場所に戻る。
これを機に、オレのこともすっかり忘れる。別れなんて、そんなものだ。どんなに信頼し、理解し、助け合い、愛し合ったとしても……些細なきっかけ一つで、消えてなくなる。
ソファから起き上がり、部屋の隅に置き捨ててあったダガーを手に取る。
外から足音が聞こえてくる。ここに向かってくる二つの足音だった。一つは、聞き覚えのある足音だ。軽い足音で、布みたいな安物の靴の音。
戸が小さくノックされる。
「リオー!いるかー?」
エリックの底抜けに明るい声が聞こえる。
オレは声に鋭さを込めてこたえる。それがオレの中での訪問者への対応方だった。
「誰だ?」
「エリック。入っていい?」
「駄目だ」
戸に近づき、外を伺う。エリックの横に、一人の青年が立っている。育ちの良さが滲む上品さがある物腰に、整った顔立ち、記憶の隅に引っ掛る。どこかで見たかもしれない。
その青年は、スラムにいる王子、ぐらいに場違いだった。つまりはセオぐらいに。
ただ、セオとは違い、顔にこの場所への嫌悪が見え隠れする。
「一緒にいるのは誰だ?」
「ネルバール商会の若旦那で、リベルトさん。おれの奉公先の方だよ」
胡散臭い、帰れ。そう言いかけた口が止まった。エリックの職場の一つなら、あまり邪険には出来ない。
オレがエリックと付き合っている理由は半分が、こいつが絡んでくるからで、残りの半分が、役に立つからだ。
エリックとは、オレが孤児院に入っていたときに知り合った。とはいっても、孤児院にいたのなんて、ほんの半年ばかりで、縁なんてすぐに切れると思っていた。だが、忘れた頃に、ふらりとやってきて、頼み事をする。五回に四回は頼み事、あとの一回は何か食べ物を持ってくる。
鬱陶しいと思うこともあるが、役に立つから切るに切れない。色んなところで働いていることと、陽気な性格から顔が広く、色んな情報を持っている。手先は驚くほど器用で、右手で籠を編みながら、左手で造花を作っていたのを見たことがある。
そんなエリックがオレのせいで職を失えば、寝覚めが悪いだろうと思った。
家にいれるぐらい、扉を開けて、じっと座っていればいいだけだ。なんてことはない。そう言い聞かせ、戸を開く。
「入れ」
エリックと、横の青年が続くように入ってきた。背に虫が走るような感覚がする。ダガーを背中側の鞘に入れつつ、椅子に座る。
顎で向かい側のソファを示すと、エリックとリベルトが座った。
「要件」
エリックが揚々と口を開きかけるのを遮るように言う。
リベルトが顔にお手本みたいな笑みを浮かべ、持ってきた革袋から、次々と中身を出して机に並べていく。
「まずはこれを……」
上等そうなワインが三本。乾燥させたフルーツがたっぷり入ったパンが二つ。大鍋の蓋くらいの大きさだ。後は仔牛の肉と丸々とした鳥の肉。
「これは?」
「君に少し頼み事があってね」
その報酬というわけらしい。途端に苛立ちが沸き起こる。セオに対して感じるものとは全く違う、嫌悪が交じる苛立ちだ。
――クソッ。気に入らない。
何が気に入らないかといえば、全てだった。
柔らかな物腰も、作ったような笑みも、品位が滲む仕草も。
報酬を先に提示する大店の商売慣れした感じも嫌だ。
スラムのガキだと舐められているのか、報酬が現物なのも嫌だった。これで目が眩むとでも思っているのだろうか?
自然と口調に険が宿る。
「内容」
「君と前に一緒にいた、セオドール殿下。彼につないでほしいんだ」
唐突に出てきたセオの名前に、警戒度をいっきに引き上げる。あいつに関わることなら、またロクでもないことで、オレは巻き込まれただけだろう。
「何の話だ?」
「とぼけなくてもいいだろ?エリックに聞いてるよ。君は彼と俺をつなげばいいだけだ。悪い話じゃないと思うけど」
リベルトがにこやかにそう言った。
思わずエリックを睨みかけ、自制する。ここでエリックを責めてもしょうがない。エリックはあまり分かっておらず、のほほんとした表情で、余計にオレの怒りを煽った。
「何でお前とセオをオレが引き合わせなきゃならない?この程度で……安く見られたものだな」
リベルトが持ってきたモノを見ながら嗤ってみせる。
確かにオレは、食べるものにも困り、こんなごちそうにありつくことなんて到底できない孤児だ。目の前に置かれているのは、神秘的なまでに赤いワイン、崇拝できるほどに中の詰まったパン、花のように上品な色合いの肉。
オレは心の底まで真っ黒で、薄汚く、盗みだってする。それでも、人間として最低限持ち合わせるであろう矜持と自尊心ぐらいはある。どうでもいいやつならともかく、セオを売るような真似は……
――オレは、そんなに甘いやつだったか?そこまで甘くなったのか?セオを売る。当然だ。何の問題もない。目の前に並ぶ御馳走が欲しくないわけがない。
矜持や自尊心なんて、ネズミも食わない。とっくの昔に捨てたはずのものだ。今更何を気にしてる?
相手が気に入らなくても、報酬まで断る理由はない。簡単な仕事だ。
「まあいい。セオにつないでやる」
ごまかすようにそう言うと、リベルトは気づいた様子もなく目を輝かせて笑った。
「ただ、セオは王子で、オレはただのスラムのガキだ。簡単には会えないし、会えるかもわからない。それでもいいなら、だ」
会えるかは分からない。もう会わないかもしれないんだ。
オレがいくら会いたがったとしても、セオが望まなければ会えないんだ。
そうなれば、コイツの事を伝えずにすむ。そうだ、セオはもう来ないんだ。コイツとの約束を違える訳じゃない。オレが伝えるつもりでも、会えなければ、無理だったで終わる。
言い訳がましいと思いながらも、そう考えずにはいられなかった。
「分かった。それで構わない。それじゃあこれは置いていくよ」
リベルトは持ってきた食べ物を指しながらそう言った。途端に忘れていた怒りが再熱する。
――コイツはセオにもこうやって交渉するつもりか?
セオはものに釣られるようなやつでも、コイツを見誤るようなやつでもないはずだ。
だからこれはオレの苛立ちだ。コイツが、オレと同じように、セオもこうやってもので釣れると思われるのは癪だった。
「おい」
――ダンッ
背中からダガーを抜いて机に突き刺した。
リベルトが驚きで目を見開き、怯えるように体を逸らす。
――ハッ。底の浅いやつ……。セオなら絶対にここで怯えを見せない。
「セオには、もので釣ろうとするのは止めたほうが良い。逆効果だ」
「……ッ……それは、どうすれば?」
答えたのは商人らしい意地からだろう。怯えを隠そうと必死だった。雨に濡れた仔犬のように健気だ。
「真剣に、真心から……。あいつはそう言うのが好きだからな」
オレやお前とは真反対で……。
「そうか。忠告に感謝を」
先程までの怯えを隠しきり、きれいに笑ってみせたリベルトを鋭く睨む。
「セオを、利用しようとは考えるなよ。アイツは、お前よりも人を誑かすのが随分とうまい」
「へぇ。まぁ、王子だし、そのくらいの――」
机に突き刺さったままにしていたダガーを抜いて、目の前でちらつかせて見せる。リベルトがピクリと眉を動かした。
「お前は、平民とか貴族とか王子とか……そういうふうにオレたちを見るんだな。全部ひとまとめにして、結局何も見えちゃいない」
「ん?君はスラムに住む孤児。僕は大きい商会の息子。セオドール殿下は王子。紛れもない事実だろう?」
「セオは、そんなもん気にしない。セオは、オレをオレとしてみてる」
「つまり?君は何を言いたいんだ?」
話しすぎた。これ以上、セオに関わる気はなかったはずだ。気づいたときには、自分から関わりにいっている……。セオがどうであろうと、オレには何の関係もなくて……
――駄目だ。これ以上……。そもそも、こいつはオレの言いたいことが分かるようなやつでもないし、説明してやる義理もない。
言葉を飲み込み、代わりに皮肉げに返す。
「大商会の息子が、スラムに住む薄汚いガキに、王子への橋渡しを頼む。……おかしくないか?」
「セオドール殿下には、何時でも良いから、商会に来るようにと伝えて欲しい」
リベルトが初めてオレと目を合わせた。悪意の渦巻く、そこが濁るように暗い緑の目。どうやらご不興をかったらしい。なんてことはない、オレにとっては見慣れた目だった。とびっきりの笑みで応えてやる。
リベルトとエリックが帰ったあと、しばらく休み、外が暗くなってきた頃に外へ出た。
そろそろ、仕事にいかなきゃならないからだ。
本当は、リベルトからもう少しせしめてやるつもりだった。銀貨数枚、いや、金貨数枚でも払ったかもしれない。何せ、エリックに紹介させてまでオレを頼りに来るんだ。スラム街に住む孤児を、だ。相当切羽詰まっているか、切実な願いだったか……。
だが、あそこまで喧嘩を売って金をたかるのも面倒だ。……あんなやつにたからなくとも、その分稼いでこればいいだけだ。
そんな事を考えながら歩いていた時だった。
見覚えのある背中を見つけてしまった。たしか……
――エルガー。リオの知り合いの騎士……。最悪だ……。
会わなければ、連絡できなければ良いと……思っていたのに。
オレがここで取るべき行動は一つだ。
「おい」
オレの声に、エルガーはこちらを振り向き、首をかしげる。
「誰……あ、あん時セオといたガキか。どうした?」
「セオに伝言だ。オレが会いたがっていると伝えてくれ」
「お、おう」
「それだけだ」
エルガーが戸惑ったようにこちらを見ているが、何も言わずに立ち去る。
――今日はツキがない。だが、まだセオに伝わったわけじゃない。
エルガーは王城の騎士だ。そんなエリートが、わざわざ孤児の言葉を気にするはずがない。どうせ名門の出で、平民風情の言葉なんて頭の片隅にも残らないはずだ。
そうすれば、オレはリベルトの頼みを最大限努力し、成し遂げようとしたが、無理だったということにできる。
セオは何も知らず、オレは役目をこなし、リベルトは残念なことに、願いが叶えられない。完璧だろう。
ふと、頭に不安がよぎる。
エルガーは見た目のだらしなさとは裏腹に、かなりの剣の腕だと、そう感じていた。いつもダルそうに立っているがその体幹はしっかりとしている。ふとした瞬間に見せる足の動きが、剣を振るときの足捌きを思わせた。
あれを見ると、だらしないというより、生真面目というのがしっくりとくる。エルガーの動きは、騎士の型を正確になぞっており、かなりの修練を感じさせるからだ。
その真面目さから、オレの言葉をセオに伝達される危惧を抱いた。が、伝えてしまったことはどうしようもない。不真面目であることを願う他ないなとため息をつく。




