茶褐色の追想−A
エリーシアとの話を終え、家に変える。扉を開けると、月明かりのない部屋が闇の中のようだった。
持っていた剣を立てかけ、服を着替え、ベッドに飛び込む。
何もできていない、その事実が肩にのしかかり、随分と疲れた。
まだ初夏の爽やかな気候で、夜はひんやりと心地がいい。だが、どうにも寝苦しく、なかなか寝つけなかった。
ベッドの上で、とりとめのない事が浮かんでは消えていく。
懐かしい記憶が浮かぶ。セオの父、今のとは違う陛下に仕えていた時のことを思い出した。
陛下と部屋に戻ってきた。先のセルビアン峠の崖崩れについて、御前会議を行っていたのだ。
『セルビアン峠の道はあの辺りの主要交易路ですから、通れないとなると王都への流通も……』
『その通りです。しかし、今回、陛下のアティードによる予知のお陰で被害は最小にとどまりました。事前の封鎖により、商人たちの積み荷も無事です』
『それだけではないのです!陛下の指事により、近くの町に作業員を配置しておりますれば』
『おお!復旧の日処も立つと』
『流石は陛下です。これなら、流通もしばしの我慢ですみますな』
大臣たちの陽気な笑い声をよそに、陛下はぼんやりと宙を見つめていた。
私は部屋に入ってすぐ、紅茶を用意する。陛下は侍女すら自室に入れない。何故か入っていいと言われているのは私だけだ。
陛下は身の回りのことを何でも自分でやる人だ、着替えも湯あみも、一人でするし、剣を研ぐのも紅茶を淹れるのも自分でやる。
ただ、紅茶くらいは、と私が無理を言って淹れている。前に何故、何でも自分でやるのかときいたところ……
『そんなことはない』
『そうでしょうか?』
『食事は料理長のつくったものだと』
『それは、そうですね……どうして……』
このときの私はおかしかった。きっとおかしな陛下に仕えていたせいだろう。王族に食事を作らない理由をきくなんて!
陸下は変わらない無表情で素っ気なく言う。
『料理はとんでもなく下手なんだ』
この何でもできる御人に苦手なことがあったという驚きで声がでなかった。私が返答に困っているのを見て、陛下が口元を緩めた。からかわれていたのかもしれない。
そんな陸下でも、私に頼むことがある。チェスの相手だ。
陸下曰く、
『チェスを一人でやる者には、チェスの喜びがない』
『陛下にとってチェスの喜びというのは?』
私がチェスの駒をを動かしながらきいた。
陛下が、勝ち筋が見えず、すっかり困り果てた私を見ながら応える。
『エルガーの顔を見ることだ。つまり、お前の悩み顔と困り顔だ』
陸下が長い足を組み変えながら、クスクスと笑った、私 は陛下とのチェスで、いつもボロボロに負けて勝ったことがない。分かりきった勝負にも関らず、チェスの時、よく笑った。何でも、私が真剣に悩むのが好きなのだとか。陸下が私のキングを倒し、かわいた木の音がした。
『偶には、私以外の方を相手にされては?』
『誰を?』
『セオドール殿下はどうでしょうか?』
陛下は薄く笑った。
『あの子は、私に似ている』
『……?そうですね?』
陛下と殿下はよく似ていた。セオドシール殿下の艷やかな金色の髪も、幼いながらも聡明さと力強さを宿す、光を受けた葉のような緑の瞳は、陸 下とそっくりだった。品の良い端成な顔立ちも、陸下の幼い頃と瓜二つだとか。だか、セオドール殿下は表情がせわしなく変わるのに対し、陸下は常にひんやりとした冷たさを感じさせる無表情だ。
ただ、城にいる者たちにあまり知られていないが、自室ではよく笑い、冗談も言う。人のことをからかって遊ぶし、偶に脈絡のないことを口にする。セオドール殿下に対しては特に顕著に感情を見せる。頬を緩め、やわらかく笑い、瞳にはあふれんばかりの愛しさを宿す。
二人が並ぶと、そのそっくりさも相まって、どこかの宗教画のような神聖さを感じさせた。
陛下の文脈に合わない言葉に、そんなことを考えていると、陛下が私を見た。
『分からないか?セオドールも私と同じで、他人が悩む姿を楽しむ性だ。だから、セオドールとチェスをすれば、私ししか楽しめない』
『なるほど……私は楽しめなくてもいいということでしょうか?』
少しいじけたようにたずねて見せると、陛下は素知らぬ顔をし、手のひらでコインをクルクルと回した。
私は、この人に対し少し甘いのだろう。いつだってすぐに許してしまう。いや、起こるフリやいじけるフリだけで、実際に不快になったことなんてなかった。陛下もそれを分かっているのだろう。
たまには、少しくらい動揺させてやりたい。少しでも慌てる顔が見たい。そう思い立って、ちょっとしたいたずら心から怒ったように机に手をついて立ち上がる。
机を叩く音が、部屋の中に大きく響いた。
思っていたよりも大きな音が出た。気まずくなり、そのまま後ろを向いたとき、いつのまにか立ち上がっていた陛下に腕を掴まれる。そのまま、陛下の手が、するりと私の手をとった。
『すまない、からかいすぎた』
そう言いながら、陛下が私の前に膝をついた、突然のことに私は目を白黒させる。
『あ、の……』
陛下が姫君にするように頭を下げ、私の手を口元に近づける。
『許してくれ、エルガー。お前が相手をしてくれなければ、私はどうにかなってしまう』
ほのかに色香のただよう声が耳朶を打つ。睦言のような言葉に、途端に顔が熱くなった。
『き、急に何を……』
『エルガー、お前がいつも私の護衛をしてくれて、すごく感謝している。私のくだらないチェスの相手もだ』
突然の感謝の言葉に、胸が熱くなる。恥ずかしさからか、全身が燃えるように熱い。
『それでも、私を置いていってしまうのか?』
『そんなはずがないです。私もあなたと過ごす時間は、とても楽しくて、その、村にいた頃では想像できないほどに、満たされていて、』
動揺から、胸の内にある想いをうっかり口にしてしまう。
『ちが、これは、その……あの、て、はなし……』
『お前をついついからかってしまう私の心を許してくれるか?』
顔を上げた陛下が、膝をついたまま切なげに瞳を伏せた。
『からかう……』
『許すと言ってくれ。そうでないと、この手を離せないだろう』
陛下の吐息が、微かに手にかかった。
『〜〜っ、ゆ、許しますから。手を、離してください』
陛下が突然、口元に手を当てクツクツと笑う。
『楽しく、満たされている……か』
――しまった。まんまと引っかかった……からかわれていたみたいだ……。
『……陛下』
起こった声で陛下を呼ぶと、陛下が澄ました顔で言った。
『許してくれるんだろう?』




