5−2
走り逃げていた僕の視界から、パッとリオが消えた。
「リオ?」
「上」
リオの声に上を見ると、そばにある宿屋のニ階の部屋のベランダがあった。リオはどうやってかそこに素早く移動したらしい。僕に向けて上からリオの手が差し出される。
それを飛びつくようにとり、引き上げられた時、どこか懐かしさを感じた。
それは、リオと最初に出会った時、塔を登って、登り終えたときに引き上げられた感覚だと気づいた。いや、登っている途中に、落ちそうになった僕を支えた手だったかもしれない。
不意に郷愁を感じる。僕は王城で生まれ育った。帰りたい故郷などない。
それでも、確かにこれは胸がグッと抑えられる懐かしさで、郷愁だと思った。同時に、過去と現在を重ね合わせた独特の酸っぱさを感じる。
けれど、そんな感覚は一瞬だ。ベランダに体を押し上げるときにはなくなっていた。全く跡形もなく消え去っている。
リオと二人で下を覗き込むと、男は三人で右往左往していると思ったら、バラバラに分かれて僕らを探し始めた。
「これからどうするつもり?」
僕がそう言いながらリオをうかがうと、リオが悩むように言う。
「奴らの住処を荒らしに……先に一人捕まえて、情報を吐かせるか……?」
リオはこういうことに積極的に介入したがらないと思っていた僕は思わず憮然とした表情になる。
「リオ。酔ってる?」
リオが僕を少し睨む。
考えてみれば、リオはなんだかんだ首を突っ込みに言っているようにも見える。
「オレに構えない程度に向こうをかき乱しておこうと思っただけだ」
「住処は分かるの?」
「ああ、目星はついてる」
リオがそう応えながらするすると下へ降りていく。スムーズな動きに目を惹かれながら、僕も下に降りる。
「来るか?」
「もちろん」
僕は、少しの怯えと興味に正義感、そして大きな興奮とともに頷いた。
リオについて歩き、たどり着いたのは大きな木造の建物だった。周囲の建物とは少し離れた場所に立っていて、普通の家とは違った造りになっている。
「ここって……?」
建物を眺めながら、リオにきく。
「倉庫だ。元は商家の倉庫だったのを、その商家が没落してグライゼン一家がそのまま使っている」
「ここが住処?」
「いいや、倉庫だっていってるだろ」
てっきりアジトに乗り込むのだと思っていた僕が疑問に思っていると、リオが察したように淡々と説明しする。
「別にグライゼン一家を潰そうってわけじゃない。潰せば、あぶれた荒くれ者が何の統率もなく暴れだす。それなら倉庫を潰すような嫌がらせがちょうどいい。」
リオはどんどん進み倉庫の前まで来ると、なにか取り出して、僕の手にそれを押し付けた。
「ほくちだ。オレが火をつけるから、引火して回れ。いいな?」
頷くと、リオが満足げに笑って、灰紫の瞳を煌めかせた。僕の目もきっと、同じような輝きを宿してるんだろうと思いながらほくちをほぐす。
カツカツと手際よく火をつけたリオがこちらに火を移した。僕は、こんなふうに炎を手の中に持つことなんてめったにないから、思わず見惚れてしまう。
「おい……」
呆れるようなリオの声に我に返り、誤魔化すように笑いながら、近くの倉庫に走り寄る。入口は当然のように開かない。軽く息を吐きだして、肘を押し付けるように、体ごと倉庫にぶつかりにいく。木製で年季の入った倉庫は、それだけで悲鳴をあげて軋んだ。
「……よし」
狂った牛みたいに何度も繰り返すと、壁に穴が空きはじめ、そこに身を捩り入れる。
中に置かれていたのは大量の酒樽だった。投げ入れた火が、樽を燃やし、仲の液体に触れると、一層良く燃え上がった。
「蒸留酒かな、あたりだ」
僕はそれから、他の倉庫にも火をつけて回った。
――燃える。燃える。
こんなもの、全て燃えてしまえば良い。必要ない。グライゼン一家……ここから、消し去ってやれば良い。秩序を持たない荒くれ者なんて、烏合の衆だ。アリを踏みつけるように、いとも簡単に潰して回れるだろう。
――後何個倉庫は残ってる?
心が先走るように浮き立っていた。燃え上がる炎と焼け落ちる倉庫が、僕の心を余計に煽った。
――もっと燃やして……まだ、
「……セオ、……セオッ!」
リオの声が僕を引き戻す。
「もういい。十分だ」
「でも……!」
「長居しすぎだ」
言葉の意味を理解して揺らいでいた心が、一瞬のうちに、元の場所にカチリと収まった。頭の中から酔っ払ったみたいな赤い炎が消えた。
リオは男を1人引きずってきていた。さっき僕らを追いかけていた3人の男のうちの1人だ。
「情報を聞き出していた。撤収するぞ」
その時だ、衛兵がこちらに向かってくるのが見えた。
パッと何気なく背後を見ると、いつの間にか火は煙をボウボウと上げ、空を焼くように高く上がっていた。炎が怪物みたいにゆらゆらと大きく揺れる。体がビクリと震えた。胸が詰まり苦しくなる。
――これを、僕がやった。僕が火をつけた。それが、あの火種が、僕は……
リオが衛兵に軽く舌打ちする。
「逃げるぞ」
「リオ、僕……」
衛兵がどんどん向かってきて、リオの瞳が僕を真っ直ぐに射抜いて……
思わず顔を抑えると、うめき声が出る。
「う……ぁ」
――こわい。こわい。いやだ。
まるで幼い子供のような言葉が浮かぶ。身体じゅうの熱が引いて、鋭利なナイフを首元に当てられる感覚がする。恐れていた。怖かった。自分の行動も、考えも、全部が。
リオがふと柔らかく笑った。優しい笑みだった。甘い笑みじゃない。厳しさと労りを平等に宿すような笑みだ。
「いくぞ」
手を取られ、引っ張られるように走った。