1−2
その後、手を引かれるままに周辺を回った。吹けば飛びそうなボロ小屋や屋台が並んでいる。荒れ放題な道に壊れかけの井戸、おまけに変な匂いがする。そして、どことなく爛れた雰囲気の漂う場所。
不意に、この前街に来たときに、横にいた従者に言われた言葉を思い出した。大通りばかりではつまらないと思って横の小道に入ろうとしたときだった。
――セオドール殿下!そちらは……肥溜めのような場所ですっ!殿下が立ち入るような場所ではございません。
ここがその肥溜めのような場所だと、言っていたところなのかな?確かに汚れてはいる。でも肥溜めほどじゃないんじゃないか。いや、でも匂いは……。
そんなことを考えている僕の手を、少年が引っ張り、ぐんぐんと進んでいく。
少年の背が僕より少し高いからか、後ろ姿が大人びて見える。それとも、少年の持つ独特の空気が、そう見せるのかもしれない。
それにしても、全く見覚えのない場所だった。今まで行かせてもらえなかった場所だ。自分の国のことを、僕は全然知らない。僕の家臣は、僕の見る場所、通る場所、全てが大掃除の後でないといけないと思っているみたいだ。
「ここってどこ?」
思わずそう聞くと、少年がこちらを振り返りながらこたえる。一つに束ねられた髪が馬の尻尾みたいにサッと揺れた。
「ここは、スラム街だ……そんなことも、知らないのか?」
確かに知らないけど、聞いたことはあるような気がする。
僕は、相手の言葉にバカにされたように感じて、思わずなにか言い返してやろうと思っていると、何処からか香ばしい匂いが漂ってきた。王城では嗅ぐことのない、上品さのかけらもない匂いだ。でも、すごく食欲をそそられる。
「これってなんの匂い?」
「串焼き。あんた、質問ばっかだな」
気怠げにこたえる少年を無視して、匂いのもとを探る。
朝から、まだ何も食べていない。そのせいで何か食べたくてしょうがない。
辺を見回し、一つの屋台を見つける。
駆け寄ってみると、美味しそうな肉を焼いていた。目を輝かせて肉を見ていると、肉を焼いていた男が、鬱陶しそうに太い腕を動かし、手を払う。その仕草が、肉にまとわりつくハエを追い払うみたいでムッとする。
「シッシッ。ガキが。買わねぇんならくんなよ」
「買うよ」
「そう言って、隙を見て盗んでくんだろ」
「買うってば!」
慌ててそう言うと、男はフンッと鼻で笑っていった。
「お前に買えんのか?買えねぇんならさっさとお家に帰ってお昼寝でもしときな」
「買えるよ。いくら?」
「小銀貨2枚だ。もちろん1本な。さぁ、俺は忙しいんだ、ガキは帰――」
「じゃあ、1本!じゃなかった。2本ちょうだい」
持ってきた貨幣を入れた革袋はまだずっしりとして重い。金貨も数枚あるし、大丈夫だろう。
「はあ?」
素っ頓狂な声を出す男に銀貨を押し付け、串を2本持って、さっきの少年のもとに戻る。男はまだ、呆然としながら手の中に残った小銀貨を見ている。
少年は少し離れた場所で屈み込むように座っていた。その瞳は、どこか警戒するように細められていた。狩人が獣を狩るような、それでいて、狩人に睨まれた獣が狩人の隙を探っているような、そんな瞳だ。
その紫色の瞳が、日陰に入り込んだかのように、黒みがかっている。
今警戒することなんてないのに。そんなふうに思いながら、声をかける。
「買ってきたよ」
僕がそう言って笑いながら、今度は少年の手を引いて、歩きだす。
初めてまともに自分で買い物したからかもしれない、なんだか誇らしいような、ウキウキするような気持ちだ。はしゃいだ気持ちで少年のことをグイグイ引っ張る。
「買ってきた?あいつから?」
首を縦に振ると、何故か驚いた顔をしていた。瞳はもう普通だった。灰色がかった紫。やっぱり、ちょっと怖くて、不気味だった。
「はい、これ。君のぶん」
そう言いながら、串を1本差し出すと、もっと驚いた顔をする。
「は?」
「早く食べないと冷めちゃうよ?」
僕がそう言うと、肉をじっと見つめたあと、黙々と食べ始めた。
それを見て、僕も食べ始める。
肉は固くて臭かったけど、悪くないような気もした。
食べ終わった後、少年が歩きながら訊いた。
「これ、いくらだ?」
「えーとね、小銀貨2枚……だったかな?」
「ッッ小銀貨2枚!?」
喉に何か詰まったかのように言うものだから、思わず笑ってしまう。
「あんた、笑ってるが、ぼったくられてるぞ」
「ぼったくり?」
「あそこはいつも、銅貨2枚だ」
その言葉を聞くと、また笑いが込み上げてくる。それは、たしかにぼったくられてる。そのまま笑っていると、少年が胡乱げな瞳を向けてくる。
「初めてなんだ、ぼったくられたの」
「あんた、バカなのか?」
だって、なんだかすごく、そう、愉快だ。今まで、自分で買い物することなんてなかった。いつも、誰かが買いに行ってたから。自分がぼったくられるなんて、考えもしなかった。
王城の中で、勉強して、ダンスをして、お茶会して。そんなんじゃ絶対やることのないこと。
いつもそばにいるみんなが、やったことも、考えたこともないこともしてる。今は、自分だけが知ってる気がして。きっと、あの陛下とか、ベルランツ兄様はきっと知らないから。今の自分はとっても変で、すごく可笑しい。
ここは、僕にとって、不思議な場所だった。誰もドレスも礼服も着てなくって、ボロボロの布を着てる。みんなが人形みたいに笑ってなくて、芝居のセリフをそのまんまうたいあげるやつもいない。
王城が快晴なら、ここは曇りだ。きらびやかな王城に比べて、灰色に染まったスラム街。なのに、ここは、王城よりもずっと輝いて見える気がした。
「次は、どこに行くの?」
僕が笑っている理由が理解できないらしく呆れるような顔をしていた少年に、せかすように尋ねる。もっと色んなものを、知らないことを知りたかった。もっといろんなことがしたい。自分でもこんなの初めてだった。僕じゃない僕が、グイグイと背を押す。興味とか期待とか、そういう気持ちががどんどん湧き上がってくる。
「そうだな……追加料も、しかも小銀貨2枚ももらったんだ。とっておきに連れてってやる」
そういうと、少年は紫の瞳を煌めかせながら快活な笑みを見せた。それは、さっきまでと違って、年相応の少年らしい笑みに見えた。