初・糖分ドーピング
するとエヴァンジェリンは、ちょっとためらったあと、控えめにうなずいた。
「ありがとうございます、サンディさん」
帰り道、エヴァンジェリンは来た時よりもずっと柔らかな態度で、アレックスはなんだか思いがけないプレゼントをもらったような気持ちだった。
「重たくてすみませんが……ココさんにこれを、どうかお願いしますね」
玄関ホールで、エヴァンジェリンはすべての荷物をアレックスに託した。
「任せて。こっちこそごめんな。ココのために」
そう言うと、エヴァンジェリンは首を振った。
「いいえ。お大事にと、お伝えください」
そしてわずかに微笑む。
「バノフィーパイ、おいしかったです。ありがとうございました」
彼女が軽く頭を下げる。小さな動きだったが、まるでお姫様のように完璧なお辞儀だった。
それに見とれていると、さっと彼女は身をひるがえして、ホールから中へと入っていった。
その小さな背中を、ついじっと見つめてしまう。
(しっかし……カフェのケーキであんなに喜ぶなんて)
なんだか不思議だった。ちぐはぐな気がした。
彼女は冷遇されているとはいえ、トールギス家の嫡男、グレアムの婚約者なのだ。
蝶よ花よ……とはいかなくとも、アレクやココのようなしもじもの生徒よりは、贅沢は許されているはずだろう。
(けど……マジで、バノフィーパイを喜んでた。本当に初めて食べたみたいな感じだった)
そこでふと、アレックスは気が付いた。
(でも、そういえば……彼女が食堂にいるところ、見たことがないな)
もしかして、彼女は個室でごちそうを食べているのではなく――冷たいグレアムに、粗末な食事を与えられているのだろうか。
(まさかな…いや、だけど、手袋もってないって言ってたな。必要ないとか……)
ありえない、と思いつつも、疑惑が沸いてくる。
(いくら外に出ないっていったって、こんな北国で手袋もってないって、ありえなくないか?)
アレックスはその疑問を抱えたまま、自分も南寮へと引き上げたのだった。
◆◆◆
「遅い。一体どこをほっつき歩いていたんだ」
エヴァンジェリンが寮に戻ると、グレアムが不機嫌そうに待ち構えていた。
「あ……すみません。少し教室で、自習を……夢中になってしまって」
とっさについた嘘だったが、グレアムは特に追及することもなく、エヴァンジェリンに背を向けてベッドに入った。
「自習をするならこの部屋にしろ」
そう言って、グレアムはエヴァンジェリンを上から下まで冷たい目でチェックした。
「お前も夜まで、活動できるようになってきたな」
「は、はい……グレアム様」
以前は魔力を貯めて置ける力が少なく、エヴァンジェリンは夕方になると力つきていた。
だが確かに今は、夜町を出歩いたあとだというのに、ちゃんと立っていられる。すこしふらふらはするが。
「来週から、戦闘人形を使った鍛錬を始める。怠るなよ」
「は、はい。わかりました」
とうとう、か。しかしグレアムからしたら、遅いくらいだろう。
「今日はもう寝ろ。倒れられてもめんどうだ」
グレアムがうっとうしそうに言う。
すぐに支度しなくては。エヴァンジェリンはあまり音を立てないように素早くシャワーを済ませ、身支度をしてベッドの横に滑り込んだ。
もう、隣のグレアムは寝入ってしまっているようだった。起こさないようにそっと触れながら、ほっと息をつく。
(よかった……こっそり出かけたこと、ばれなかった……)
ベッドの中に入ると、体の節々が熱をもってこわばっているのがわかった。
少し無理をしたせいで、体が疲れているのだ。
しかし、エヴァンジェリンは満ち足りた気持ちだった。
目を閉じると、今日食べたあのミラクルなパイの味が、口の中によみがえるような気がする。
(すごい……すごいおいしかった)
あんなものを口にしたのは、始めてだった。
(いつものバナナの、10本分くらい甘かった)
それも、一つの甘さではなく、いろんな種類の甘さが混ざって溶け合っていた。
バナナの甘さに、煮詰めてとろりとダークブラウンになった練乳の甘さに、砂糖たっぷりに泡立ててあるフレッシュクリームの甘さに……
すべての甘さがからみあって、エヴァンジェリンの口の中が、いつか本で見た桃色の天国のようになった。
(ああ、こんないい目にあって、いいのかな)
ちょっと後ろめたい気もする。けれど、バノフィーパイはたしかに、エヴァンジェリンに一時の幸福を感じさせてくれたのだった。
(サンディさんに、感謝しないと……)
ココと同じで、最初は少し怖くて近づきがたかったが――彼もおそらく、いい人なのだ。
(うん、もうビクビクするのはやめて……ココさんみたいに、ちゃんとお話ししてみよう)
『他の人とは極力かかわらない』というグレアムの命令をいったん棚に上げて、エヴァンジェリンはそう決心したのだった。