死ぬのなんて
はーっ、はーっ、はーっ。
エヴァンジェリンは絨毯の上に倒れて、必死で呼吸をしていた。
あれからグレアムはエヴァンジェリンと二人で塔にこもり、ずっとこうして極限まで鍛錬を繰り返していた。
『最後のしあげ』なのだそうだ。
「……どうした。それっぽっちで反撃はおしまいか。決闘技で鍛えた腕はどうした」
エヴァンジェリンは必死で腕を床につき、体を起こした。あと少しだったのに。
「も、うしわけ、ありませ……っ」
「本番の日まで、あと二週間を切った。わかっているのか」
グレアムとの戦闘訓練で、だいぶ魔力を消費した。が、その分の魔力を、つくりかえた心臓が補ってくれる。
だが――心臓の回路が動くたびに、胸に痛みが走るのだ。
これをこらえながら、相手を倒さなくてはならない。
エヴァンジェリンは立ち上がり、グレアムに再び対峙した。
「はい。もういちど、お願いします」
グレアムはにやり、と不敵な笑みを浮かべた。
「いいだろう――次はもう一段階、攻撃を強める。すべてかいくぐって、次こそ俺の胸に杖をあててみろ。来い!」
グレアムが杖を構える。彼は手加減をしない。攻撃が当たれば、きっと痛いだろう。でも。
それでいい。きっと、来たる運命の日も、たくさん痛い思いをして、そしてエヴァンジェリンは息絶えるのだから。
(死ぬのは怖くなかったの――最初から、わかってたことだもの)
だから今は、命令を遂行できない事の方が怖い。
エヴァンジェリンは息を大きく吸い込んで、心臓の魔力炉を活性化させた。
グレアムに、勝つ。胸に一本入れるのだ。
「―――行きます!」
エヴァンジェリンは力強い一歩を踏み出した。
◆◆◆
(疲れたぁ……でも、でも……できた! グレアム様相手に、やっと一本とれた……!)
運命の日まで、あと2週間という段階になって、エヴァンジェリンはやっと、ここまでこれたのだ。
(本当に、ギリギリだった……でも、よかった。これもずっと手を抜かず鍛えてくれた、グレアム様のおかげ)
エヴァンジェリンは達成感を感じながら、きゅっとシャワーの栓をひねった。熱いお湯に、体が緩む。白い大理石の床に、熱い湯が流れていくのを眺めると、ふいに不思議な気持ちになる。
(来月の今頃――私はもう、いないんだ)
今使っているベッドも、このバスルームも、からになる。もしかしたら、次に来る誰かが使うかもしれない。
(それなら……私のものは処分して、綺麗にしておかないと)
そう、もともとエヴァンジェリンは、この世界にいてはいけない存在なのだ。コロンの一滴も、髪の毛一本も、残さない方がいい。
「……今のうちに、使い切っちゃおう」
シャワーを終えたエヴァンジェリンは、ボディミルクをたっぷりと出して腕や背中に塗った。この石鹸のにおいのするボディミルクは、肌があまり強くないエヴァンジェリン専用に、グレアムがおいてくれているものだった。
(グレアム様とは、いろいろあったし、今でもぜんぶはわからないけど……でも、感謝してる)
彼が作ってくれたからこそ、エヴァンジェリンはここにいる。
だからもう、ほとんど思い残すことはない。自分は自分の役割をまっとうすればいいのだ。
だけど……
「アレクさん、ごめんなさい」
自然と口から、謝罪の言葉があふれ出す。
エヴァンジェリンは、ヤドリギの下で、彼の言葉に答えることができなかった。
(でも……でも、あの時うれしかった。とても)
本当は、あの時アレックスに言いたかった。
ありがとうございますと。
誰にも顧みられず、寂しく死んでいく予定だったエヴァンジェリンの人生に、意味をくれたのはあなたなのだと。
短い間でも、アレックスと一緒にいられて、とても幸せだったと。得難い経験ができたと。グレアムよりも誰よりも、感謝していると。
エヴァンジェリンに『好きだ』と言ってくれたあの声も、抱きしめてくれた腕の感触も、忘れない。
ずっと耳の奥が、この体が――覚えている。
(けど……もう、アレクさんには会わない。それでいい。そうしないと、ダメなの。でも――いいよね? 覚えていても……最後まで、この感触をもっていっても)
エヴァンジェリンは何ももっていないし、アレックスに何も返すこともできない。
だけど、あの思い出だけは、ずっとエヴァンジェリンのものだ。
(アレクさんが言ってくれたこと、私と一緒にしてくれたこと……ぜんぶ、私だけのものだ)
それはグレアムにも、そして、ホムンクルスにも奪えない。
アレックスの思いには応えられないが――思い出は、この胸の中に、ずっとある。
(許してください、アレクさん。お詫びに、私、がんばります)
輝く思い出を抱いて、エヴァンジェリンは遺跡の奥に、沈んでいく。
(私は死ぬその直前まで――いいえ、死んだあとも――あなたを想います。だから)
エヴァンジェリンは、顔を上げた。鏡の中の自分と目が合う。
――なんて顔だろう。目はうつろに暗く、顔も疲れて青白い。だからエヴァンジェリンは、無理やりニッコリ笑ってみせた。
(アレクさんは、私を忘れて――太陽の下で、ずっと幸せに、生きていってください)
そのために、エヴァンジェリンはこの命を使うのだ。
だから何も、惜しくない。
(死ぬのなんて、怖くない――)
ふ、と笑って、エヴァンジェリンはナイトドレスを頭からかぶった。
犬死にしないためにも、明日はもっと鍛錬しないと。
(寝よう。グレアム様は、たぶんもうベッドで寝てるから……起こさないように)
エヴァンジェリンが出ようとしたその時。カタカタとバスルームの窓が鳴った。
「な、なに……?」
エヴァンジェリンは首をかしげて、外をのぞいた。
そして仰天した。
窓の外に、彼がいて手を振っていた。
「アレクさん……?」