第五話 遠江侵攻の大義名分だった男
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戦国時代とは、群雄割拠の時代というイメージをお持ちの人も多いだろう。中華でも日ノ本でも戦国時代は、血で血を洗う国取り合戦で終始した時代と思っている人も多かろう。某野望ゲームでも戦争するのに理由はいらなかった。しかし、ここは現実世界だ。戦争を仕掛けるのに、理由もなく起こすとあっという間に、幕敵・朝敵になりかねない。だから、戦争を起こすには大義名分となる理由が必要となる。
今回の坊丸等による四国侵攻には、それぞれの国々に対して、強弱はあるものの大義名分がある。信濃侵攻は木曾家による織田本家への侮辱。甲斐侵攻は家臣となった武田陸奥守の権威回復。駿河侵攻は、三河侵攻の時から始まった今川との戦いの決着をつけるというもの。そしてこの遠江侵攻は、三河奪還と銘打ち小競り合いを繰り返す松平広忠への報復。
三河侵攻から四年経っても、松平広忠は成長していなかった。常に自身の運の無さを嘆いて、今川の支援が来たらば兵を集めて、何の考えも無しに三河へ侵攻してきた。徳川家康には我慢の人というイメージがあるけれども、父親には真逆のイメージしかない。癇癪の人か薄弱の人か怠慢の人か奔放な人いずれも当てはまりそうな行動であった。
遠江には松平信忠・清康時代から、三河から追われた人たちも多い。内応者の多くは、今川に恩は感じるものの、松平広忠を支援する姿勢に不満を持つものが多い。例えば、本来なら井伊三人衆と呼ばれた近藤や菅沼が松平広忠を支援したが故に、井伊氏の所領が圧迫されて、本家井伊氏は内応した。熊谷備中守は松平清康に三河を追われ、今川家の庇護下に入った事を恩に感じていたが、嫡子は不満に感じて内応した。
直接、松平広忠が原因ではないが、今川義元の遠江政策も不満の種だった。本来の曳馬城主は鵜殿藤三郎ではない。飯尾豊前守である。しかし、妹婿だからと藤三郎を城主にして、三河奪還を任せようとした。飯尾は周辺の浜名に移され不満を抱え、元々の浜名周辺を治めていた国人の浜名氏はもっと不満を抱えることになった。結局、鵜殿も飯尾も浜名も坊丸側に内応する結果となった。
他にも遠江には、反今川になる理由がある。遠江は数代前まで斯波氏の守護国だった。当時の人はとうの昔に現役ではなくなっているけれども、今の今川義元は「海道一の弓取り」と呼ばれた最盛期の今川義元ではない。それよりも十歳は若い今川義元なのだ。お膝元の駿河ならいざ知らず、少し離れた遠江の支配力は弱かった。何重もの意味で司笆左馬助は調略しやすかったと言える。
さて、遠江の大義名分の話に戻る。曳馬城編集の成果として、曳馬周辺の住民を惹きつけた事には触れた。当然、あのバカも釣れたのだ。突撃するバカに引きずられる形で、千ほどの兵が曳馬に向かっていると坊丸は小角衆から報告をもらった。閲兵式の前に、兵を出すのは、些か格好が悪い。
この超巨城曳馬の天守閣からは遠江中がよく見渡せた。勿論、城近くに迫る松平広忠勢も丸見えである。三河から持ってきた最新兵器の無音銃の弾を確認して、技能「狩人」「必中」「必殺」「瞬殺」を意識する。続いて固有技能「天武」「天運」を意識して、引き金を七回引いた。
コーン・コーン・コーン・コーン・コーン・コーン・コーンと鹿威しのような音が城内に聞こえた。近くの者には聞こえたが、城の端にいた者には何か音がしたかな?という程度の事だったろう。
こちらに向かっていた小勢力は、将を失い、ただの烏合の衆となったようで、散り散りになって消えていった。遠江を落とした今、大義名分は必要ない。明日は閲兵式だ。気持ちを入れ替えて、挑もうと気合を入れ直す坊丸であった。




