第十四話 北条からの歓待
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現在、坊丸は小田原城に来ている。後北条氏による小田原城の改築は大きいものでは少なくても二度あったと考えられている。最初は伊勢盛時が小田原城を得た直後(今から四十九年前)で、ほぼ同時期に鎌倉に大被害をもたらした大地震があったと言われており、文献上の記録は無いものの距離的に近い小田原も被害を受けた可能性があり、戦闘と地震による打撃を回復させるための改築が行われたと見られている。しかし、伊勢盛時の拠点は韮山城であり、盛時の死後、伊勢氏綱が小田原城に拠点を移したという記録がある為、盛時ではなく氏綱が行ったものであろう。
もう一度は、永禄九年(今から二十二年後)から同十二年の時期に小田原城の改築に関する文書が多数発給されており、この時期に相次いだ上杉氏・武田氏の侵攻に備えたものと考えられている。この頃の城普請の作業内容は土塁と堀の築造が主体で、三の丸外郭を充実させながら、新たに外周に三の丸の外郭を構成し、三の丸の低地部分が優先となり、次に山岳部の外郭を築造したと言われている。
つまり、今は二の丸までしかない小田原城なわけだが、歴史オタクだった坊丸にはそんな事はどうでも良い。小田原城に入る前に、「ふぉーーーー」と奇声を挙げてしまうほどには、興奮していた。ちなみに、足利学校に医師を誘致しようと訪問する時に立ち寄った時も同じ事をしている。
閑話休題
坊丸が小田原に来たのは、駿河戦で今川を足止めしてくれていた御礼参りとこれまでは密約だった同盟を確かなものにする為である。黒船を沖合に碇泊させ、小田原城に近い港に小早に乗り換えて向かった。令和の時代には小田原漁港になっていたと記憶している。その為、ガレオン級はおろか安宅でも厳しい港だった。
普段なら、こんな所に、北条の家臣団は来ないだろうに、御由緒家の大道寺太郎・多目権兵衛・荒木兵庫頭・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛尉と北条五色の北条上総介・北条常陸介・富永左衛門尉・笠原能登守・多目周防守が勢揃いしている。多目が二人いるのは、権兵衛が老齢な事を考えると先代かもしれない。流石に草創七手家老本人ということはあるまい。そうだったら少なくとも九十代だが、そこまで老いてはいなかった。
さて、北条方が何故こんなに大仰かと言えば、黒船・南蛮船による駿河沈没を目の当たりにしたからであり、目の前の海には黒船が見えている。いくら坊丸が友好的な態度で接していたとしても、今の北条家は河越野戦前の、まだ伊豆と相模と小机領・江戸領・河越領(武蔵の一部)と葛西領(下総の一部)を押さえただけの、織田家の方針変換次第ではいつでも吹き飛ぶほどの武家に過ぎなかった。
対して、坊丸は今回の戦で遠江十七万五千石、駿河十万三千石、信濃十八万八千石、甲斐十五万七千石を切り取り、本拠三河五十万石を合わせると百十万石超えの大名と言って良い。さらに織田本家百万石(坊丸の魔改造により明治十五年くらいの石高になっている)を加えると二百十万石超えの大大名家の子息だ。疎かにして良い理由はない。
そもそも、駿河が沈没したようにしか見えなかった合戦の様子を見ていた面々である。従属の声も出たくらいだ。しかし、それは坊丸の本意でないことと、それを伝えた結果、木曽がどうなったかを風魔から聞いた北条方は滅ぼされてはかなわんと、今のような歓待となった。なお、元々決まっていた長女春の側室入りに加えて、嫡男西堂丸が側近・次男松千代丸が小姓になることまで決定されていた。
坊丸はそのような状況とは思わず、二度目となる小田原城入りをした。会盟に関する会談を前に控え室で、連れてきた小姓の本多吉右衛門と護衛兼小姓の新左衛門兄上が甲斐甲斐しく、お世話してくれている。外交官として連れてきた快川和尚はまったりお茶を飲んでいる。
ここまではいつもの風景なのだが、小姓に混じって甲斐甲斐しくお世話してくれる北条方の人間が気になる。嫡男西堂丸くんが何をしているの?君、お世話する側じゃないよね?一歳年下とは思えないほどテキパキと良い動きをする(自分を棚に上げるスタイル)。そして、小坊主よろしく、辿々しいながらも甲斐甲斐しく世話を焼こうとする六歳児松千代丸。微笑ましいが、そうではない。嫡男二人に何させてるの?北条さんよ!




