1−4
西の空が、橙から青に染まっていく。
変な感じがした。名前すら知らないやつと、今まで来たこともなかった時計塔の上で、二人で並んで座っている。でも、それが不思議と落ち着く。
星が少しづつ浮き上がり、少年の顔が見えなくなってきた頃、僕は静かに言った。
「そろそろ帰るよ」
その言葉を口にした途端、幸せな夢から覚めるような重苦しさが胸の中に広がった。
「……そうか」
本当はずっとこうしていたかったけど、僕は王子で、また城に帰らなくちゃならない。
それから、どちらともなく立ち上がり、はしごを降りていく。はしごを降りるのは、あまり怖くなかった。先に降り始めた少年が受け止めてくれる気がしたからかもしれないし、なんだかすごく、静かな気持ちだったからかもしれない。
僕の足が地面についたとき、少年は背を向けると右手を軽く振る。
「じゃあな」
そう言ってあっさり去っていく。
でも、僕はここから城に帰る道を知らないので、そのまま帰られると途方に暮れることになってしまう。それで、慌てて引き止めようと少年の服を引っ張った。
その時だった、ジャラジャラ、と金属が擦れるような音がした。
その音が僕のポケットの革袋に入れられた貨幣の音だと思い、ふと手で触り、気づく。
革袋がない。
確かに少年に案内料を払い、串焼きを買ったはずだ。そのときにはあった。落としたのか、でも、音で気づくんじゃないか?
そんな事を考えながら少年の方を見たとき、パッと目があった。少年は、その目をほんの少し彷徨わせると、サッと走り出した。
「待って!」
多分少年が盗ったんだ。だから今、僕から慌てて逃げようとしてる。
そう悟った僕は、慌てて少年の後を追って走り出す。
――盗られた。盗られた。盗られた。
僕の頭の中で、そのことがグルグルと回る。
あれは僕のお金じゃない。ウィルバルトのお金だ。確かに僕は王子だ。でも完全に自由に使えるお金はそう多くない。それで、ウィルが僕に大切に使うようにと王城から出るときにくれたものだ。だから、自分のお金よりももっと盗られちゃだめな気がした。
取り返さないと!
そう思って精一杯走るけど、少年の背中はどんどん遠くなっていく。少年は風のように早く、自分の足がいつもよりずっと遅い気がする。複雑な通りを、少年を見失わないよう必死でついていくがーー
「いないっ。どこに、いったんだっ!」
曲がり角で見失ってしまった。僕は荒い呼吸を整えながら辺りを行ったり来たりしながら探した。
しばらく探しても見つかる様子はなく、僕は冷たい土の上に座り込んだ。路地から見上げた狭い空は完全に真っ黒に染まっている。段々と冷え込んできて、寒く感じる。心も体も、冷え切っていて、心細くなってくる。
お金は盗られて、逃げられた。王城への道も分からない。暗くなってきたのに。
――どうしよう。
途方に暮れて、泣きそうになってくる。目が段々と潤んでくるのがわかった。視界がぼやけ、唇を噛みしめる。
ギュウっと目を閉じていると、どこからか声が聞こえてきた。
はじめは、気のせいかと思った。でも、今度はもっと大きな声が聞こえる。
さっきまであんなに静かだったのに、怒鳴り声みたいな騒々しい声だ。こんな荒々しい声を聞くことはめったに無いから、少し怖い。
けれど、このまま座り込んでいるわけにもいかず、声がする方を探るようにゆっくりと歩き始める。
「―ま――――俺の――を盗――がって!―――ガキが!」
「――――方が、――」
近づくにつれ、会話していることが分かった。二人の人間が、なにか言い争っているようだ。
僕は、ややこしい路地をどんどん進んでいく。声もよく聞こえるようになってきた。
「な―だと!このッ!」
「おま―が、間抜け―と、――――だ」
そろりそろりと歩いていた僕は、角を曲がったところでその言い争いに出くわし、慌てて身を潜める。
壁に背を押し付け、さっきまであんなに心細かったことも忘れて聞き耳を立てる。恐怖と好奇心を半分ずつもった僕は、その姿を見ようと身を潜めながら伺い……どちらも僕の知っている人だった。
僕が、さっきまで必死に追いかけていた少年と、串焼きで僕をぼったくった男だった。
少年の姿を見て思わず飛び出しそうになったけど、そのまま様子を見る。盗られたお金も、王城への案内も大事だけれど、そんなことより今どうなってるかのほうがずっと気になったからだ。
怒り狂った男が、少年の腕を絶対に逃がさんとばかりに握りしめている。
「この野郎!この前に盗ったもん返しやがれ!」
「もう食ったから、返せないな」
少年がバカにするようにそう言い、それにカッとなった男が顔を狙い殴りかかった。だが、少年はそれを半身になりするりと躱して見せる。
「このクソ野郎ッ!」
男が、少年の怪我を負っていた腕を勢いよく引くと、乱暴にお腹を蹴る。今度は避けられず、少年の端正な顔が苦痛に歪む。僕がハラハラと見ているうちに、少年が今度は男の太い腕に殴られる。
「俺のッ!肉をッ!盗っただろ!」
男が苛立ちをぶつけるように何度も蹴り、そのたびに少年の体から鈍く、嫌な音が聞こえる。
「毎回毎回、コソコソと!」
少年の体はブラブラとし、だんだんと力が抜けていくのが分かった。
僕はその音と光景に顔をしかめる。
少年は僕からお金を取って逃げた。そして、この様子から見ると、目の前の男からもなにか盗んだようだった。それで、この男から、今、殴られたり蹴られたりしてる。
助けるか?でも、助けないといけないことはない。この少年は人のものを盗んだ。それに、僕が助けられるかもわからない。むしろ、僕が行ったって、かえって足手まといになるだけだ。