1−5
助けなくてもいいんじゃないか。助けないほうがいいんじゃないか。
――と、ほんの一瞬だけ迷った。
けれど、やっぱり、助けたい。
なにかはっきりとした理由があったわけじゃない。でも、少年の憎たらしい言葉と皮肉げな表情、快活な笑みを思い出すと、なんとなくこのまま放って置く気にはなれなかった。
周りには僕らの他に誰もいない。
助けを呼びに行く?でも、その間に少年がやられちゃうかもしれない。それに、ここがどこだかもよくわからない。助けたい。助けないと。早く。早くしないと。
焦りでよくわからなくなってくる。とにかく止めないと。そう思って少年と男のところに向かって歩く。
体も指先も、いつの間にか冷え切っている。
――急にすごく寒くなってきた。
男はすぐにこちらに気づき、鬱陶しそうな顔をする。
「何だお前、あっち行ってろ」
男の視線が睨むようにこちらを見る。
王城内でも、冷たい視線や、軽蔑するような視線を感じることはあった。でも、こんなにあからさまに、誰かから怒りや敵意に満ちた目を向けられることはなかった。慣れない種類の視線に、思わず体が硬直する。
出かける前、ウィルに
――決して、危険なことはなさらないように。
と言われていたことを思い出し、心の中で謝っておく。
ごめんねウィル。僕もこんなことになるとは思わなかったんだ。
手を強く握りしめる。
「その人のこと、離してあげてほしいんだ」
「はぁ?」
慎重にそういった僕に、男は心底驚いたとばかりの声を上げる。
「なにいってんだ?お前も殴られてぇのか?」
ビクリと肩が震えるけど、声まで震えないように精一杯の声を出す。
「その人、僕の友達なんだ、だから――」
男は僕の言葉の途中でフンッと鼻で笑うと、少年をゴミのように投げ捨てる。
「――ウッ」
うめき声を上げる少年に見向きもせず、男が僕の方を見る。
「大して金のないガキがうじゃうじゃきやがって」
そう吐き捨て苛立ったように僕の方へ近づいてくる。そして驚いたように肩眉を上げ、ニヤニヤと笑う。
「いや、お前……昼に金持ってたガキじゃねぇか」
やばい、そう思って背を向けるも後ろから抱えるように捕らえられた。背後から感じる気配が怖くて体がこわばる。
「まだ持ってんだろ。金出せよ」
どうにもできず、あたりを見回す。目の前に転がっている少年は、薄目を開けて痛そうに体をよじりながらこちらを見ている。
「おい、聞いてんのか、ガキ!」
黙り込んでいる僕に男が焦れたように低い声を出す。僕は色々考えるけどどうにもなりそうになくて、顔を伏せた。身を捩るが、びくともしない。口から、不規則な荒い息が漏れる。
――ああ、だめだ。僕がもっと、強かったら。力さえ、もっていれば。
その時だった。急に少年が大声を出す。
「――上ッ!」
僕は思わずその声に反応し、バッと顔を上に向ける。
その瞬間、短く鈍い音が頭に響いた。続いて頭に激痛が走る。
「――イタ!」
「――ウッ」
僕の声と男の呻きが重なり、僕を捕まえていた男の力が緩まる。
何がどうなったのか分からずポカンとしている僕をよそに、少年が顎を押さえる男に駆け寄ると、男の腹を勢いよく踏みつける。小さくうめき声を上げた男をほおって、少年が勢いよく僕の手を引っ張った。
「行くぞ!走れ!」
言われるままに、必死で足を動かす。
どうやら、僕が少年の言葉で急に上を向いたから、僕の頭と男の顎が激突したみたいだ。とにかく少年に引かれるままに走った。
必死で走る。張り裂けそうなぐらい心臓がバクバク動いてる。今、男から逃げるために走っている。そう気づくと、後ろを向けば男が迫ってきてるんじゃないかと思った。いや、前からいきなり飛び出てくるかもしれない。喉からヒューヒューと乾いた音が漏れる。
僕のカタカタと揺れる手をつかんだ少年の手の力が強くなった。熱を灯すようにぎゅっと握られた手に、感覚が戻っていく。
――どれだけ走ったのか。少年がしだいに速度を落とし始める。周りはさっきみたいに真っ暗な場所じゃなく、明かりの漏れる家々が立ち並んだところだった。
僕達は肩を上下しながら、立ち止まらず歩き続けた。体中の力がスッと抜けていくのがわかった。
「フッ、ハハハ」
落ち着いてきて気が抜けたからか、笑いがこみ上げてくる。なんだかぎこちない笑いになったけど、そんな僕を見た少年も吹き出すように笑った。
「ッブ、ハハ」
顔を見合わせると、僕も少年も笑っていた。動くのも億劫なほど疲れたからだとは裏腹に、気分はふわふわと軽かった。
「あんた、やっぱりバカだ」
そう言った少年は、見下すわけでも嘲るわけでもなく、困ったように笑っていた。少年の頬は赤く上気している。
「分かってるのか?オレは、アンタの金、とったんだぞ」
「やっぱり、そうなのか」
あの男のせいでそんなこと忘れていたけど、少年にはっきりとそう言われると、ちょっとだけ落胆した。少年が今あのお金の入った僕のポシェットを持ってなかったから、もしかしたら僕の勘違いなのかもしれないと、少しだけ期待していた。
「どうして……?」
「どうして、って……金が、必要だからだ。それ以外、ないだろ」
「そうだよね」
どことなくしんみりとした空気が漂う。
僕は王子で、お金が必要なときなんてほとんどない。だから、少年は僕よりずっと必要で仕方なかったのかもしれない。もしかしたら、さっきの男だってそうかも知れない。僕からお金をとろうとしていたし。
それなら良いような、でも、だめな気もするし、なんだかわからなくなってくる。
どう答えたら良いのか迷いながら少年の方を見ると、少年も視線をウロウロさせながらこちらを見ていた。それは、皮肉げな様子がすっかりなくなっていて、迷うような視線で、それを見たらどうでもよくなってきた。
「まあ、いいや。僕、さっき君に助けられたし」
「さっきって?」
少年はそっけなく聞き返すけど、僕は助けられたと思ってる。
「僕があの男に捕まったとき」
あのとき、僕から離れたところにいた少年は、僕をおいて逃げることだってできたはずだった。でも、今一緒にいる。一緒に逃げてきた。
「オレだって、あんたに、助けられた。あんたは、あのまま物陰に隠れていれば、あんな目に、あうことは、なかっただろ。本当に、バカだ」
「だって、君のこと助けたかったから。しょうがないだろ」
そう言うと少年は下を向いて、小さな声でなにかを言う。
「バカだ。本気で、どうしようもない」
それから、少年がしばらく黙り込み、独り言みたいにボソリと呟いた。
「リオ」
「え?」
「オレの名前」
僕の方を見て軽く笑った。
「あんたは?」
「セ、セオ」
とっさにそう答えると、満足したようにリオが笑った。そして、首元からサッと十字架を取り出した。上の部分がかけていて、皮のような素材でできた紐がついていた。
神様なんてこれっぽっちも信じてなさそうな少年にはあまりにも不釣り合いだと、あっけにとられていると、押し付けるように渡された。
「これ、やるよ」
「え、でも」
「これがあれば、将来、セオがぶくぶく太ってもセオだってわかるからな」
そう言って皮肉げに笑う。
リオの言葉に、まさにぶくぶくと太った貴族たちを思い出し、顔をしかめる。あんなふうにはなりたくない。
「ぶくぶくは太らないけど、もらっておくよ」
僕の手の中で揺れる十字架は、鈍く銀色に輝いている。リオの体温で少しだけ温かい。嬉しくて、ちょっとだけニヤついたのが、リオにも分かったみたいだ。
「なにわらってるんだ?」
「なんでもない。それより、王城の近くまで案内してくれない?早く帰らないと怒られちゃうから」
なんでもないことなんてない。リオの言葉とこの十字架は、また会ってくれるってことだから、すごく嬉しかった。なんとなく、このままリオとの繋がりがなくなるのは嫌だった。色々会ったけど、結局、リオは良い奴、なんだと思う。多分。
王城内では、本当に気の許せる相手はほんの数人しかいない。大抵相手のご機嫌を見ながらニコニコ笑ってなくちゃいけないし、みんな僕が王子だからしょうがなく相手してるんだと思う。
でも、リオならそんなことないってわかる。それに、リオといるとドキドキすることがいっぱいで楽しい。僕はあの退屈な王城でこれからもずっと過ごさないといけない。でも、そんな中にリオがいれば一気に刺激的になる気がする。それは、すっごく楽しくなるってことだ!
こちらをまっすぐと捉えた紫の目が、美しい宝石のようにに煌めいた。
「王城か。こっからだと、少し、遠いな。へばるなよ」
そう言って走り出したリオに続いて、僕も走り出す。