6−1
エルガーが出ていった戸を見ながら迷っていた。本当は今すぐにでも教会に乗り込んでしまいたい。けれど、エルガーの言った通り今日はもう休むべきかもしれない。
「セオ、寝ろ。疲れていれば判断も鈍る」
僕の迷いを見透かしたリオの言葉に、軽く頷いてリオの方を見ると、椅子を2つ繋げて寝転べる場所を作っていた。
「リオ、ベットで寝なよ」
笑いながらそう言うと、面倒そうに言葉がかえってきた。
「こっちで寝る。セオがベット使え」
「いいってば」
「貴族っていうのは、何枚ものシーツと羽を載せたベットでも、下に豆粒ひとつあれば寝れないものなんだろ」
リオがあくびをして椅子の上に寝転がりながらそういった。そんな話があった気がするけど……
「僕はそこまで繊細な神経は持ってないよ」
「……それもそうだな」
今日、僕は不甲斐ないところを見せて、何の役にもたてなかった。
「リオがベットの方使って寝て欲しい」
「いらん」
「リオ……」
なおも食い下がる僕に、リオが大きくため息をついてどうでも良さそうに言う。
「コインで決めたらどうだ」
「じゃあそれにしよう」
ポケットを探るが、コインが出てこない。ああ、ポケットには入れてない。
いつからかコインを投げることが減っていたんだ。悩むことが減ったのかもしれないと思ったけど、それはおかしい。僕は最近、特にリオに出会ってからは悩みっぱなしだ。じゃあなんで……と考えてすぐに気づいた。
コインなんて投げてる場合じゃなかったんだ。
僕は、父さんがよくコインを投げていたから、それを真似て些細な選択でもコインを投げていた。でも、今は自分で悩みながらも慌てて決めている。
だって、コインを投げる暇もないぐらい慌ただしく選択が迫ってくるから。いつも誰かから逃げて、全力で走ってるから。必死に頭と体を動かして、やってきた危機から逃げて、新しい危地に飛び込んでるから。
それを考えて小さく笑いながら、これはやっぱり、大人しく休んでいたほうが良いかもしれないと思った。僕は、走りすぎているし、走りすぎていることに気づいていなかった。
財布から出したコインを投げる。
「どっち?」
「裏」
落ちたコインは……表。リオはコインを見ると、渋々といった様子で移動し、無言のままベットに転がった。代わりに僕は、リオが転がっていた椅子の上に。今日の僕はつきがあるらしい。
「ベットなんて、何年ぶりか」
リオのつぶやきが聞こえてくる。
「寝心地は?」
「雲の上」
「それは良かった」
「まさか……落ち着かなくて、今にも落っこちそうだ」
リオが眠たげにそう答える。しばらくして静寂が広がった時、リオが口を開いた。
「セオ、教会のこと、また首を突っ込むつもりか?」
「うん、やっぱり気になるからね」
「だが、今の教会の勢力は強い。聖女とか言うのがいるとかって話がある」
「……それは、関係ないよ。ただ、ヨルトの栽培は、止めさせたいんだ」
「なんでだ?」
「不幸になる人がいるって、わかってることだから、かな」
「……セオは、なんで他人を救おうと思えるんだ?」
静かな声だった。
「困ってる人が、ひどい目にあっている人が目の前にいて、それを僕なら助けられるかもしれない。なら、助けるだろう」
頭がふわふわとしていた。横になって落ち着いていると、何の考えもこもっていない言葉が滑り落ちていく気がした。
「それがオレには到底理解できない。助けなくてもいい、違うか?」
「そう、かもね」
「なら、例えば、王国じゃなく、帝国に住む見知らぬ誰かならどうだ?……そいつのために、お前は奔走するのか?」
グルグルと言葉が回った。僕の頭の中で、できる限り想像してみるけど、うまく考えられない。
「そんなふうなことがなかったから……分からない」
「そうか、それは意外だな。……誰が相手でも、助けると言うんだと思っていた」
「この国の人って範疇なら、助けようと走り回ると思うよ。ただ、他国の人間にまで気を回せるかわからない」
「同じ人間だとかなんとか言うんだと思っていた」
他国の人間でも、同じ人間だ。それは分かる。
同時に、リオとエリックとともに、孤児院からいなくなった二人を探しに行ったときを思い出した。リオは、目的の二人のことを助ける代わり、他の残っていた子供たちをはっきり見捨てると言った。
「このアークリシア王国の民と、それ以外の人がいれば、僕は、この国の民を助ける」
僕も、リオのような明確な線引を持つべきだと思った。見捨てる時は、はっきり見捨てると言えなければいけないのだと。そうでなければ、本当に助けたい人を、殺してしまうんじゃないかと思った。
リオが一度黙り込む。もう寝てしまったのかと思った頃、再び声が響いた。
「お前がこの国の王子だからか?」
「分かったんだね。エルガーとの話で気づいたのか?」
さっきのエルガーとのやり取りを側で聞いていれば、流石に分かってしまうのかもしれない。
「確信はそこだが、薄々は感づいていた」
リオはその辺りに鋭い気がしていた。時々あの灰紫の瞳に、僕の心の内を見透かされているような心地になっていた。
「病弱、アティードなしの能無し、役立たず、臆病者、性根が腐ってる、穀潰しとか、死に損ないとかもあったな」
「何、それ?僕の噂話?」
「ああ」
自然に流れるにしては……陛下か兄様が流したのか?あるいは他の貴族か。
……そんなふうに考えてしまう辺り、僕が思うほど、僕に余裕がないんだろう。兄様に言われるのは、怒りを感じることはあっても、悲しいとは思わない。他の貴族にも、暗にそう言われたことは何度もあった、それでも、傷つくことはなかった。
でも、国民に、というのは、少しだけ、辛いと思った。だいぶ広まっているんだろう。もちろん、噂を放置し続け、病気を否定しなかった僕にも責任はある。それでも、胸の奥から苦しさが迫り上がってきて、喉元を塞いだ。
「そうか、僕は今そんなふうに……」
「実際、噂とは違うとこも結構あるけどな」
「え?」
「病弱って言うより、元気すぎて危険にすぐ首を突っ込む。だから臆病者じゃない。アティードは知らないが、能無しじゃない。役立たずだが、穀は潰してない。死にかけるようなことはあるかもしれないが、性根は綺麗すぎて気持ち悪いくらいだ」
「なんだよ、リオ。それ……」
リオの言葉は、そのままで真っすぐだった。褒めるような甘さも、貶すような苦さもなく、ただ僕の体の芯を強く揺らす。
「性根が腐ってないのはオレが保証する。天性のお人好しだと認めてやる」
前にそのお人好しは、身分からくる甘さだと言われたことを思い出した。リオは覚えていてそれを言ってるんだろうか。僕は本当に、そんなに綺麗なやつなんだろうか。
さっき、この国の人以外を助けるかはわからないと、そう僕に言わせたくせに、なんでそんなふうに言えるんだろうか。
「僕はそこまでお人好しじゃないよ」
「どうだろうな。お前はオレの想像がつかない程のお人好しだ。……だが、それでも、時々酷く冷酷に見える時がある」
僕の頭に、はっきりと二つのことが浮かんだ。
男の首を絞めた感覚と、目の前で燃え上がる炎。
体が固まった。言いようもない恐怖に、背後から迫られるよう、背筋に震えが走る。そう、背が震えて冷たい。冷たい?汗だ。背に汗をかき、その汗が僕の背を冷やしている。肘のあたりから、指先まで、カタカタと小刻みに揺れている。
「リオ……リオ、もしまたああなったら、僕を止めてくれ。僕を、正気に戻してくれっ……」
口から出る言葉が、涙を含んだように震えている。自分で自分の声を聞いて、途端に苛立ちを感じる。自分に怒りすら覚える。
――こんなお願いは、厚かましいだろう。僕自信の問題を他人に頼るだなんて。
そうだ、なんて図々しい。癇癪を起こす自分を止めてくれと頼んでいるようなものだ。甘ったれてる。自分に嫌気が差す。
あの時、火を起こして逃げ出した時は、錯乱していた。混乱、不安で、近くにいたリオの言葉に縋りついてしまったんだ。何も考えずに……まるで赤子だ。
「ごめん。忘れてくれ。リオに頼むようなことじゃなかった」
「何で?」
「リオには助けられてばっかりだ。これ以上なにか頼むなんて……」
「さあな、助けた覚えはない。むしろ……」
「むしろ……?」
リオは何も言葉を続けなかった。
僕はリオに助けられている。救われている。
出会った頃から、僕を引っ張っているのは、いつだってリオだった。
「助けてやる」
何を思ったのか、リオがボソリとそういった。低く、眠たげな声だった。
「え?」
「もしお前が、正気じゃなくなったら、正気に戻してやる」
スッと息が吸いやすくなった。リオの一言で、自分がこんなに楽になれることが、不思議だと思った。
「セオ、お前が狂乱すれば、オレはお前が何か間違いを起こす前に……手を下す」
暗闇に、手を下すという言葉が、強く響いた。
「リオ、手を下すというのは、どういう意味なんだ?」
「リオ?……寝たのか?」
どうやら寝てしまったらしい。
不安は大きかった。自分のこと。これからのこと。教会のこと。
でも、それ以上に大きな安堵に包まれていた。
僕はリオについて、驚くほど何も知らない。今までどうやって暮らしてきたのか。僕と最初にあって、再開するまでの間に何があったのか。これから何をするつもりなのか。家族、友人、恋人、仕事、好きなもの、嫌いなもの、思考、想い……。何も知らないのに、これ以上無いほど信用している。多分、今まであった誰よりも信用している。不思議とそれも、当然のことのように思えた。
まぶたが自然と落ちてくる。リオの吐息がかすかに聞こえ、途端に眠くなってきた。
今日はよく眠れそうだと思った。




