3−1
僕は、リオからもらった十字架をじっと見つめる。上の部分が大きくかけていること以外は、普通のものだ。
ギュウっと握りしめてみる。そうすれば、リオからもらったときに感じった温かさを思い出せる気がした。けれど、そうでもなくて、十字架は金属のひんやりとした冷たさのままだった。
見つめていると、街に降りたときのことを思い出す。あの、どうしようもなくワクワクして血が体の中を勢いよくめぐるような時間を。自分が地に足をつけ風を切るという感覚を。そして、リオのことも。
――また街に降りたい。
グルグルとその思いが体内を駆け巡り、体の芯が熱くなる。同時に、ウィルの顔が思い浮かぶ。その後に、あの、自分を後ろから抱えるように捕まえた男のことを思い出した。
しばらく静かに考えると、首を軽く振って、熱くなった体を冷ますようにゆっくり深呼吸をした。
――ウィルに心配をかけたくない。僕には……身を守る力すらない。
じっと考えて、最後にはそう思った。
僕は自分の机の引き出しを開けると、握っていた十字架を中に入れ、引き出しを閉める。
――それから5年ほどの月日が流れた。
昼の3時前になった。今日は、エルガーと訓練所で剣を交える約束をしている。時計の針を確認した僕は、凝り固まった体をほぐすように大きく伸びをして立ち上がった。
「ウィル、ちょっと訓練所に行ってくる。悪いけど、残りは頼む」
残っていた仕事を押し付けるようにウィルに渡す。
今日中のもいくつか混じってるけど……まぁ、ウィルだし大丈夫かな。
「程々にしてくださいね」
書類を受け取ったウィルが仕方ないとばかりに言った言葉を聞き流しながら、訓練所に向かおうと部屋を出たとき、背後から引き止める声がかかる。
面倒な奴の声にうんざりとした気持ちを押し殺して振り向く。
「どこに向かわれるおつもりですか?」
部屋の外に立っていた護衛の男だ。咎めるような口調に、これみよがしにため息を付いて見せる。
「別に、僕がどこへ行こうと構わないだろ」
「護衛ですので」
真面目くさった顔で当然のように答える様子にげんなりとする。
「いつもそうだね、君は」
僕を護衛する気なんてないくせに。
気を抜くとそう言ってしまいそうで、早く訓練所に向かおうと足を進める。が、護衛の男がそのままついてこようとする。
「ついてこないでくれ」
「そういうわけには」
この男は近衛騎士団の男で、陛下の直属だ。僕の行動はこの護衛のせいで陛下に筒抜けになる。陛下は昔からそうだ。僕の行動をいつも把握していないと気がすまないらしい。それが嫌でさっきから振り払おうとしているんだけど……思ったより頑固だな。
「君の団長のいる訓練所だ。護衛はいらない」
「しかし……」
仕事に熱心なことだ。
「君のとこの団長、エルガー・ランザルがいるんだぞ。君はエルガーより強いと?」
「ですが、あの方は――」
まだ下がらないのか。僕が剣を振るところをあまり見られたくない。一応僕は、面倒事を回避するために病弱ということになっているからだ。
じろりと睨んで語気を強める。
「僕が、嫌だと言ってるんだ。僕の護衛だというのなら、これは命令だ」
「……分かり、ました」
僕が引き下がるつもりがないと分かったのか、渋々といった調子で了承する。
本当にうんざりだ、そう思いながら元凶の顔を思い浮かべる。僕の叔父と兄。
あの二人、というか、陛下の命令で近衛騎士は僕のことを監視してるんだろう。
そんな事を考えながら歩いていると訓練所についた。
まだ昼間だからか、訓練場は兵士で溢れかえっていた。が、エルガーの位置はすぐに分かる。エルガーの周りだけ分厚い壁があるみたいに誰も近づかないからだ。
エルガーは壁に背を預けて片手で無精ひげを撫で、左手の中でコインを転がしていた。
「ごめん、遅くなった」
「本当に随分待たされたんだが。セオ、何かあったのか?」
エルガーはそう言いながら気だるげに身を起こした。
「君のところの騎士に熱烈にまとわりつかれてたんだ」
あのさっきまで言い合いをしていた、生真面目な騎士の顔を思い出しながら言った。僕の言葉を聞いたエルガーは察した様子で顔をしかめ、ウゲっと舌を出した。
「毎度ご苦労さん。苦労すんな、キラワレモノの王子様は」
エルガー・ランザル、近衛騎士団の団長だがはぐれもので、ウィルと同じくこの城の中の、僕の数少ない味方だと言える人物だ。
「王子はやめてくれ。それと、早く始めよう」
周りの兵士たちがこちらをチラチラと伺っており居心地が悪く早く始めたかった。
無理もない。一匹狼で怠け者の近衛騎士団長と病弱という噂のある王子。訓練場にいるのは不自然な組み合わせだろう。
僕は色々あった結果、今、病弱でろくに動けないし働けないという噂がつきまとっている。実際は元気が有り余るくらいなのに。
「向こうでするか」
エルガーも同じように居心地悪く感じていたのか、人気のない場所を選んだ。
いつもは中庭でやるから問題ないんだけどな。あまり目立ちたくはないし、誰も見てないと良いんだけど。
そう思いながら、少し開けた場所に向かう。地面は柔らかく細かい土で、体を強く打ち付けても怪我をしにくくなっている。風はほとんど吹いておらず、無風に近い。腰に携帯していた剣を鞘からゆっくりと抜く。そのまま構えると、目の前でもエルガーが構えていた。
エルガーはいつもはだらしないくせに、構えられた剣筋はきれいで型どおりだ。それに、近衛騎士の団長なだけあり、わりとな強さだ。多分城じゃ一番強いと思う。僕はいつもコテンパンに負ける。
でも、今日こそは勝つ。
柄を持つ手に力を入れる。ふっと息を吐き出し肩の力を抜くと、落ち着くように意識して、エルガーを見据える。
どのくらい見つめ合っていたか、エルガーが素早く僕に近づき、剣を振るった。力任せじゃなくて、流麗な美しい剣だ。
何度も振るわれる剣は一見軽そうに見えるが、僕は身を捩らせて必死に避ける。これは見た目よりも随分と重く、受け止めたが最後、隙きができた体に蹴りを入れられて終わりだ。
エルガーに巻き込まれていたペースを戻そうと、一旦間合いを取るが、勢いよく追いすがって来る。そのまま数回打ち合い、体全体に重い振動が伝わる。
一瞬、僕の重心がその振動でぶれたとき――
エルガーの眼が獰猛に光る。勝利を確信している眼だった。僕は大抵、ここで勢いに乗ったエルガーの剣を受け止めきれず負けるのだ。
――でも、今日は違う。
僕は、エルガーの剣に見向きもせず、思いっきり地面を蹴った。
そのせいで僕とエルガーの間に砂埃が舞った。
「おいぃ。嘘だろっ!」
砂埃の中に勢いよく突っ込んだエルガーが悔しげな声を上げる。目や口に砂が入ったのか煩わしげに顔を歪めている。
――もらった。
目を押さえるエルガーの首筋に剣を突きつける。
「やっとだ。やっと、今日は僕の勝ちだ!」
嬉しくて我慢できずに声を上げる。
力が抜けたように寝転がったエルガーを見ていると嬉しさでニヤついてしまう。今日まで負け続きだったんだ。一度くらい勝ってみたい、そうずっと思っていた。
「嘘だろぉ。負けたかぁ」
エルガーが悲壮な声を上げた。その様子にほくそ笑んでいると、その後、エルガーがハッとなにかに気づいたようにこちらを見る。
「セオ、お前このために、急に訓練場でするなんて言い出したんだろう」
そのとおりだ。いつもの中庭では土が固く、うまく砂埃が立たない。でも、土が柔らかいここなら、と思ったから、今日はここでやりたいと言った。
「最後に勝ったほうが勝ち。エルガーがそういったんだろ」
最初に僕が蹴り飛ばされて負けたとき、つい悔しくて、
――剣の勝負なのにずるい
そういった。そしたら、
――覚えとけ、セオ。最後に勝ったほうが勝ちだ。負けて何言おうが、負け惜しみにしか聞こえないな。
と言われた。それからずっと、いつかこうして勝ってやろうと思っていた。
「ちくしょー。小賢しくなりやがって、誰に似たんだ」
そんなふうにボヤいていたかと思うと、勢いよく起き上がり、ふっ、と笑った。
「んじゃ、オレはそろそろ行くわ」
「またか」
この男の行くところといえば、決まってる。
酒か、賭博か。
「……今日はどっちだ?」
「今日はこれだ」
そう言うとエルガーは、ぐいっとグラスを傾ける仕草を見せる。
「昼間っから酒か」
僕がそう呟いた頃にはエルガーはヒラヒラと手を振って去っていった。