【番外編】仮面夫婦、やめました
「う~ん、おはよう、ピィピィ」
日差しが差し込むベッドの上で、エヴァンジェリンは伸びをした。傍らの窓にはピィピィがとまっていて、エヴァンジェリンが目を覚ましたのに気づいてさえずった。
「ええ、いいわよ。お庭で好きな果物を取っておいで」
嬉しそうにひと鳴きして、ピィピィが窓の外へ飛び立つ。夏の青空を思いのままに滑って、庭になっているオレンジやバナナのもとへ。
「ふふ、よかった」
窓からピィピィを眺めていると、メイドが山ほどの朝食をもって来る。シリアルにクロワッサン、数種類のジャムにキッシュ、紅茶にミルク……どっさりだ。
「……こんなにたべきれないのに」
それはごはんだけではない。着きれないほどの服に、使い切れないほどの日用品、不自由がないようにとおかれた魔法通販のカタログの山、山、山。
――グレアム邸の離宮で、エヴァンジェリンはまるで綿にくるまれるようにして暮らしていた。
「けど、グレアム様……じゃない、グレアムさん本人と、もう何日もあってないんだよね」
数日おきに薬が届き、エヴァンジェリンはリハビリをしつつつつがなく過ごしているが、さすがにずっと姿が見れないと、心配にもなる。
(どうしたんだろう……やっぱり、家で私の顔なんて見たくないのかな)
ふうとため息をついて、すとんとベッドに腰かける。もったいないので、たべられる量だけパンを取り分ける。クロワッサンにつけるジャム、私だったらマーマレードを選ぶのに、と思いながら、それでもありがたくイチゴのジャムを塗る。バターの香りのするクロワッサンの食感を堪能しながら、エヴァンジェリンは考えた。
(私……体が治ったら、どうしよう。何をしよう)
グレアムとエヴァンジェリンは、もう主人と奴隷ではないのだ。従う理由はなくなり、それはつまり、いつまでも面倒を見てもらうわけにもいかないという事になる。
(私、普通に、人間として暮らすんだ……どうしよう)
そう考えると、不安もあるが、わくわくも大きい。
(何か……私のしたいこと、できそうなことって、なんだろう)
それを知るためにも、一歩、この部屋から出てみたい。キッチンを見て、庭へ、そして、離宮の外へと出てみたい。けれど……
(今の私じゃあ、たくさんの距離を歩けない。もっとリハビリしないと。そして……)
グレアムとも、ちゃんと対等に、話せるようにならないといけない。
リハビリをして、興味のある魔術書を読んで気分転換をして、またリハビリをして。
いつもの一日を終えて、エヴァンジェリンはまた横になった。少し寝苦しい晩もあったが、最近は楽に寝付ける日が増えた。
(がんばろう。明日は私の方から、グレアム様に話しにいってみようかな)
――午前零時。トールギス家の離れに、グレアムは人知れず姿を現した。
真っ白なレースのシーツがかかったベッドに、エヴァンジェリンは目を閉じて横になっていた。
その寝顔は静かで穏やかで――無垢であった。
(そうだ、無垢)
初めてエヴァンジェリンと会ったときの事を、グレアムは思い出した。
魔法で作った透明な膜を破って、エヴァンジェリンは生まれてきた。
その時グレアムは、『やっと成功した』と思ったのだった。それは人間に対する感情ではなく、完全に道具をみるものだった。
それはずっと――この学園に来ても、長い時間を一緒に過ごしても、変わることはなかった。
(いや……本当にそうだったか?)
エヴァンジェリンの寝顔を見下ろしながら、グレアムは自問自答した。
(偽るのはやめろ。俺はずっと……本当はずっと……エヴァンジェリンが『心』をもっていると、気が付いていた)
スプーンの持ち方、しゃべり方、歩き方。グレアムはすべてをエヴァンジェリンに教えた。
うまくできれば、エヴァンジェリンは嬉しそうにしていた。失敗すれば、悲しそうにしていた。親たるグレアムを尊敬し、言いつけはなんでも真剣に取り組んでいた。
だからグレアムは、『お前は、俺の言うことに従うための道具だ』という事を、繰り返し教えた。
(エヴァンジェリンはいつだって……俺を裏切るカードをもっていた)
グレアムはいつも、エヴァンジェリンに背かれることが恐ろしかった。彼女が人造人間だとバレれば、グレアムは身の破滅だ。だから、だから反抗できないように、過剰に彼女を縛り付け、『道具たれ』と教えてきた。
卑劣で卑怯な行為だった。しかし、グレアムは毎回、『彼女は道具だ』と言い聞かせ、それを行ってきた。『道具に情を掛けるほうがよほど残酷だ』『自分は彼女を監督する責任がある』という言葉を免罪符にして。
(こいつは……それを律儀に、十二分に守った。俺が教えたことを)
グレアムがそう教えたから、彼女は『道具であろう』と努力してきたのだ。
苦しい身体改造も、厳しい訓練も耐えた。
しかし彼女は、あろうことか最後には、グレアムの命令ではなく、自分の意志で、死ぬ定めの指令へと立ち向かった。
その瞬間、グレアムが自分に対してずっとついていた苦しい嘘が――見事に砕け散ってしまった。
(エヴァンジェリンは――道具なんかじゃ、ない……)
グレアムやココと同じように、ものを感じ、考える心がある。
好き、嫌い、嬉しい、悲しい。そして、誰かを大事に思い、守りたいと思う気持ち――
それを胸に、エヴァンジェリンは遺跡の奥へと降りていった。
(殺した……殺したんだ、俺が……)
ひとりのかけがえのない人間を、自分の言うなりの奴隷に洗脳して、死ねと命令したのだ。
(ああ……あぁ、くそっ……!)
ココの身代わりに、彼女を生贄に捧げた。
――こんな自分は、いったい何で、どんな罰がふさわしいんだろう。
(俺は……犯罪者だ。誰か俺を……裁いてくれ)
エヴァンジェリンのベッドの傍らに立ち、グレアムはただ、こうべを垂れた。
時計の針が深夜0時を指した、その時。
誰かがエヴァンジェリンのベッドの横に立った気配がした。
「グレアム……さん?」
「っわ」
声をかけると、グレアムは少し驚いて身を引いた。
「どうしたんですか、こんな時間に」
「……君こそ、どうして起きてるんだ。いつもは寝てるのに」
「今日はたまたま……って、いつもきていたのですか」
その言葉に、グレアムはしまったという顔をした。
そしてしぶしぶと言った。
「……そうだ。君の心臓の様子を確認していた。今日も問題なさそうだ」
「それなら、日中に来てくださればいいのに……なにもこんな夜中に。何の用ですか」
エヴァンジェリンが言うと、グレアムはだしぬけに言った。
「俺は……自首したい」
「はい?」
よくわからなくて聞き返すエヴァンジェリンに、グレアムは暗い目で言った。
「自首だ。自分の身勝手な目的のために、禁じられた魔術を行って君をつくって、殺そうとした」
「え……どうしたんですか……?」
「俺は二重の犯罪者なんだ。法を破った事と、君を殺そうとしたこと。俺は罪を償いたい。自首して、裁きを受けたいと思う。俺は自分の欲望のために他人を殺せる最低の人間なんだと、皆に知ってもらう」
何を言い出すかと思ったら。エヴァンジェリンは慌てた。
「ま、待ってください! そんなことしたら、私の正体がばれて……私はどうなるんですか⁉」
グレアムはぐっと唇を噛んだ。
「わからない……実験に回されるか、最悪……」
「そ、そんなのだめですよ! そっちのほうがよっぽど困ります……!」
「……そうなんだよな。俺が自首すれば、君に迷惑がかかる」
「そ、そうですよ! ココさんもアレクさんも困ります、やめてください!」
するとグレアムは、じっとエヴァンジェリンを見た。
すがるような哀願するような、絶望的な目だった。
「それならどうやって……俺は罪を償っていけばいいんだ。誰が俺を罰してくれるんだ」
彼がエヴァンジェリンの前で、こんな顔をするのは二度目だった。
どこか痛むような顔。遺跡のドアの前で、最後に見せた顔。
――そんなの、自分で考えてください!
と言う代わりに、エヴァンジェリンは勇気を出して、グレアムの額をぴっ!
と指先ではじいた。
「っ⁉」
驚いたグレアムを見て、エヴァンジェリンは言った。
「罰です。私の爪は細くて長いので、そこそこ痛かったでしょう」
「だ、だが……」
「私も、痛かったです。グレアムさんにされた身体改造。ずっと蔑ろに扱われて、辛かった。でも……」
ずっと、エヴァンジェリンに対しては『道具』だと、冷たい態度を貫いていたグレアム。
あんなことをされた、こんな事もされた。その事実は消えない。
だけどそもそも、グレアムが作ってくれなければ、エヴァンジェリンはいない――
「グレアムさんが、私を作ってくれたから、アレックスさんに、出会えた」
エヴァンジェリンは、胸に手をあてた。
「ココさんにも、ピィピィにも。だから、だから……」
エヴァンジェリンもまた、知っていた。
グレアムがずっと、エヴァンジェリンだけではなく、グレアム自身にも、『彼女は道具だ』と言い聞かせてきたこと。自分の心がこわれないように、必死で感情を抑え込んでいたこと。
弱くてもろくて不器用な、エヴァンジェリンの創造主。
(だからグレアムさんは――ココさんが好きなのね)
エヴァンジェリンは初めて、そのことにきがついた。
強くて明るくて、どんなときもまっすぐ受け止めてくれる彼女が。
エヴァンジェリンも、ココの明るさにはずいぶんと慰められたのだ。
(ちょっとわかる気がする。本当は弱いグレアムさんが――ココさんを失ってしまう絶望が)
だから、グレアムのすべてを責めることもできない。
エヴァンジェリンは顔を上げて、グレアムをまっすぐみた。
「ぜんぶ黙って、これから耐えていくことが、グレアムさんの罰です」
エヴァンジェリンはそう言い切った。
「私のために、ココさんのために……グレアムさんの罪は、一生黙っていてください」
「だが……」
「自首なんてしたら――それこそ私、グレアムさんを許しませんよ。できますか?」
エヴァンジェリンは少し強めに言った。
するとグレアムは、軽く目を伏せて、意を決したようにうなずいた。
「わかった。エヴァンジェリン」
そして、唇を噛んで言った。
「今まで……すまなかった」
万感の思いがこもっているのか、小さいがその声は、重たかった。
「許す、という言葉は言わなくていい。今君が言った通り……俺は黙って、君のこれからの人生を、支援することにする」
彼がそう言ってくれたので、エヴァンジェリンはやっとほっとした。
「なら……よかったです」
すこしだけ、寝室の空気が軽くなった。グレアムは再び口を開いた。
「食事を残していると聞く。それに何も頼んでいないじゃないか。ほしいものはないのか」
「ごはん、多すぎますよ。食べきれません。それに必要なものは全部そろっていますから、通販で頼む必要もないです」
「なんでもいい。ほしいものがあったら言ってくれ」
そう言われて、エヴァンジェリンはゆっくり考えて、言った。
「なんでもいいのなら……私に、キッチンに出入りする許可をくださいませんか」
「キッチン? 自由にすればいいが……食べたいものでもあるのか」
「朝食、自分で用意してみたいんです。好きなものを、食べきれるぶんだけ…自分の手で」
そう言ってみると、次々とやりたいことがエヴァンジェリンの頭の中にぽんぽん沸いて出た。
「それから、この屋敷の外を、見てみたいです。街にも出かけてみたい。本屋さんに行って、お菓子作りの本を見てみたいんです」
エヴァンジェリンがそういうと、グレアムは少し安心したようにうなずいた。
「わかった。そうしよう」
「昼にですよ」
「もちろんだ」
ふっと彼の顔が緩む。
あ、やっと笑ってくれた。
エヴァンジェリンはそう思った
(お菓子の本を買ってもらったら……離宮の台所で、何か作ってみたいな)
そしてそれを、皆にあげるんだ。グレアムに、ココに、アレックスに……。
(うん、見つけた、私のやりたいこと)
とりあえずそれを目標に、今は頑張ろう。
エヴァンジェリンはグレアムの微笑みに、心からの微笑みを返した。
目のまえのグレアムは、冷酷な主人でも、理不尽な婚約者でもない。
(グレアム様じゃなくて、グレアムさん)
今はまだわからないが。いつか、彼と、『友人』になれるのかもしれない。
今までの関係は壊れ、新しいその一歩を、二人は踏み出したのだった。




