5−3
走った。息が苦しくなって、呼吸ができなくなればいいと思った。ぐちゃぐちゃになってしまいたかった。なにか、自分の中の暗い部分に出会ってしまったような、それに飲み込まれそうになった気がした。
前で僕の手を引いて走っていたリオが手を離し、ゆっくり歩き出しす。
僕は逆に、一歩も歩けなくなってしまう。足を前に動かすだけなのに、それがひどく辛いことのように思えた。足を見下ろすと、膝のあたりが小刻みに震えていた。手をかさねて抑えるが、更に酷くなった気がした。
うつむいたまま、呼吸をすることに集中する。
リオの顔を見るのが怖かった。呆れているだろう。違う、見下すように笑っている。めんどくさそうに眺めている。忌々しそうに見下ろしている。
分からない……どうしても頭があげられない。
”やっぱり――”
失望、呆れ、そういうものがこもった声でそう言われるかもしれない。何がやっぱりなのかわからない。でも、そんなふうに言われるんじゃないかと思った。
僕はなんで、こうなんだ。なんで、こんなに、弱いままなんだ。
リオが振り向く気配を感じた。そのままこちらに向かってくる。
不甲斐ない。しっかりしろと、殴られると思った。
身分のせいだ。お前は甘い。無能だと、そう言われても言い返すことなんてできないと思った。
だけど、予想していたような言動はなく、ふわりと包まれる。
棒立ちなった僕の背中に、腕が回された。リオの肩口辺りに、顔が押し付けられ、リオの顔は見えなかった。回された腕が、僕を支えるように添えられる。
「セオ。大丈夫だ」
その声を聞き、硬直していた体が、段々と溶けていく。
柔らかな響きだった。冬の寒い日、暖かな毛布で顔まですっぽりと包むような柔らかさだった。
「オレが、火をつけろと言った。お前がなにかしたわけじゃない」
リオの言葉が僕の耳をくすぐる。リオは、全部リオのせいにしてしまえば良い、そう言っているんだ。魅力的な言葉だった。
でも、僕は自分の意志で火をつけて、それで、……あれは、悦びだった。燃やすことに躊躇いを持てなかった。
「リオ、僕は楽しんでいたんだ。あれを」
くぐもった声でそう答える。
「楽しんで悪いことはない」
「そうじゃないんだ。怖いんだよ。僕が僕じゃないみたいだった」
そうだ、それが怖いんだ。自分が曖昧で、自分で無いみたいな考え方をする。
劇場の裏で男の首を絞めたあのときと同じだ。
「僕は、あんなことをするやつだったんだ……」
男の首を絞め、静かにカウントしていた。倉庫が燃えるのを眺め、邪魔なモノを一掃できると考えていた。
「セオ、お前は今正気なのか?」
「……リオ?」
リオの胸の鼓動が、聞こえる。トク、トク、と小さく響いている。
「答えてくれ。今が正気か、あれが正気か」
「今が正気」
そう答えると、リオがふっと軽く息を吐くように笑った。
「なら、大丈夫だろう。オレがお前を正気に戻す」
リオに言われて初めて気がついた。劇場の裏で男の首を絞めたときも、さっきの倉庫を燃やしていたときも、僕はリオに呼ばれて正気に戻った。名前を呼ばれ、その瞬間きっかり元の諸々の感情が戻ってくるんだ。
「……頼むよ」
懇願の色がこもりすぎた気がした。
「ああ」
リオがそっと僕から離れ、こもりすぎた色を打ち消すように鷹揚に頷いた。
「おい、ちょっといいか」
路地で話し込んでいた僕らに、背後から声がかかった。
僕はサッとフードをかぶりこみ、リオは素早く体を構える。
「さっきこの近くで放火があったんだが、なにか知ってるか?」
しなやかな体つきの男で、腰に剣を携えていた。
「あんたは?」
リオが低く問いかける。
「近衛騎士のエルガー・ランザルだ。近くの店で飲んでたら、犯人を捕まえろだとかなんとか言ってかり出されたんだよ」
肩が揺れてしまったかもしれない。
エルガー・ランザル。僕に剣を教えてくれた近衛騎団の団長……。
――バレるか……?
今はローブを羽織り全身が見えないし、顔もフードを深く被っている。それに、僕がこんなところにいるとは到底考えてないはずだ。
「火はどうなりましたか?」
あの火がどうなったか。それは、今エルガーに正体がバレるかどうかよりも、僕が気になっていたことだ。
「ん?……幸い大きくなっていなかったから、すぐに消し止められるだろう」
そう言いながら、エルガーが僕に近づいてくる。その進路を遮るように、リオが僕の前に出た。
「オレ達は何も知らない。行くぞ……セオ」
慌てて背を向けて去ろうとした時、僕の手首がパシッと掴まれた。
「待て。話はまだ――」
思わず振り向き、顔を上げてしまう。エルガーの瞳が大きく開いた。
――まずい……!顔を見られて……
顔を隠そうとしたときには、その視線は僕の顔をしっかり捉えていた。
「セオ。お前、セオか?っはぁ?セオドール……」
「うん……」
エルガーのマジマジとした視線を気まずげに受け止める。
「うん?じゃあお前が火、つけたってこと、なのか……?というかお前、なんでこんなとこに……」
混乱するエルガーにどこからどう説明したものかと思案していると、リオが僕に鋭く耳打ちする。
「今のうちに逃げるぞ」
エルガーは放火犯を捕まえようとしていて、僕はその放火犯。
リオの言葉に我に帰る。
逃げようとした時、向かいから更に衛兵らしき男たちが数人やってくる。
「おい、そいつらだ!さっき逃げてったやつだ!」
心臓が早鐘を打ち、周囲の音がにわかに遠くなった。緊張と焦りで、血の気が引いているのがわかった。
――どうする。僕のせいだ。リオだけでも……!
エルガーが僕を引っ張り、ぐいっと衛兵たちが来たのとは逆方向に僕を押し出した。
「セオ!走れ、まっすぐ。そんで3つ目の角を右に行け、いいな!?」
エルガーのはっきりとした声が、混乱しきった僕の頭に叩きつけるように入ってくる。
勢いに押されるままコクコクと頷き、リオの手を引いて走り出す。この状況では、言われた通りここを通るしか無い。
足を動かしながら、路地の角を数える。エルガーの言葉通りに、角を曲がったところで、後ろから声がかかる。
「一旦歩いてついてこい」
エルガーが僕らの前に出て、僕は息を整えながらその後に続く。
リオが僕のことを問いかけるように見ていた。エルガーが信用できるのか?と。
どこに向かっているのかは分からないけれど、エルガーはここで僕らをハメるようなことはしないだろう。他の近衛騎士や衛兵、騎士団の連中なら疑っていた。でも、エルガーだけは信用できる。それは、陛下の息がかかっていないと確信しているし、幼く病弱だと言われていた僕に、稽古をつけてくれたからだ。
エルガーは父さんが生きていた頃も近衛騎士で、僕の面倒を見てくれていた。父さんが死んだ後も、城で孤立した僕の様子を度々伺いに来てくれていた。
リオに視線を合わせ頷き、エルガーにそのままついていく。
「俺の家だ。とりあえず入れ」
ついたのは一軒の家だった。大通りにも近く、しっかりとした造りになっている。
僕はエルガーに続いて入り、リオは僕を見て嫌々と言った様子で中にはいった。玄関の扉が閉められる。それと同時に、僕は胸の中に溜まっていた空気を吐き出す。ようやく落ち着いてきた気がした。
「で、だ」
エルガーが僕とリオを軽く睨んで、呆れたようにため息をつく。
「セオ、お前がどういう理由で、こんなとこにいて、そこのあぶなそうな小僧と一緒に動き、火遊びをしていたのか俺は知らんが……」
エルガーが僕の頭にすごい勢いで拳骨を食らわせた。
「……ッイタ」
「アホ」
……主人公にサイコパス適性を感じる、あと放火魔になっちゃった……主人公なのにぃ……。どうしてこうなった……??




