第7話 トロイの木馬(Ⅰ)
何でも平和の今日この頃。仕事の依頼も無ければ、急かされる書類仕事も無い。そう、オアシスとも呼べる完璧な休日を純は今過ごしているのだ。
誰にも邪魔される事なく、気分爽快で優雅な一日を過ごせる。
「純様ー!今日は少しカッコよく、イメージチェンジしてみました!見て下さい!」
彼女、ミドリが話し掛けなければ。
浮き足だって話し掛けるミドリの姿はいつもの黒ドレスではなく、全身黒いスーツと丈の短いスカートに身を包んでカッコよく着こなしていた。髪も結んでポニーテールにし、この姿のチャームポイントである黒い手袋までしていた。
確かに言われれば良いものだ。そもそも、ミドリ自体素材として一級品。可愛く服を着こなす事もあれば、今回の様に男性以上にビシッと着こなせれる。
でも、だからといって貴重な休日を邪魔される訳にはいかない。取り敢えず、返事だけは返さなければいけない。純も鬼ではない。褒める時は褒めるし、優しくしたり、甘えてきたらそのリクエストに応えるよう努力はしている。度が過ぎなければ。
「あーうん、良いんじゃないか。カッコよくあればそのスカートも可愛い」
「ありがとうございます純様ー!」
結構適当に返したつもりだが、ミドリにとってはどんな言葉でも最上級の価値へと変換される。なんとも都合の良いものだと思う。でも、それで済むなら楽なものだ。
でも、気になる事もしばしば。本当に今日は何もする事無いのだ。なのに、そんな動きにくそうな格好をして大丈夫なのか、固い格好で息苦しく無いのかと思う事も。いや、本人が自ら着替えて気に入っているのだ。ツッコむのは野暮だろうし、気を悪くさせたくはない。
それに休日くらい、ラフな格好をしたって誰も文句は言わない。
「久し振りの休日なんだからもっと楽な格好をすれば?」
「お気遣いありがとうございます。ですが、世の男性はこういうギャップのある服装が好きだと。純様もどうかなと」
それはズルい。確かに普段はドレスしか着ない分、他の服装を見るといつもと雰囲気も違って見え、それに目移りしてしまうのは事実。狙ってやってるのか、はたまた素でやっているのかは不明。
今の服装にだって気になってしょうがない。けれど、それを口にしたら、碌な目に遭わないのはもう薄々勘付いている。一人でテンションが上がるのは良いが、その勢いでこっちまで火の粉が降って来たら、そりゃあもう恐ろしい。一体何されるか分からない。分かりたくもないが。
「くだらない事を調べる暇あるなら少しは休めよ。AIアンチウイルスにだって調子の波はあるだろ」
「それはそうですが…んっ」
ミドリを強制的に膝の上に寝かしつけた。いわゆる膝枕の状態。ちょっとした仕草で大興奮を隠せれないミドリだが、この様な距離の近い事をされると大興奮のゲージは限界突破して逆に大人しくなる。まるでこの世の真理を知ったかのように。
更にそこへ頭も撫でられる。破壊力はかなり抜群であった。
マルウェアの駆除となったら、戦場に居る居ないに関わらず背中を預けるパートナー同士。AIアンチウイルスにも、緊張感の無い場所を提供してやらなければならない。
ゆっくりと撫でるに連れて、ミドリの瞼が落ち始めている。純の身の回りの世話も毎日しているから、疲れが溜まっているのだろう。だったら、このまま気持ち良くなって寝てしまえばい良い。
もうすぐ、夢の中へと誘われるというのに安らかな時間がここで打ち切られる。
インターホンが鳴ったのだ。それに反応してか、ミドリは即座に体を起き上がらせて玄関へと向かう。
「はい、ただいま」
手元から離れて行くミドリに少し名残惜しかった。いつも無茶させてる分、楽になって貰いたかったが中々そうさせては貰えなかった。
今日は休日。どうせ何かの荷物が届いたのか、宗教の勧誘などと勝手に思う。
その受け答えが終わったらまた続きだ。そうすれば、またミドリに安らぎの時間が訪れる。
「純様、珍しいお客様です」
やっぱり訪れなかった。ミドリに気を遣わせてやろうと思えばすぐこれだ。何かと邪魔が入る。握る拳を自制して、上がり込むお客の出迎えをする。
純の目の前に現れたのは、中学生くらいの身長の女性一人だけ。純とミドリはこのお客を知っている。というか同業者であり、良き相談相手の友達。
「君達が相変わらずで安心したよ。コレ、お土産だよ」
白塚叶。身長は中学生と何ら変わらない程で、そんな低身長な見た目でも純とは同い年の女性。
白い髪のセミロングヘアーが特徴的で、空の様に美しい青い瞳がマッチしてより際立たせてる。服装はまるで研究者の様な格好をしており、髪の毛同様に大きな白衣が目立ち、灰色のスカート、黒のストッキングに茶色の革靴を履いている。
同業者という事で、彼女もまたバディハッカーの一人。出会ったのは1年前となるが、それがきっかけで以降連絡し合って、最近のマルウェアの情報交換などしている。共に仕事をした事もあるが、それはまだ片手で数える程度。それでも信頼関係は、こうして突然訪ねて来るくらいは築いている。
「ご丁寧にありがとうございます。今日は、どの様なご用件で此処へ?」
「簡単な事だよ。ちょこっと、マルウェア退治を手伝って欲しいのだ」
叶が懐から、一つの外付けのハードディスクを取り出してテーブルの上に置く。ハードディスクがどうしたのかと訊こうとするタイミングで、叶がその説明をしてくれた。
「実はこの中にマルウェアがあってね。今後の実験も兼ねて駆除するのを手伝ってくれないかね?」
「そんなの自分達でやれば済むだろ。何でわざわざ俺達を頼るんだ?」
「君も知ってるだろう。ここ最近、新種のマルウェアが世に出回り始めてる事を」
確かに、ここ最近その情報は耳にする。実際、純達もそれを目の当たりにし、しかも駆除するのにかなり苦戦を強いられた。それについて、今後の為のものなら仕方ない。次に出会した時に、役立つかも知れないから。ただ本当に疑問に思うのは、何故それを純の家に来てそれを試そうとするのか理解出来ない。
「俺の所の機械ダメにするつもりか?」
「……大丈夫だ。自分も参加する」
「おい、何だ最初の間は。ったく、もしダメになったら弁償してもらうからな」
その実験に付き合いはするが、デスクトップパソコンが壊れるようにでもなってしまったら、色々と問題がある。その実験をやる前に、純は大事なデータをミドリウェアを使ってバックアップを取る。
過去に一度だけ、デスクトップパソコンにウイルスが感染して痛い目を見たのだ。その時は幸いな事に、新品のパソコンだった為何事も無かった。それ以来、ミドリ特製のファイアウォールでマルウェアの侵入を防いでいる。
ところがまさか、自らそのマルウェアを侵入させて感染させるとなるとは思わなかった。
「そういえば聞いてなかったが、何のマルウェアを侵入させる気だ?」
「《トロイの木馬》だよ」
《トロイの木馬》は、ワームやウイルスとは違い自己増殖はしない。しかし単独で存在し、正規のソフトフェアやファイルを装って働く不正プログラムのこと。受ける被害はワームやウイルスと同じ内容と言えば普通だと思うが、正規と装う為に引っ掛かる人も存在するので面倒なのも確か。
「オートラン・ウイルスか?何でトロイの木馬なんだ?」
「今回は実験的なものと言ったであろう?少し弄ればどうとでもなるさ。それとマルウェアとして存在はしているが、機械に害さないようにプログラムしてある。ただその分、中々手強いよ」
害の無いトロイの木馬が、手強いとは意味が分からない。そもそもそれはトロイの木馬、マルウェアと呼んでいい類いのものなのか些か疑問に思う。
考えても埒があかない為、取り敢えず外付けのハードディスクをパソコンに繋げてみる。そうすれば、嫌でも何かしら分かるだろう。
案の定モニターの真ん中に、あからさまなファイルが転送されていた。
叶の方を見ると、小さく頷いてクリックする様に促していた。恐らくこのファイルの中に、お待ちかねのトロイの木馬が潜んでいる。
ゆっくりとカーソルをファイルに合わせ、クリックする。
すると、ミドリが何かを感じ取ってミドリウェアを操作し始めた。実体化していても、常にミドリウェアとリンクしている為、何かしらのトラブルなどがあればミドリに伝達される仕組みとなっている。
ミドリが動いたという事は、正にそのトラブルなどが起きたのだ。
何やら、青ざめた表情で純を呼び掛ける。
「じゅ、純様これ見て下さい。純様のパソコンは常にミドリウェアと同期されておりますので、何かあればミドリウェアと私の方へ連絡が行かれる様になっております。それで…」
ミドリが指差す画面を見ると、叶は「あちゃー」と言った表情していた。純は、未だに知識が乏しいので意味が分からなかった。
「その、要約しますと『私のアンチソフトウェアが自己破壊を開始した為、あらゆるソフトウェアがダメになった』と…」
「はぁ!?」
いくら知識の乏しい純でもこれだけは分かる。トロイの木馬に、そんな悪さをする力は無いということ。それにこの手のやり方は、マルウェアだけではなく、人間の手であるサイバー攻撃者も必要とされる。
叶がそんな事をしている様子は無い。では、一体誰がこんな事をしているのか。
「姉さんが裏でやってくれている筈だよ。実は自分も、どんなトロイの木馬が出されるか知らなかったんだよー。まさか、こんなモノを開発していたなんて」
叶の「お姉さん」が裏で手を回していたまでは良い。純が驚いたのは他にも理由がある。それは、ミドリのセキュリティシステムを破られた事にだ。純が自慢する事ではないが、ミドリのアンチウイルスソフトウェアはかなり頑丈なもの。
脆弱性がある部分を狙ってやったに違いないが、ここまであっさりとやられると驚くのも無理はない。
そしてあっさりと無力化された本人は、精神的にダメージを食らっており、膝をついて凹んでいる。
「あぁ…私って意外と脆い様ですね…」
「そんな事ないぞ!ミドリは強い!強いからとっとと片付けるぞ!!」
ミドリウェアを操作して強引に中へと引き摺り込み、パソコンへとケーブルを繋いでいつでもダイブ出来る準備をする。勿論その隣では、自分も参加すると言った叶も、ガジェットであるタブレット端末をケーブルに繋ぐ。
ボタン一つでミドリは電脳世界へと飛び込み、実験と称するマルウェア駆除が開始される。
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ミドリが降り立った場所は、先程ハードディスクから転送されて開いたファイルの中。相も変わらずだだっ広い青い空間が存在し、そこにミドリは立っている。ファイルの中は余分な物が入ってないせいか、いつもの様に扉など無くその空間一つだけ。
黒スーツに身を包んでいた姿も、戦闘態勢になるといつものドレス姿に変わっていた。大鎌を携えて、もう片方のAIアンチウイルスの到着を待つ。
ドシャーンっという大きな音と煙と共に、何かがミドリの背後に落ちた。その衝撃で、一瞬だがミドリの体が浮き上がりもした。
振り返れば、その影だけでミドリを覆い尽くす程の巨体の持ち主が居た。
「ハクリュウさん、お久し振りで御座います。たくましいお姿を、またお目に掛かれるとは思いませんでした」
上品にスカートを摘んで膝を曲げ、体を少し沈め挨拶をする。ハクリュウと呼ばれた人物……と呼ぶには少々難しい。
ガタイは人間の比率で考えると2メートル程の高さに、肩幅の広い体。龍の様な体をしてる割りに、ちゃんと二足歩行をしている。黒と白の装甲を有しており、更に様々な機械仕掛けの武装がされている。バックパックには、飛行を可能とするウイングとレールガンが二つ配備されている。その装備全て、白一色に染まっている。正に白い龍そのもの。
とはいえそれらの装備品、あくまで副装。メインウェポンはその強靭な体だ。
「テーマが機械という事だけあって、色々と頼らせて頂きます」
「吾輩も、ミドリ殿を頼らせて頂くで御座る」
ミドリとハクリュウ共に生真面目な性格をしてる事から、かなり堅い挨拶を交わしていた。純と叶と同様に、ミドリとハクリュウもそれ以上にお互いを信頼関係を築いている。この二人に関しては、電脳世界を介してよく密会をしており、お互いのパートナーであるバディについて語り明かしている事も。
和気藹々と喋るのも良いが、ミドリとハクリュウは目の前のマルウェアを駆除するという大事な使命がある。いつまでも油を売っている訳にはいかない。
「ハクリュウさん────来ますよ」
真上からキラリと光る一筋の軌跡が降って来る。二人は最初から気付いていた様子で、その場から飛び退いて回避し、同時にその場に一本の槍が突き刺さる。
遅れて騎兵が上から降って着地する。この騎兵こそがマルウェア・トロイの木馬である。
地面に突き刺さった槍を引き抜き、その先端部を二人に向けて敵意を露わにする。この奇襲の事も考えるに、相当殺気立っているのが理解して取れる。ならばこちらも、それなりの対応を取るまで。そもそも最初からそのつもりだ。
しっかりと臨戦態勢を取り、二人同時に仕掛ける。ミドリは高く跳び上がり、ハクリュウはその巨体を活かして力強く突進する。正面からの攻撃とはいえ、二方向同時には対応出来まい。
「──!!」
対応出来まいと思っていた───ミドリの大鎌は槍で防ぎ、ハクリュウの突進は馬が頭で受け止めた。それをただ普通にやってのけた。これは非常にマズい。
一度二人は距離を取りつつ、次の攻撃モーションへと移行する。ミドリは大鎌を大きく振って緑色の斬撃を放ち、ハクリュウはレールガンを両肩に構えて一斉砲撃。
斬撃はたった一振りで掻き消されたが、レールガンから放たれた砲撃は真正面から直撃。しかし、それでも足りぬ。怯ませて、後退させる程度のダメージしか与えられなかった。
普通のマルウェア相手なら、この一撃で消滅させられる高火力を有している。実験とか言っていた癖に、マルウェアの強さはかなりハードモード。
「強いですね…ですが、私の方が強いです。何故ならば純様が見ていますので」
「ハハ、ミドリ殿は一途で羨ましいで御座る!」
「ありがとうございます。後で、お茶でもご馳走しますね」
ミドリとってそれは当たり前の事だが、改めて褒められた事につい嬉しい気持ちが出て、敵が目の前に居るのにも関わらずお茶会の約束をする。強い敵相手に余裕を持つのは良い事だが、持ち過ぎるのも考えもの。
勝てば問題は無いが、それが難しいから苦戦しているのだ。少しは緊張感を持って欲しいと思うばかり。
『では、自分達も終わればお茶でも』
『お茶が好きで何よりだな!マルウェア駆除に集中してくれるか?』
叶も悪ノリして純を困らせる始末。中々純の味方になってくれる者は一人としておらず、いつもこんな調子なのだ。泣きたい気持ちにもなる。
「大丈夫です純様。私は、いつだって集中しております!」
馬に跨って槍を振り翳して接近する相手に、大鎌で防御の後に馬の顎を蹴り上げて反撃。バランスを崩すトロイの木馬に追撃からの回し蹴りをお見舞い。
乗馬していた兵を地面に引き摺り下ろす事に成功した。これで優位性は変わり、同じ地上での戦いになるが数では此方側が有利。
「攻めますよ!」
「御座る!」
「……前々から思っていましたが、その、何と言いますか、喋り方がかなり個性極まっていますね」
別に今それを言わなくてもいい事を本人の前で溢してしまうも、ハクリュウは別段気に留めていない。
バックパックに備わっているスラスターにブーストをかけて、兵士の懐に一瞬で潜り込み、左で腹を下から抉る様に打ち込んで天高く吹っ飛ばした。それに合わせるミドリは、踵落としで地面へと叩き込み、着地と同時に膝蹴りも加えた。
その衝撃で兵士の体はグチャグチャとなり、0と1の羅列のデータが大量に溢れ出す。ここまで溢れ出るとなると、消滅は時間の問題。とはいえ、最後まで油断は出来ない。修復する事もあり念には念を入れて、畑を耕す様にミドリがサクサク切り刻む。
「よいしょ、これで終わりですね」
「叶殿、純殿、目標は沈黙で御座る」
出現したマルウェアを撃破。ミドリとハクリュウは、帰還する為その場で待機している。しかし、現実世界に居る純と叶は真剣な目で画面を見ていた。
その画面には、まだマルウェアが存在している反応が示されている。まだ戦いは終わってないということ。けれど、ミドリ達が居る電脳世界には反応はあっても、敵らしい姿が無い。目を凝らしても見えない敵。
『どう思うコレ』
『どうもこうもないだろう。トロイの木馬は駆除したというのに反応が消えない。敵はまだ居る。自分達は何か見落としている』
叶は改めて電脳世界の中をスキャンする。より鮮明に、より細かく、より深く。スキャン完了の表示が出た。自動的に映像が映し出されて、ようやく反応があったマルウェアの存在をその目にした。しかしそれは、目を見張るものだった。
『ミドリ!ハクリュウ!逃げるんだ!』
『それだと間に合わない!』
急接近する相手の存在にミドリ達はまだ気付いていない。外から見ていた純達だけがその存在に気付いて呼び掛けてるが、もう遅い。防御しろと、叶が必死に呼び掛けてやっと気付いてくれた。だけど間に合わない。
「すみません、ハクリュウさん!」
ミドリはハクリュウを蹴り飛ばして何とか危機を逃したが、ミドリだけはそうもいかなかった。鋭いものが腹を貫き、そのまま壁まで押し込まれてしまう。
「はぁ…はぁ…トロイの木馬、そういう事ですか…ッ!」
接近して来たのは、兵士と一緒になって戦っていた馬。兵士の方を駆除すれば、自然に馬も消滅される筈なのだが平然としている。それだけなら良いが、背中から腕が一本飛び出しており、槍が握られていた。その槍がミドリの腹を貫いたのだ。
馬の身体から少しずつヒビが入り、同時に中から人の手足が飛び出てくる。そうして、完全に馬がバラバラとなり、その中から新たな兵士、というより中世騎士が現れた。
まだ、マルウェアは完全に駆除してはいなかった。