灰紫色の懐古
初めて会ったのがいつだったかは思い出せない。ただ、ひどく寒い冬を越したばかりだったことは覚えている。
初めてみたときは、いいカモになると思っていた。明らかに慣れていない貴族かいいとこのお坊ちゃんで、1人で貧民街に迷い込んでいたところだった。罠にかかったウサギも同然で、後は適当に絞めるだけだ。
その時は丁度金が必要だった。
ことの始めは、オレがここの一帯をシマにしてるグライゼン一家の下っ端に喧嘩を売られたことだった。オレもやり返して、ボコボコにしたところまではいつも通りだった。だが、そいつらが孤児院の方にまで手を出してきたのが誤算だった。オレと孤児院に繋がりがあることをどこからか嗅ぎつけてきたらしい。
そこで無駄に抵抗したやつがいた。それがエリックだ。
案の定袋叩きにあったエリックは、身体じゅうに怪我をして高熱を出し寝込んだ。
いつもならエリックが怪我したって、大して気にすることでもなかった。ただ、そのときに限っていえば、その怪我は完全にオレの手落ちからくるものだ。
医者に連れて行ったが、孤児だからかロクに相手にされず、大金をふっかけられた。
カモは思っていたよりも疲れるやつだった。
オレのことを見て怯えるように萎縮しているかと思えば、目を輝かせて周囲を見回し、どうでもいいことをオレに尋ね続ける。
面倒になりながらもどうやって金を掠め取ってやろうかと考えていると、今度は串焼きの屋台にフラフラとよっていく。
ひとまず所持金がどのぐらいか確認してやろうとついていこうとしたが、そこの店主がマズイ。
オレがいつも肉を盗っている相手だった。
腹が減った時にこっそりと、まれにからかい混じりで目の前で掻っ攫ってやる。常時なら間抜けヅラと怒り顔が最高の店主だが、今は鬱陶しさしかない。
今狙ってるのはあのカモの財布で、銅貨2枚程度の串焼きじゃない。その上オレは、先のやり合いで利き手に怪我を負っている。
少し離れた建物の陰で身を潜めながら見ていると、やり取りが終わったらしくこちらに向かってくる。屋台の男の方は、こちらにまるで気づく様子もなく、手のひらを見ながらうつむいていた。
あそこの店主はこの辺の子供を総じて見下している。金を持っていないうえ、オレみたいなのがいるからだ。
おそらくこのカモもまともに売ってもらえないだろうと思っていたが、オレの予想とは裏腹に、串焼きを2本持って嬉しそうに笑っていた。
しかもその1本をオレの方に差し出し、自分は食べる様子を見せなかった。それがやけに印象深かった。
オレが金を盗ろうとしていることを察して、毒でも盛ってるのかと考えたが、そんなはずもなく串焼きはいつもと同じ味だった。
オレが食べ始めたのを見て、安心したように自分も食べ始めた。
その後、ぼったくられていたことを教えたが、可笑しそうに笑い、動じる様子は皆無だった。
ぼったくりにあったと知って、笑い出す様子を眺める。
――今まで会った中で、一番の変人だな
思えばこの時から、オレはすでにおかしかった。迷っていたんだ。迷う余地なんて無いはずのことに。
その後、塔に連れて行った。割が良かった塔の清掃の仕事をしてから、たまに1人で登りに来る。ここから見える景色が、単純に好きだった。荒んだオレの心をただ自然に慰撫する場所で、誰かにそれを教えたことも、連れてきたこともなかった。
コイツを連れて行く必要なんてなかったはずだ。隙ならいくらでもあった。終始無警戒なやつで、強引にぶつかりながら金を奪い去ったって成功するだろう。
ただ、あの澄み切った緑の瞳があの景色を映す時、コイツがどんな反応をするのか知りたかった。
漠然と、はしゃぎまわって喜ぶ姿を思い浮かべていたが、それとは正反対だった。
ただ、夕日を見ていた。
金色の髪は、光でキラキラと瞬き、その顔は人形のような作り物めいた静けさを宿していた。日が沈むにつれ、瞳は少しづつ暗くなっていく。それでも奥は明るく光り輝き続け、それがオレのいるこの暗く荒れた世界の中の希望に見えた。唯一の光。
オレは慌てて目を背け、日が沈み込んだ空へと向け直す。
惹かれていた。明確に、その姿に。
――ちがう!オレは、コイツの金を盗る。それ以上コイツに関わることはないし、それ以上コイツに求めることもない。
――エリックの怪我はオレに責任がある。治療費ぐらいはだす。
自覚はしていた。オレの心はこれまでにないほどグラグラと揺れている。
迷いは一瞬で、行動は迅速に。ただ自身の中の軸に従い、明確な結果だけを求めなければならない。いや、そうしてきたし、これからもそうある。
――ジャラジャラ
音がなった。オレがコイツから盗った金の音だ。その緑の瞳がこちらを見据える。
――酷いミスだ。迷いすぎた……。結局迷いを断ち切れなかった……。
ここからどうするべきなのかは分からなかったが、頭の奥は冷え切り、どこか諦めにも似た思いを抱き始める。
だが、コイツの真っ直ぐな目を見た瞬間、全てが吹っ飛んだ。落ち着かなくて、どうにも平常でいられない。目をそらして、逃げるために走った。
アイツは火だ。穏やかにパチパチと燃える火じゃない。盛んに立ち上りボウボウと音を上げるような火。オレみたいなハエが、惹かれずにはいられない、暗闇の中で光る火。
――駄目だ。惹き込まれるな。
何の苦労も知らない。生きることに縋りついたこともない奴だ。
生身で、等身大の生も死も感じたさせない。そういうものに分厚い膜を貼り、胡座をかいてるやつだ。ぼんやりと生きてそれに甘えた奴に惹かれてる?冗談じゃない。
そういう奴らが一番嫌いで、虫唾が走る。虚飾に満ち。今を精一杯努力してると笑い。がんばっている、なんて言葉で生きてきて、今持っている物すべてが自身の力の上にあると傲慢にも思っている。他者を信じると言いながら、命を預けることもない。安全な場所で膝を組みながら、自身が戦っていると信じている。そんな最悪な、唾棄すべき、軽蔑すべき――……。
本当に?それはちがう。少なくともあいつは……いつだって自然で、真っすぐで、むしろオレが……
体をグッと引かれる感覚に、意識が戻る。あの串焼きを売っていた男だった。
「今までよくも俺の肉を盗りやがって!この糞ガキ」
「盗られる方が、悪い」
――今どこにいる?迷子になっていたやつをおいてきた。また迷ってるだろう。
「なんだと!このッ!」
「お前が、間抜けだと、言ったんだ」
いや、
――金は盗ったんだ。もうアイツのことを考える必要はない。
無駄なことを考えていたせいで、気がそれて腕を取られた。
続けて何発も殴られる。体から徐々に力が抜けていくのを感じた。空中に持ち上げられた体を殴られ揺れていると、頭もフラフラと揺れている気がした。
蹴り飛ばしてやろうとも思ったが、そんな力はもう残っていなかった。
しばらく殴り続けて、動かなくなるのを見れば満足するだろうとぼんやり宙をみる。その時だった。向こうからアイツが歩いてくる。顔は青ざめて、膝が震える寸前みたいな足取りだった。
バカだ。正真正銘のバカで、救いようのないお人好し。
何の力もないくせに、オレを助けようとする。金を奪い去ったオレを、だ。
――しょうがない奴……
アイツはオレを惹きつける火だ。オレはその火をしるべにして、その周りをハエみたく飛ぶ。その火が消えてしまえば、オレは闇の中をただ彷徨うだけになってしまうのかもしれない。
出会ってしまったことがオレにとっての大きな不幸だろう。
――最悪だ……。全く以って……。




