第8話 トロイの木馬(Ⅱ)
トロイの木馬は、ギリシャ神話のトロイア戦争から出てくるものから名前が付けられたマルウェア。
巨大な木馬の中に人が入っては隠れる事が出来、相手の目を欺き、内側から陥れる事を目的として作られた。
マルウェアとしてのトロイの木馬は、一見すると無害なプログラムやデータファイルなどに偽装しており、実行や起動したりなどでそれがトリガーとなり、トロイの木馬が活動する様にプログラムが仕組まれている。
しかし、今回は異例のトリガー条件。まさか、トロイの木馬を駆除する事で、またそれよりも強力な、新たなトロイの木馬が検出されるなんて事があり得るのか。
叶のお姉さんは、神話になぞられた事をやってのけた。悪趣味極まりない。
「ミドリ殿!!」
未だに腹を槍に貫かれたままのミドリ。刺さってるお陰もあり、傷口は広がってはない。しかし、微量ながら0と1の羅列であるデータが漏れ出ている。今は問題無いが、ひとたび槍を抜けば一気に溢れ出るだろう。AIアンチウイルスも、人間の出血と同じ様に必要以上に体外へと漏らせば消滅、死に繋がる。
槍を引き抜こうとするトロイの木馬だが、敢えてこの状態を維持する為にミドリは、両手に力を入れて取られない様に抵抗する。けれど負傷してる事もあって、思う様に力が入らない。
──非常にマズいです…力も入らなく、なって…。
「それ以上はダメで御座る!!」
レールガンの砲身をトロイの木馬へ向けると、槍から手を離して今度はハクリュウに狙いを定めた。走り出すトロイの木馬は、予め保有していただろうデータを取り出して、新たな武器・ハルバートを手にする。そして、手にして早々ハルバートをハクリュウへ投げつけた。
砲撃を中断せざるを得なくなり、バックパックとウイングに備わっているスラスターをブーストして空に逃げ仰る。ハルバートはハクリュウが居た場所に突き刺さり、すぐさまトロイの木馬も追い付いて引き抜き、空中に逃げたハクリュウを見上げる。
もう一度、レールガンをトロイの木馬に向けてプログラムを装填する。先程撃ったよりもチャージする時間を掛けて、一撃で仕留めに行く。空中に居るから、先程の様に投擲する事はあってもここまで追い掛ける事は無いと踏む。しかしそれは、誤った認識だった。
トロイの木馬は、両脚に力を込めて力強く跳んだ。その跳躍力は、空中に居るハクリュウに手が届く程のもの。
『ハクリュウ、今すぐ撃ち落とさないと自分に届いてしまう!撃つのだ!』
完全に不意を突かれた跳躍力に焦りを隠せない叶は、ハクリュウに指示を出してチャージ不足のレールガンを放たせる事を選んだ。
放たれたプログラム砲だが、トロイの木馬は防御しようともしない。代わりに、体をピンッと細く伸ばして、二つの砲撃の間を潜り抜けて突き進んで行く。そのままハクリュウに突撃からの、頭突きで腹に攻撃する。
ハクリュウとぶつかって勢いが弱まった一瞬、体を掴んで背後に回り込み、ハルバートで連続で斬りつけバックパックのスラスターを破壊する。
なんとか振り解こうとするも、先に足裏で蹴り落とされ地面に叩き付けられる始末。
一方でミドリは苦痛の表情で膝をついて、純と槍の対処を話し合っていた。
『修復プログラムはいつでもいける。後はミドリのタイミングでだが、無理そうか?』
「大…丈夫、です!この程度、問題ありません」
純達がやろうとしているのは、槍を引き抜いた瞬間に修復プログラムをミドリに実行して、傷口を瞬時に塞ごうという算段。出てしまったデータは後でも修復可能だが、戦闘の最中でそれをやるには時間が掛かる。もう少しハクリュウが粘れば完全修復出来るが、思った以上に悪戦苦闘している。一刻も早く援護に向かわなければならない。
『合図』
「はい…3、2、1──ッ!」
じわじわと引き抜くのではなく、一気に槍を抜いた。その方がデータが漏れ出る量に多少は違ってはくる。勢い任せに抜けた槍は投げ捨てると地面に転がって消えて無くなり、ミドリの腹は貫かれた穴が広がってデータがとめどなく溢れ出る。
ミドリは少しでも出ない様に腹部を押さえ、修復プログラムによって回復するまで耐え抜くしかない。
プログラムは実行されて傷口はみるみると塞がり、数秒もすれば傷跡も残らない程に綺麗に完治された。とはいえ、あくまで傷の完治のみ。貫かれた時の耐え難い痛みや、体力が元に戻った訳でもない。その為、立ち上がるのにも一苦労。しかし、これ以上の贅沢は言えない。
『ハクリュウも今は耐えているが、そう長くは保たない。辞めるなら──』
「辞めません。この程度で躓いている様では、純様の隣に立つ資格はありません」
その言い方はまるで、純より自分自身の方が劣っていると言っている様なものだ。人間とパーソナルAIサポートアンチウイルスを、マルウェア駆除で比較すると……いや、比べるまでもない。そもそも機械が、AIが人間よりも劣るなどと先ずあり得ない。精密さ、処理能力、制御、シミュレーションなどその他諸々、どれを取っても天と地、月とスッポンの差なのだ。
だというのに、このAIアンチウイルスは、自分よりも同等、又はそれ以上の存在と評している。
純は天才でも、秀才でも、ましてや天賦の才を持っている訳でもない。ITに関する知識なぞ、素人に毛が生えた程度のもの。
けれどそれが事実。どんなに言われようとも、ミドリがそう感じているのなら、純には純にしかない何かを秘めているに違いない。
『なら、シャンと立つんだな』
「はい、立ちました!」
『早ッ!じゃあ…もう少し頑張れたら何か欲しいものあげるって言ったら?』
珍しくも純が自らそう言ったのだ。中々こういう機会は滅多にない。ミドリは唸りを上げながら慎重に考える。食べ物、形となって残るもの。あれやこれやと頭の中をグルグル掻き回して、ピコン!っと頭の電球が光る。
「で、では──頭を撫でて貰っても宜しいでしょうか?」
食べ物でも、形となって残るものでもない。ミドリが欲したのは、純の『気持ち』だった。食べ物は一瞬で終わり、形は記憶として残るが、いつかは忘却の彼方へとなる。気持ちなら心は満たされる。純の事が本当に好きだからこそ出た、ミドリが欲した素直な今の言葉であり、気持ちなのだ。
『意外だ。もっとこう、ドカーンっとしたものをねだるのかと思っていたから、少し身構えていたつもりだけど…お前がそれで良いって言うのならそれを目指して頑張れ』
落とした大鎌を拾い上げて両手で構え、今も尚痛め付けるトロイの木馬に敵意を向ける。それを感じ取ったトロイの木馬は、ハクリュウから手を離してゆっくりとミドリへ体を向ける。
純とそれなりに話していたお陰で、多少ながら痛みは引いており、体力もそれなりに回復した。万全とはいかないが、それでも思う存分動けるくらいまでにはなっている。それだけで充分だ。
お互いに離れている距離を保ちつつ、円を描く様に歩きながら出方を伺う。先手を打つか、それとも後手に回ってカウンターを狙うか。
「──ッ!!」
先に動いたのはミドリ。迷わずトロイの木馬へと一直線に駆け出す。大鎌を大きく振り上げて攻撃のモーションに移る。隙は大きいが、敢えて隙を作らせる。普通の敵なら、先ず隙だらけの正面から潰しに来るのがセオリー。それだけで相手が仕掛けて来るコースが絞れる。そこから、左右どちらかに動こうとするのなら、更にそこから相手の動き方も読み取れる。
どちらにしろ、大鎌が届く範囲まで接近していたらハルバートも思う様には動かせれない。長物の武器を扱うには、相手との距離が大事だから。
さぁ、ここらどうする?狙い通り真正面から来るか?それとも左右に避けて安全牌を取りに行くか?
トロイの木馬が選んだ選択肢は───後退だった。
バックステップでの後退と同時に、ハルバートを上と振り上げて大鎌を弾いた。後ろへと下がり、その分ミドリとの距離が、ハルバートを振り回されるくらい開いたのだ。
「逃がさない!」
強引に一歩踏み締めて前へ出る。距離は再度縮まって間合いに入れた。前に出た勢いに任せて顔側面に蹴りを入れる。それでも尚それに反応して、腕で防御をして攻撃を防ぎ切る。
両足が地面について一息吐くのも省き、攻めの手を緩める事はない。大鎌を細かく振り翳して連撃で攻め立てる。大鎌とハルバート、二つの長柄の攻防は何度も響き渡る音でその激しさを物語っている。
互いの刃が肌を、鎧を傷付けて防御お構いなしに攻撃という動作のみに極振りしている。
均衡が保たれているとはいえ、ハンデを負わされているミドリにとって短期決戦が望ましい。
もつれ合う二つの武器、鍔迫り合う中でトロイの木馬は巧みにハルバートを操って大鎌を天高く弾き飛ばした。
トロイの木馬は体を大きく捻り、渾身の一突きで今度こそミドリを仕留めに構えた。武器は、あの大鎌一つしかミドリは持っていない。純に新しい武器を作り出すにも、あまりにも時間が無さ過ぎる。回避するのか、それとも危険を顧みず勝負するか。
──答えは言わずもがな。
「言いましたよね?────私は“逃がさない”と」
武器は無ければ補充すらままならない。選択肢は一つに絞られる。それは前に出ること。それ以外の選択は無い。
両の手でハルバートの柄を下から押し上げる様にして、己に対する攻撃の軌跡を強引に上へと逸らす。しかし、前へと突き出す勢いだけは止める事は出来ず、ミドリの右肩を深く切り裂き、データを抉り取る。傷は深いが致命傷とまではいかない。まだ動ける、まだやれる、まだいける、まだ、まだ……。
──もう、終わりにする。
瞬間、ミドリの中でスイッチが入る。勝手に何かが動き出した。アクセスした。起動した。実行した。
止まらない、止めれない、制御出来ない、どうしようもない、どうする事も出来ない。何かが体を支配して、無理矢理動かす。そこに己の意思は必要無い。本能のままに全てを────破壊しろ。
押し上げたハルバートの柄を握り締め、最も容易くへし折ってみせた。その破片がキラキラと煌めく雨の様に降る中で、ミドリの瞳は酷く冷たく、冷酷で、残酷なものとなっていた。
──嗚呼、なんともまぁ、おいとわしやですこと。
左手の指を細く密着させて手刀を形取り、貫かれた腹のお返しと言わんばかりに鋭い一撃が、トロイの木馬の腹に突き刺さる。
だが、消滅とまではいかなかった。わざと急所を外して生かしたのだ。葬る事は簡単だ。しかし、たった一撃で終わらせてしまうのも芸もなければ、花もない。
空に大輪の華を咲かせよう。
左手を引き抜き、崩れ落ちるトロイの木馬を雑に掴んで天高く投げ飛ばした。
離れた場所では、既にリチャージを終えて待機していたハクリュウがレールガンを構えてある。空中へ放り出されたトロイの木馬に照準を合わせ、目標を狙い定める。
『ファイアー!』
「御座る!」
叶の合図と共に、破壊のエネルギーが集約されたプログラム砲をトロイの木馬へと穿つ。空に青い閃光が駆け抜けるのを見上げながら、ミドリは密かに口角を上げて笑っていた。
勝利を確信した笑いなのか、それともこの状況を楽しんでいる嗤いなのか。
どちらにしろ、放たれたプログラム砲はトロイの木馬を着弾して、青く広々とした電脳世界の空に大輪の華を咲かせた。今度は完全に撃ち抜いており、消滅をもって今回の駆除はこれにて終了するのであった。
『………』
モニター越しからミドリを見つめる純。純の知っているミドリとは少し様子が変わっていた。ミドリの髪色は普段薄緑色なのだが、髪の半分が真っ黒に染められ、心なしか黒いモヤの様なものまで周りに浮き上がっていた。
瞬きをすると、それは一瞬で消え去っていつものミドリの姿へと戻っていた。
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「あの、純様これは一体…」
「頑張ったら、頭撫でて欲しいってお前が言っただろ?」
「はい、ですが、これは──!」
ミドリが欲しかったものをちゃんと純は与えており、その頭を撫で回しているのだが、当の本人は何故か落ち着かない様子でいる。
それもその筈、ミドリの今の状況は撫でられている事に加え、膝の上で座っており、後ろから抱きつく様にして腰に腕を絡めて、頭に顔を埋めている状態なのだから。まさか、要求以上の事をして貰えるとは思ってもみなかった。
「お前からいつも攻めてる癖に、受けに回ると急にしおらしくなるな」
「はい、はい…」
胸の鼓動が高鳴まって、耳まで聴こえてうるさいと思える。いつもミドリから迫って来てる事もあり、中々受けに回る事など無い為こういう状況になると急に愛らしいものとなる。返事も弱々しい。
そんな二人の様子を、叶とハクリュウはお茶を啜りながら目の前でこのやり取りを見せられていた。
「君達は本当に仲が良いね」
『恥ずかしく無いで御座るか?』
「それ以上はやめろ」
その様な言葉を投げ掛けられると、抑えていた感情が溢れ出して顔を上げれない。それは置いといてだ、気になるのは電脳世界でのミドリの様子。トロイの木馬を駆除したあの強力な力。まだミドリ本人すら知らない力を、彼女は秘めている。それが何なのかは不明。傷の修復と共に、その力に関する事を調べようとしてミドリのデータを一から漁ってみたのだが、それらしいものは見当たらなかった。
結果的にトロイの木馬は駆除出来た。それ故、あの力を手に入れられたらと思う。
「純様?どうかなされましたか?」
「なんでもない」
名前を呼ばれて我に帰る。ミドリにも少し様子がおかしいと思われ、それを誤魔化す為により一層ミドリの頭に顔を埋める。ほのかに香る匂いが濁った考えを紛らわす。駆除を終えたばかり、一段落ついた事にあれこれ考えるのはよそう。
「そうだ、忘れるところだった。実は、姉さんが明日お邪魔するつもりだけど構わないだろ?何せ、君の大好きな姉さんだからね」
「その言い方やめろって」
「でも、間違いではないだろ?」
否定はしない。純は叶のお姉さんに“恋”しているのだから。