魔法がとける時間
なんだかそわそわしているアレックスを見て、エヴァンジェリンははっと思い出した。
(そ、そういえば。小説で読んだような……!)
「あっ、あれですね! ヤドリギの下でキスをすると幸せになれるっていう……!」
そのロマンス小説では、困難を乗り越えたお姫様が素敵な王子様と、ヤドリギの下で永遠の愛を誓いあっていた。
それを読んで、エヴァンジェリンは思ったのだ。
(この二人は、グレアム様と、ココさん……私の話じゃ、ない)
と。だから鮮明に覚えていた。
「小説で読んだことがあります。アレクさんも、知ってたんですね!」
それが嬉しくて、少しテンションが上がってしまう。
しかしアレックスは、なぜか思いつめたような表情をしていた。
「ど、どうかしました?」
「そのヤドリギの下に、今俺たちはいるんだけども」
じっと見つめる、その目じりがなんだか赤い気がする。そこでエヴァンジェリンはやっと気がついた。
「あっ……そ、そういうこと」
キス……キス⁉
自分が誰かに⁉
そんなこと、考えたこともなかった。
エヴァンジェリンはおそるおそる聞いた。
「キス……しても、いいんですか? 私なんか、が……?」
「私なんかって……なんで?」
真剣なその目に、ドキンと心臓が跳ね上がる。
まさか自分の身に――こんな小説みたいなことが、おこるなんて。
しどりもどろになりながら、エヴァンジェリンはわたわた説明した。
「だってその、私は、脇役――ええと、いわば悪役令嬢、なのに」
「悪役――?」
「ご、ごめんなさい。なんでもないんです」
あああ、わけのわからない事を言っちゃってる。もう黙ったほうがいい。
するとアレックスは一歩エヴァンジェリンに近づいて、頬に手を伸ばした。
「したいよ、俺は」
顔が近づく。さわやかな風のような、彼の香りを感じる。
いつになく真剣な顔をしたアレックスの、反り返った赤い睫毛も、頬に散るそばかすも、灯りがゆらめく緑の目に、自分の驚いた顔が映っているのも――はっきり見える。
(わっ。近い近い……っ!)
まずい。何がまずいのかわからないけどまずい。
でも、キスしたくないわけじゃない。
そこでエヴァンジェリンは、思い切って自分からいった。
(えいっ……!)
目をつぶって、アレックスのそばかすの散る頬に、エヴァンジェリンは唇をくっつけた。
その瞬間。ふっとため息をつく音がして、エヴァンジェリンの身体は抱きすくめられていた。
彼の――草と風の香りに、つつまれる。
「イヴ……君が好きだ」
耳元でささやかれたその言葉に、エヴァンジェリンは固まった。
「え……?」
「君がグレアム・トールギスの婚約者で、彼を裏切れないことも知ってる。それでも」
彼が腕にこめる力が強まる。その力に、息が詰まりそうになる。
「俺は君が、好きなんだ」
彼が顔を離す。怒っているような、それでいて泣き出しそうな顔で、アレックスは聞いた。
「君はどうなんだ、イヴ」
「わ……私、」
エヴァンジェリンは何か言わなければ、と唇を開いた。
しかし、まともに頭が動かない。胸がバクバクしている。
魔力で動いているひ弱な心臓が、ひっくりかえってしまいそうだ。
「私、は……ごめ、ごめんなさい」
人形、だから――。
その時。冷たい声が、二人の間を裂いた。
「なるほど……そういうことだったのか。エヴァンジェリン!」
鞭を打つような鋭い声で名前を呼ばれて、エヴァンジェリンははっとした。
アレックスの表情も鋭くなり、さっとエヴァンジェリンを背中にかばうように態勢を変える。
「グレアム、さま……」
彼ははぁとため息をついて、立ちはだかるように胸を張るアレックスの前に立った。
「今日は連れを案内してくれてありがとう。だが今後は、エヴァンジェリンにはかかわらないでもらいたい」
しかし、アレックスは一歩も引かなかった。
「トールギス。あんたにそんなこと言う資格があるのかよ?」
その声は、まるで獣の唸り声のような気迫がこもっていた。
「我々には我々の事情がある。君が知らないのは致し方ないことだが、立ち入らないでもらいたい」
「それなら俺たちにもわかるように説明するのが筋だろ。当然ココにもだ!」
グレアムがまた、軽くため息をつく。彼が何を考えているか、エヴァンジェリンは手に取るようにわかった。
(説明なんて、できるわけないものね……)
ならば、騒ぎになる前にさっさとエヴァンジェリンを連れ戻したい。そう思っているはずだ。
「来い、エヴァンジェリン」
案の定、グレアムは冷たく命令した。するとアレックスはエヴァンジェリンを振り向く。
「イヴ……」
その目は、エヴァンジェリンを心配していた。
「行かなくていい。イヴだって、好きなことをする権利があるんだ。広間でご飯を食べて、自由に町に出かけていいんだ。あんなやつのところになんて、戻るな……!」
「アレクさん……」
ああ、そうできたらどんなにいいだろう。アレックスの言うことに、うなずいてしまいたい。自分に優しくしてくれた彼を、傷つけたくない。
でも、それはできない相談だ。なぜなら。
――人形が創造主に、逆らえるわけないからだ。
エヴァンジェリンはまっすぐなアレックスの視線から目をそらした。
彼がはっと息をのんだのがわかった。
「ありがとうございます、アレクさん。今日はたのしかったです」
グレアムに、ばれてしまった。
エヴァンジェリンの楽しい時間は、ここで終わったのだ。
本当なら、許されないことだった。でも、幸せな時間だった。
アレックスと体験したことは、忘れない。きっと、最後の時まで覚えている。
だから、せめて感謝の気持ちを。
丁寧に頭を下げて、エヴァンジェリンはアレックスのもとを去り、グレアムの方へと歩いていった。
「イヴ……!」
残されて、茫然と立ち尽くすアレックスのその足元に――白い羽が落ちていた。